2 マドカって何者なの?
紅葉はハッと目を覚ました。背中がびしゃびしゃに汗をかいている。ちょうど3日前、マドカが去った日のことを夢で思い出してしまった。時刻は午前5時半、そろそろ朝が明ける頃だ。
衝立の向こう側でショーンが寝息を立てていた。眉間にシワを寄せ、尻尾をピクピクさせ、たまにゴニョゴニョうめいている。紅葉はひとまず安堵し、足を忍ばせ……自分のベッドに戻った。
戴泉明。昔はサウザスの整形外科医・鍼級医で、現在クレイトに医院を構える彼は、案の定、警察が入った時点でとっくに医院を畳み、逃げ出していた。閉院日は、町長吊り下げ事件の当日だったそうだ。出身はファンロン州、歳は57、行き先は不明。
もっか州警察が捜索中だが、ラヴァ州警察では他州へ介入する事ができない。マドカが単身ファンロン州に乗りこみ——戴本人がいるかは不明だが、何か手がかりを掴んでくれると期待している。何せ、あのアーサーの信頼する人なのだから……
ふぅ、と紅葉がため息をつき、毛布をかぶった。3月の朝はまだ肌寒い。
あの日、マドカのメモには『10/12 12:00 La cascade et la falaise.《ラ・カスケード・エ・ラ・フレーズ》』と書かれていた。意味は『滝と崖』。酒場ラタ・タッタのオーナーであるニコラスによると、ルオーヌ州の有名な観光地のレストランらしい。
『なんでファンロン州じゃなくて、ルオーヌ州?……しかも10月12日って、10年前の私の事件があった日付だよ』
ルオーヌはラヴァの西にある州だ。州全体が山の高地にあり、ラヴァ州西端のグレキス地区からは、山登りして向かわねばならない。
『……分かんないけど、確かマドカってルオーヌ州出身なんだよ。故郷とか、思い出の土地なんじゃないか?』
ショーンが首を捻った。酒場オーナーのニコラスとともに、3人はマドカの部屋にいた。最低限の家具と服以外には何もなく……いや空の酒瓶とタバコの吸い殻は大量にあったが……とにかく、前まであったはずの物が無くなり、いつでも消えられるよう処分された部屋になっていた。
紅葉の心がざわざわした。まるで胸を細かく引っ掻かれるような違和感。不安をうまく呑み込めずに、言葉として喉に出た。
『マドカって——何者なの?』
『えーっと、マドカはある日、急に父さんが連れてきたんだ。僕が5歳くらいだったから15年前かなあ……。ちょっとの間、酒場に住み込みしてたんだけど、すぐに飛び出して東区のほうに行っちゃったんだよ。ウエイトレスとかやってたらしい』
『……お父さん……って、スティーブンさんが!? なんで?』
紅葉がまったく知らなかった関係性だ。酒場オーナーのニコラスは腕組みしながら、当時のマドカの様子を語った。
『あの子は、スティーブンの知人のお孫さんだそうだ。知人の方が亡くなって、スティーブンが身元引受人になり、サウザスに越してきた……といっても、反抗していて折り合いは悪く、すぐに去ってしまったがね。突然ここへ戻った時は驚いたよ、役場に就職したから下宿を借りたいと言ってきた。ショーンが魔術学校にいった年だから、入れ替わりのように感じた——確か7年前だ』
『……7年前』
28歳のアーサーが、組織のことを知ったのは20歳の時だ。それを聞いたマドカが潜入のため役場の警備員に……そんな感じだろうか?
『ま——とにかく、10月12日にルオーヌ州に行ってみるしかないよ。それまでに州外の呪文許可が下りればいいけどね』
ショーンはメモをサッチェル鞄にしまい、拳に力をこめて真鍮眼鏡を光らせた。
『とにかく、僕らはトレモロでがんばろう!』
ショーンの言葉を思い出し、紅葉はうつつの夢に戻った。気になることはたくさんあるが……今はトレモロで、やるべき事をする……
3月19日金曜日、時刻は午前8時半。
トレモロ到来3日目の朝も、からりとした陽気な空が広がっていた。
「すみません、アルバ様。今日の昼に、弊社の社長とランチして頂けないでしょうか」
「——はぁ!?」
今日もやる気に満ちていたアルバ様は、迎えに来てくれたテオドールに、いきなり頼まれ出鼻をくじかれた。
「どういうことですか。ランチ?」
「はい、場所は木工所内の眺望灯台になります。急なお話で申し訳ありません。昼1時にここへ迎えがまいりますので、それまでお待ちいただければ……」
「ま、待ってください、森での捜査は!?」
テオドールの隣でくちゃくちゃガムを噛む、エミリア刑事の顔を見た。
「心配しないで、アタシたちだけで行くから。今日は幸い、話の通じやすい木こりが相手だし。平気よ、あなたが居なくても」
エミリアは親指でグイッとギャリバーの荷台を指さした。大量の木こり達への貢ぎ物……食べ物に服に酒、エッチな雑誌が積んである。
「で、でも、僕には仕事が……」
「社長の機嫌をとることが仕事よ、アルバ様」
追いすがるショーンに、彼女はピシャリと大人の常識を食らわせた。大人って本当つまんない。
「じゃあねショーン、私たちがんばってくるね!」
「ショーンさーん、行ってきまぁ〜っす!」
森の捜査隊4名は、主役を置いていってしまった。残されたショーンは春の冷たい風に吹かれ、宿屋カルカジオの玄関扉にしばし呆然とつっ立っていた。




