イリス
イリスさん視点の話です。
「・・・。」
イリスには今、世界が見えていなかった。まるで地下深くにある牢獄にひとりとらわれているような、そんな感覚。あたりは真っ暗闇で、音も光も温度も・・・そして苦痛も感じない。
意識はある。思考もできる。しかし何も聞こえず、何も見えず、なにも感じることができない。自分が今どこにいて、何をしているのかも定かではない。自分が生きているのか死んでいるのか、それすらもよくわからない。
覚えているのは苦痛と、男たちの笑い声。終わることのない苦痛と屈辱に意識を失うと、いつの間にか身体が完全に再生される、その繰り返しの記憶である。再生装置のフタが開き、頭はクリアに、痛みは消え、全身から力がみなぎるような感覚になった瞬間の絶望感は二度と忘れることはないだろう。それは、再び始まる死より恐ろしい苦痛の合図だったのだから。
数十回、数百回、そんな苦痛を味わった。彼女はいつの間にかこの「自分の中の牢獄」にいた。世界は遠のき、苦痛はなくなった。ただなんとなく、まだ悪夢が終わっていないことだけは理解していた。まだ、ドロドロとした悪意を近くに感じていたから。
それからどれくらい経ったのか、ある時突然、悪意が消えた。その代わりに現れたのは・・・真っ白な豆腐だった。真っ暗闇の世界にひとつ、白い豆腐が浮かんでいる。豆腐の中心には、赤い点がひとつだけ付いていた。うめぼし?しかも・・・
「もう大丈夫デスよ、美しい方。」
喋った。豆腐が喋ったのである。イリスは自分が死んでしまったのだと思った。ここは天国で、豆腐は天使だ。まぁなんでもいい、ナイフとモヒカンがいない世界なら。
「それでは、チョット失礼しマス。お怪我はないデスか?」
「えっ?」
ふいにぬくもりを感じて驚いた。どうやら自分の身体はまだ生きていて、しかも軽々とお姫様抱っこされているのがなんとなくわかる。なにも感じることがなかった身体に、豆腐の身体・・・しかもとても男らしい筋肉質の身体が触れると、忘れていた温かさを感じることができたのだ。
「お豆腐さん、力持ちなのね。それにとってもあったかいわ。」
イリスの精神は肉体と切り離され、その意識は自分の殻の中にある。その言葉はむろん彼女の肉体を動かしたものではなく、実際に声が出ているわけではない。にもかかわらず、豆腐は首をかしげて答えた。
「我は湯豆腐ではないので温かくても食べられまセン。どちらかと言えば、食べちゃいたいのはアナタの方デスよ、美味しそうなお嬢サン?」
「わたしの言葉がわかるの?」
「もちろんデス。耳はついてませんがよく聞こえていマスよ。」
イリスは驚いた。自分は世界から切り離されて、もう誰とも話すことなどできないと思っていたから。しかし目の前の豆腐は普通に自分の言葉に返事をしている。自分だけの真っ暗な牢獄に、この豆腐は確かに存在しているのだ。豆腐の表情は読み取れないが、イリスには不思議と彼が笑っているように見えた。胸が大きくドキリと鳴り、また少し身体の感覚が戻ったと思った。しかし胸の鼓動はかつてないほどにうるさい。やはり自分の身体はどこかおかしいのだ。
「あの・・・わたし、イリスです。ドラゴン町長の孫娘、イリスです。」
「イリスサマ、初めまして。我は・・・通りすがりの正義のヒーロー。普段は武器屋の店員デス。」
「あの、わたし、自分の周りのことが分からなくて・・・お豆腐さんが助けてくれたの?」
「ハイ。悪はウンコのように滅びまシタので、もうイリスサマが苦しむことはありまセン。ご自宅までお送りさせていただきマス。」
「うんこ・・・?あ、あの・・・わたしのことは様をつけないで、イリス、って呼んでほしい・・・です。」
「ムムム・・・イリ・・・イリ・・・イリス・・・サマ。なかなか難しいデス!練習しマス!」
「クスッ・・・おかしなお豆腐さん。」
「オオ、思ったトオリ!笑うと100000割増でチャーミングデスね!」
「え、え・・・やだ・・・そんな・・・恥ずかしい・・・。」
それからふたりは色々な話をした。産まれ育ったドラゴンの町のこと、両親は亡くなっていて祖父が育ててくれたこと、町の若者が何人も求婚しにきたが、祖父がすべて追い返してしまったこと、そしてある日突然、野盗に拉致されてしまったこと・・・。ウォーリーも自分がロボットであることや3000年もひとりだったこと、それからこれまでに体験してきた冒険の話を(いくらか彼の活躍を誇張しつつ)かいつまんで話した。ウォーリーのぬくもりに包まれながら過ごす時間は実に穏やかで優しく流れていき、イリスの心をゆっくりと癒やしていく。
「お豆腐さん、本当にありがとう。わたし、こんな風に楽しくおしゃべりできる日なんて二度と来ないと思っていたの。」
「フフフ・・・大丈夫デス、これからはいくらでもおしゃべりできマスよ。もう悪い夢は終わったのデス。」
「でも、わたしの身体・・・きっともう、元には戻らないわ。」
「そんなことはありまセン。イリスサマの身体は傷一つありまセンよ。あとは時間をかけて心を休めていけば元通りデス。」
「・・・でも、なにも見えないし、何も感じないの。お豆腐さんの身体があったかいのはわかるんだけど・・・。」
「む、ではなるべく我が抱っこしておりまショウ。その温かさを手がかりにしてくだサイ。」
「・・・でも、お豆腐さんはずっとそばにいてくれないでしょう?ううん、いいの。きっとお豆腐さんを必要としている人が他にもたくさんいるはずだから。もう少し、もう少しだけ抱っこしてくれたら・・・それで、十分よ。」
「・・・。」
「ふふ、お豆腐を食べるたびにあなたのことを思い出すわね、きっと。」
「・・・。」
「本当に、ありがとうね・・・お豆腐さん。」
ウォーリーはじっと考えるようにうつむいてから、思い切ったように顔を上げた。
「我はウォーリーと申しマス・・・。」
「ウォーリー・・・さん?素敵な名前ね。」
「結婚してくだサイ。」
「・・・え?」
あまりに予想外の発言についていけず、イリスは口を開けてウォーリーを見た。それから言葉の意味を理解すると心臓が激しく飛び跳ね、火を吹きそうなほどに顔が赤くなるのを感じた。脳内を色々な考えが飛び交う。
この人は、わたしを哀れに思ってそんなことを言ってくれたのだろうか。
自分の肉体はどうなっているのだろう。彼に抱かれたまま、だらしなく口を開けているのではないか。
そもそもロボットなのに結婚って・・・。
いや、彼は素晴らしい人だ。壊れてしまった自分よりふさわしい人がいるに違いない。
結婚しても、今の自分には何もしてあげられない。治るかどうかもわからない。そもそも男というものに対して恐怖心すら抱いている。
彼の頭、どうやってキスすればいいんだろうか。
頭の中はゴチャゴチャに混乱し、もはや収集が着かない状態だ。しかし彼の目(うめぼし?)はじっとこちらを見つめ、自分の答えを心配そうに待っている。そう、心配そうに、だ。どういうわけか、イリスにはウォーリーの表情が読み取れるのだ。その顔をじっと見つめていると不思議と心は落ち着き、次に言うべき言葉が自然に漏れた。
「ふつつかものですが、よろしくお願いします。」




