4-16 言罪の旅人たち
すべての事物は言葉の神が創造した。
ゆえに、すべての事物は言葉によって成り立っている。
――言罪の書・序 より
◇
オー族の少女ホトは言罪を犯した。
神語を用いて人を殺めるという罪を。
忌み語を賜ったことで蔑まれ、堕ちることを強いられたのだ。
大司祭ラナサは言罪を犯した。
他者の言力を奪うという罪を。
言葉の可能性を知りたいと望み、欲の向くままに力を集め続けたのだ。
処刑から逃れるため、ラナサはホトを連れて赤き神殿の地をあとにする。
少女は死をもたらす言葉を、大司祭は他者から奪った言葉を、携えて。
言葉の優劣がものを言う世の中。すべての言葉が持つ可能性だけを信じ進む逃亡の旅。
そうしてたどり着いた先で、二人は神の真意を知ることとなる――
さあ、革命の時がやってきた。
言葉は誰を選ぶか?
遠くから、でたらめな歌が聞こえてくる。
神殿内部は誰もが立ち入りを許されているわけではないが、静寂に包まれたこの回廊には声の通り道があった。
「またホトですか、懲りませんねえ」
先導する司祭の背中に嫌悪が滲む。それは日暮れに色濃く落ちる影が見せる幻覚ではないはずだ。
音階をまるで無視したその調べは、たしかに本能的な嫌悪を呼び起こす。しかしラナサには歌う少女の楽しそうな表情が簡単に想像できて、眉をひそめるのははばかられた。
「きっと、ウシュウが咲いてはしゃいでいるのだわ……だってほら、こんなにも美しいんですもの」
四方を回廊で囲まれた中庭を見やれば、俗世から切り離されたようなその空間には、淑やかな薄紅の花をつける樹――ウシュウが幹をうねらせそびえている。
ただでさえ真っ赤な夕景に、満ちた赤き月の光が鮮烈に切り込んできて、花びらを赤白く浮かびあがらせた。
「せめて、奇声を発するのはやめてもらいたいものですよ。言葉にならないとわかっていて、なぜ彼女はああなんでしょうか」
「ふふ、なぜかしらね」
オー族の女は一般語を持たない。身振りや音を含めたあらゆる言語を、神によって封じられているからだ。
代わりに彼女らは、一人につき一語、神語を授かる。
神語。現実に影響を与え、また、無から有を生み出す力を持つ、強い言葉だ。
「ホトが神語に執着を持たないのは不幸中の幸いですが、なにかの節にあの忌み語が出てきやしないか、不安でなりませんよ」
「そうねえ」
回廊を抜ける風が中庭まで吹き込み、さざと枝を揺らした。
淡い光を帯びた薄紅の花びらが、はらはらと舞い散り、二人のもとへおりてくる。
「まったく、あんな恐ろしい忌み語を賜るなんて、ホトは前世で言罪でも犯したんじゃないですかね。そう思いませんか?」
「さあ……」
この司祭は知っているだろうか。いや、知らないとラナサは心の内で嘲笑する。
舞う花びらの一枚を手のひらで受け止めたラナサは、その神々しさを愛しと触れるように見せかけて、ウシュウから言葉を剥いだ。
花びらが、光を失う。
(さすがに花びらじゃあ、一度で崩れかけてしまうわね……まあ、ウシュウの言力は十分に集まったし、ちまちま剥ぐのはしばらくやめておきましょ)
剥いだ言葉を自身へ吸収してから、ふうっと吹き飛ばす。
花びらは司祭の目に映るより早く回廊の風に乗り、他の花びらに紛れていった。
〈言罪の書・カラの章〉あらゆる事物から言葉を奪ってはいけない。
洗礼を受けたならば、子供でも知っている決まりごとだ。
すべての事物は言葉――言力によって成り立っているということ。存在そのものである言力を失えば、生物も無生物も関係なくみな塵と化すこと。
「……大司祭ラナサ。そろそろお時間が」
「ええわかっているわ」
大司祭と神樹ウシュウとの戯れを堪能し、惜しみながら先を急かした司祭はやはり、知らないのだろう。
目の前の上司が、言罪を犯しているなどとは。
◇
赤き月の神殿は生命を司る。
祭儀場にて、司祭らは軽やかな鈴声に言力を乗せ、聖なる響きを歌う。
錫杖の代わりにウシュウの花枝を手にしたラナサは、ゆっくりと生命の音の道を進み、祭壇の手前にて跪いた。すぐうしろで衣擦れの音がし、オー族の巫女たちが並んだのがわかる。
司祭のひとりが、言力を込めた声で呼びかけた。
「赤き月よ――」ラナサも続く。「赤き月よ。その瞳を開け」
大司祭たるラナサのひときわ強い言力に、びいんと聖杯が震える。
「瞳に映せ、汝の子らを。根を張り、枝を伸ばし、」『花』「ひらくような我らの営みを」
祝詞の隙間を埋める神語が、さらに深い質量で空間を揺らした。
赤白く花が舞う。
『高き』「ところまで満たせ。若き葉を」『愛』「せ。強かな葉を」『愛』「せ。枯れゆく葉を」『愛』「せ。また」『花』「の笑むときまで」
満ちる、満ちる。神の愛が満ちる。高く満ちる。
花、高き、愛――当代三人の巫女がそれぞれ賜った神語だ。祝詞に組み込めば、それは神の加護として真実となる。
花は多分に祝福を含み、きらきらと光を放っている。
ラナサが笑みに浮かべるのは大司祭らしい恍惚。しかしそれは、敬虔さからくるものではなかった。
(ああ、神語によって生み出された花から言葉を剥いだなら、どれだけの力を得られるかしら)
祝詞を唱えることに慣れている口に儀式のいっさいを任せ、彼女は考えに没頭する。
尊ばれるべきは美しい言葉。オー族の神語には及ばずとも、そこには強い言力が宿り、低俗な言葉に優先される。美しい言葉を正しく扱うことのできる者は、そのぶん影響力を増す。
かつて、より強欲な思想を持った支配層が、神のためという名目でオー族の女を管理下に置いた。それが神殿のはじまりである。
反対に、美しくない言葉は価値を見出されず、ときには迫害されてきたものだ。
下町や田舎ならばともかく、ここは神殿。聖なるものとかけ離れた言葉に対する差別的な意識はより強い。
しかしそれがなんだというのだろう。ラナサは「美しい」とされる言葉を紡ぎながら、みなから忌み嫌われる少女に思いを馳せた。
(……いいえ。こんな形式的な音の並びなどではなく、私はやはり、ホトの神語が欲しい)
――『死』の神語を賜っただけの、心優しい少女に。
〈言罪の書・アの章〉神の言葉を用いて人を殺めてはならない。
意味そのものが言罪を犯す要素を孕んでいる神語を、忌み語という。
言葉の可能性は美しさに比例しないと信じてやまないラナサは、ホトをオー族の巫女として招きたいと考えていた。だが、忌み語を持つホトは神殿内に入ることすら許されない。
「聖なる言の葉は気」『高き』『愛』「を育み――」
しゃらとウシュウの花枝を揺らして言力の向く先を調整しながら、ラナサはため息を隠した。
(退屈だわ。世界はたくさんの言葉で溢れているというのに)
言葉の可能性を潰すことこそ罪なのではないか。
心のうちにそのような濁りを抱えつつ、大司祭として美しき言力を紡ぎ続けていた――そのとき、大きな音をたてて祭儀場の扉が開いた。
「たっ、大変です……! 大司祭さま、今すぐこちらへ!」
儀式の中断を望むなどただごとではないと、ラナサが報せを持ってきた司祭のあとを追って神殿前の広場に到着すると、すでに神殿に勤める者たちによる人だかりがしていた。
大司祭の訪れに気づき、ばさりと道が開ける。
困惑や恐怖や嫌悪を含んだざわめきに囲まれているのは、二人のオー族の少女。一人は泡を吹いて斃れており、もう一人は呆然と立ち尽くす。
赤き月の光が世界を染めている。それは血も流れぬ悲劇の輪郭を、鋭くなぞるよう。
二人のオー族の少女。
立っているのは、ホトだ。
「ホトが言罪を犯したぞ!」
「恐ろしい、死の忌み語を使うなんて」
「ココはホトに、美しい旋律を披露してあげていただけだったのに……」
「大司祭ラナサさま、言罪を犯した者を、お裁きください」
「……裁くのは私ではなく、神だけれどね」
ラナサが静かな視線をホトへ向けると、『死』の神語を賜った少女はさあっと青ざめた。
オー族の女が扱う神語は現実に影響を与える。人前で、誰にも明白な方法で、人を殺めたのだ。彼女に逃げ場はない。言い訳をする言葉すら、彼女は持っていない。
(神は、言葉が自由であることを望んでいないのかしら。ほんとうに?)
ああ、歌じゃない歌を紡ぐ楽しそうな顔が好きだったのに、と、ラナサは場違いにもそんなことを考える。
これからホトがどうなるべきか、この場でラナサがいちばん理解していた。大司祭だけが、罪人に罰を与えるときに限り、その罪人から言葉を剥ぐことを許されている。
アの章に記された罪を犯した場合は、塵となるまで。
ホトとてわかっているのだろう。ラナサがそれを下す前に、言罪を犯した少女は震える唇を開き、言葉を発した。
『死――ッ!』
他者どころか、小さな虫を殺すことすら躊躇う彼女が話すことのできる言葉はこの一語のみ。
しかし。
〈言罪の書・アの章〉……ただし、オー族の扱う神の言葉は自身に適用できない。
先ほど同族の少女を殺めたはずの言葉は、今度はなにも起こさなかった。
崩れ落ち、ホトが全身に浮かべた絶望は、死という逃げ道すら塞がれた現実に対するものだろうか。それとも、真に自分の意思でこの場にいる者たちを死に追いやる未来を想像してか。
あるいは忌み嫌われる自分に唯一笑みを向けてくれた大司祭に失望された、という恐怖からくるものかもしれない。
(なんにしても、ホトが語らないのだから推測でしかない。それに、私にとってもどうでもよいことだわ)
騒然とする広場に、それでもラナサの声は凛と染み渡った。
「……やっと。やっと、私の前で神語を使ったわね」
「大司祭ラナサ?」
「ずっとこの時を待っていたのよ、ホト」
誰もが大司祭による断罪に注目していた。
その事実をはっきりと認識してから、ラナサは、手に持ったままであったウシュウの花枝から言葉を剥いだ。
彼女の指の隙間を、たった今まで花だったはずの塵がこぼれていく。





