三八二年 祈の二十二日 ①
ジェットたち三人が訓練に参加することになった。
まずは見学、と皆の動きを見るジェット。気になるところがあれば教えるよう言われるが、こちらが口を出す前にロイヴェインがそれとなく修正していくのでできることが何もない。
それにしても、と、ロイヴェインを見やる。
ヴェインだと思っていたときから身のこなしの優秀さは透けて見えていたが、こうして実際の動きを見るとそれどころではない。
知る人が見れば全盛期のゼクスを彷彿させるのかもしれないその姿は、ギルド員でないのが惜しい程だ。
(…ゼクスさんたちが鍛えたんだろうけど)
心に浮かぶひとつの疑念を今は呑み込み、ジェットは訓練に意識を戻した。
途中から訓練に参加し、少年たちにきちんと差を見せつけたジェット。昼休憩直前になってロイヴェインに近付いた。
「軽く手合わせしないか?」
ジェットの申し出に、ロイヴェインは面倒くさそうに息を吐いた。
「英雄さんに敵うわけないって」
端からやる気のないその様子に、ジェットは笑って小声で呟く。
「…逃げるような奴にクゥはやれないけどな?」
一瞬動きを止め、ロイヴェインはもう一度息をついた。
「俺が勝ったらもらっていいんだ?」
「やれないと言っただけだ。やるとは言ってない」
慌てて否定するジェットに、ほしいんだけど、と聞こえないくらい小さな呟きを返して。
何事かと皆が見る中、仕方なさそうにロイヴェインは頷いた。
「いいよ。やろう」
お互い無手で向き合う。
「あくまで手合わせ、だからな?」
「胸を借ります」
呟いたロイヴェインが息を吸い、踏み込んだ。
身長差があるからだろう、低い体勢で突っ込んできたロイヴェイン。
振り上げられたその右拳を払うと同時に左肩を掴み引き寄せながら、ジェットは合わせるだけのつもりで左拳を腹部に当てる。
予測より早いロイヴェインの動きにつられて思った以上に勢いがついたのか。鈍い音と共にロイヴェインの口から呻きが洩れた。
「悪いっ、加減を―――」
腹を押さえて崩折れかけたロイヴェインが、謝るジェットの足を払いにいく。
「待てって!」
跳び避けて静止の声を上げるが、ロイヴェインは止まらない。屈んだまま再度突っ込み、着地直後の左足を掴んだ。
同時にジェットが蹴り上げる。爪先が身体に届く前にうしろに跳んだロイヴェインを追いかけるように距離を詰め、その勢いのまま胸倉を掴んで押し倒した。
「だから、待てって」
はぁ、と大きく息をついて。
悔しさなど欠片も見えない、冷めきった眼で見上げるロイヴェインの姿に。
ジェットは嘆息し、手を放した。
昼食前の食堂、ククルとテオはもうすぐやってくるだろう訓練生たちの昼食の準備をしていた。
「ホントにいい?」
「もちろんよ」
今日何度目かのテオの問いに、ククルは笑って頷く。
「その為に朝からがんばったんじゃない」
ジェットが来たら訓練に参加してみたいと言っていたテオ。午後に時間を取る為に、朝から前倒しで仕込みを進めたのだ。
「これだけ終わらせてくれたら大丈夫よ。あとは任せて」
そう請け負うククルに礼を言ってから、テオは考える。
自分がここを離れると午後はククルひとりになる。いつ戻れるかわからない以上、頼んでおいたほうがいいだろう。
「ごめん、すぐ戻るから」
ククルの返事を背中で聞きながら、テオは宿へと急いだ。
一足先に休憩を取ることになったロイヴェインは、まずは店へと顔を出した。
「お疲れ様です」
そう労うククルに微笑み返す。
「ちょっと用事済ませてからにするから、俺の分のお昼、用意しなくていいよ」
店には入らず入口からそう頼むと、わかりましたと返ってくる。
「いつでも大丈夫ですよ」
「ありがと。またあとでね」
扉を閉め、歩きだす。訓練が終わり宿に戻ったのだろう、店の裏に人の気配はない。
そのまま裏に回り、外から見えない場所で木にもたれて座り込んだ。
(…ホント、英雄さんはバカ力だな……)
鈍痛に顔をしかめながら汗を拭う。
(…お昼、食べ損ねるなぁ)
とてもではないが、今は食べられそうにない。
せっかく堂々と店にいられる時間なのにとぼやく。準備してくれているククルにも申し訳ない。
それでも心配をかけるほうが嫌だから。そこは意地を張りたかった。
浮かぶ自嘲。本当なら心配などしてもらえる立場にないのだ。
こうしてライナスに来られて。話してもらえて。どうしようもなく嬉しいのに、罪悪感と後悔は募るばかりで。
想像以上に身を切る茨。歩みを止めたいとは思っていないのだが、もうどこに向かえばいいのかわからない。
(……好きなだけ、なんだけどな)
自分が彼女を好きになっただけ。
彼女が自分に向くことはないとわかっていても、諦められないだけ。
ただそれだけが、今は辛い―――。
溜息をつき、目を閉じる。
自己満足のこの痛みも、たいして慰めになりそうもなかった。
店の裏手、隠れるように座り込むその姿。
ようやく見つけたと、ジェットはほっと息を吐く。
「ロイ」
近付く前から気付いていたのだろう。背後から声をかけても驚く様子もなく手を上げるロイヴェイン。
「お疲れ様」
見上げるその顔に、ジェットは表情を曇らせる。
「悪かった。大丈夫か?」
しゃがみ込むジェットを見返し、ロイヴェインは笑って首を振る。
「鍛えてるから平気だよ」
ちょっと休んでるだけと笑うその様子は、どう見ても強がりでしかなく。
額に浮かぶ脂汗に、ジェットは溜息をついた。
「あの一撃、お前なら避けるなり何なりできただろう? どうしてまともに喰らった?」
いくら勢いがついていたとはいえ、身構えてさえいればここまで長引くものでもない。
あの瞬間、ロイヴェインはわざと無防備に受けたのだと、ジェットは気付いていた。
「…ジェットには一発殴られとくべきだと思ったから、かな」
声だけは明るく、ロイヴェインはそう返す。
「どうして?」
「それは俺の問題。教えないよ」
ふっと笑うその顔は、どこか諦めたようにも見えて。
ジェットは思わず己の中にあった疑問を投げかけた。
「どれが本当のお前なんだ?」
唐突な問いに、無言で見返すロイヴェイン。
「俺たちがお前のことを調べていたのは気付いてるんだろう? 俺が知ってるヴェインと、街でのロイと、今のお前と。どれが素だ?」
「……どれって言われても」
自嘲気味に笑うロイヴェイン。
「じぃちゃんのうしろに隠れてたのも。勘違いして取り返しのつかないことをしたのも。どうしたらいいかわからないで、ただここにいるのも」
翳る翡翠の瞳。
「全部、俺だ」
それ以上話す気のなさそうなロイヴェインに、そうかと呟いて。
ジェットは苦笑を見せて、ロイヴェインの汗を拭う。
「そのままだと冷えるぞ。午後の訓練は俺が見るから、部屋で休んでこい」
立ち上がり、手を差し出す。
「ゼクスさんには俺から話しとくから。休んで、メシ食って、ついでにお茶でも飲んでこい」
何も応えず、ただその手を借りて立ち上がったロイヴェイン。肩を貸すのは断られたので、並んで歩く。
「そういえば、礼を言わないと。クゥを事故現場に連れていってくれたんだってな」
翡翠の瞳に奔る一瞬の動揺に気付かず、ジェットは続ける。
「ありがとな。本当は俺がやらなきゃならないことだったのに」
「…別に、たいしたことじゃないよ」
低く呟く声に含まれる感情が、ジェットに伝わることはなかった。
「見つけた」
連れてこられたロイヴェインを見て祖父の顔を覗かせるゼクス。午後の訓練は自分が見ることを伝え、ジェットは部屋を出た。
食堂に向かいながら、考える。
今までのヴェインとセレスティアの街での評判。そのどちらとも、ここでのロイヴェインの様子は合致しなかった。
壊れ物でも相手にするようにククルとの距離を取り、そのくせ視線は縋るようにククルを追って。
反応を見るつもりで言った自分の言葉に垣間見えた本気の色も、すぐに消されて。
一貫性のない行動の裏に何があるのか。それがわからなかった。
(…でも、多分…)
時折浮かぶ焦がれだけは、それが遊びでも冗談でもないことを表しているように思えた。




