三八二年 実の十三日 ②
何も言えず、呆然と立ち尽くすククルに。
考えておいて、と言い残し、ウィルバートは宿へ戻った。
(…ウィルが?)
もはや誤解でも冗談でもないことは、ククルにもわかっていた。
今までの紛らわしい物言いもすべて自分に向いていたと知り、今更ながら熱が上がる。
それに。
考えておいてと言われたのだが、一体何を考えればいいのだろう。
ただでさえ働かない頭ではその答えすら出ず、ククルは何度も同じ問いを繰り返す。
そこに、カランとドアベルが鳴った。
「ククル、ウィルが戻ってきたんだけど―――」
どうしたのか問おうとしたテオが、ククルを見て動きを止めた。
赤面して立ち尽くすククルを見て、表情をこわばらせたテオ。しばらくククルを見つめたあと、困ったように微笑んだ。
「…仕込み、手伝うよ」
それ以上は何も言わず、テオはカウンター内へ入って作業を始める。
動き出したテオに我に返ったククル。自分も作業に取りかかるが、どうにも動きが悪い。
「ククル」
見かねたテオが息をつき、止めた。
「仕込みはあとで俺がやるから。ククルは座ってちょっと待ってて」
「でも、テオ」
「怪我する前に。頼むから」
強めの口調でそう言われ、ククルは頷くしかなかった。
テオが出て行き、ククルはひとりカウンター席に座っていた。
ウィルバートに好きだと言われて動揺し、何を考えるべきかもわからずにうろたえて。
それで何も手につかず、テオに迷惑をかけてしまった。
本当に、自分が情けない。
視線を落とし、嘆息する。
少し落ち着いてくると、自分が動いていないせいか、いつも音に溢れる店内が妙に静かで居心地が悪い。
昨日はあれだけ賑わって、温かかったというのに。
まるで別の場所のようなその静けさに、ふと思い出す。
両親の亡くなったあの日、ひとり帰りを待っていたこと。
もうふたりが帰らないと理解した、がらんとした暗い店内。
明かりの消えた店が悲しかった。
誰もいない店が寂しかった。
滲む悪寒に、ククルはぶるりと身を震わす。
怖かった。
もう以前の温かな日々は戻らない。
ここには自分ひとりしかいないのだと。
音のない、無人の店内。
急速に辺りの空気が冷えていく気がした。
宿に戻ったウィルバートは、ようやく想いを告げられた喜びと、己の多少行きすぎた行動への反省、そしてまたしても逃げてきてしまった情けなさに、食堂へ戻れず座り込んでいた。
(…どうしたら…)
半ば諦めていたのに、やっと自分の言葉をそういう意味で取ってもらえたのが嬉しくて。
つい、手が伸びた。
我に返ると自分のしでかした行動が照れくさくて、思わず戻ってきてしまったけれど。
こうして冷静になってくると、さらに困惑が募る。
(ククル、怒ってないかな…)
動揺につけ込んだ己の行動。
今更だが、行きすぎだったと認めざるを得ない。
テオがいない間に謝りに行くべきかと考えていると、部屋の扉が叩かれた。
開けると、いつになく険しい顔のテオが立っている。
「…何か?」
「ちゃんとククルと話してやって」
突然思ってもない言葉を言われ、ウィルバートはテオを凝視する。
「テオ?」
「何があったか知らないけど、動揺しすぎて仕事にならない。火だって刃物だって使うんだ。あのままじゃ怪我する」
おそらくは何を言うかを決めていたのだろう。一気にそう告げ、テオは息をついた。
「すぐに切り替えられる程、ククルは慣れても大人でもないんだ」
だから、とそう言われて。
ウィルバートは驚きながらもひとまず頷いた。
「すみません。そんなことになっているとは思っていませんでした」
自分のことを意識してくれるのは嬉しいが、仕事の邪魔をしたいわけではない。
そう答え、テオを見る。
「…テオは、それでいいんですか? その、俺とククルが話して」
見返すテオの瞳には間違いなくためらいはあった。しかし、それでも。
「…俺がすべきことは、ちゃんと店を開けられるようにしとくことだから」
そう呟き、テオは踵を返した。
どこか達観した少年の背を見やってから、ウィルバートはあとを追った。
店に戻り、扉を開ける。
カランと鳴ったドアベルにも振り返らず、座ったままのククルの背が見えた。
いつもと様子が違うとウィルバートが思ったときには、隣のテオは既に弾かれたように駆け出していた。
「ククル!」
肩を掴むテオ。ようやく振り返ったククルの頬に涙の筋が見えた。
駆け寄ろうとしたウィルバートが思わず動きを止める。
伝う涙を拭いもせず、どこか人形のように宙を見るククル。
普段の彼女からは想像もつかないその姿に、ウィルバートは息を呑んだ。
「ククルっ!」
掴んだ肩を揺らして声を上げるテオに、ようやくククルが視線を合わせる。
「……テオ?」
ほっと息をつくテオ。今気付いたのだろうか、頬の涙をククルが拭った。
「ごめんね。父さんと母さんが亡くなった頃のこと、思い出しちゃって」
もう大丈夫と微笑むククルの顔は、いつも通りであるのだが。
肩から離した手を握りしめ、テオはうなだれる。
「…ひとりにして、ごめん」
後悔の滲む小さな呟き。
そんなふたりの様子を、声をかけられないままのウィルバートが見つめる。
少女の心に残る傷の深さを、ウィルバートは初めて知った。
ウィルバートと少し話してくるようにとテオに言われ、裏口から外に出たククル。
裏口の扉を閉めるなり、ウィルバートが頭を下げた。
「すみません。俺の配慮が足りませんでした」
「ウィル?」
突然謝られ、ククルは驚いて声を上げる。
「やっとそういう意味に取ってもらえて、嬉しくて……」
申し訳なさそうに視線を落として口籠るウィルバートに、ククルは首を振る。
「違うんです。ウィルのせいじゃないんです。ただ、どうしたらいいのかわからなくて考えていたら、色々思い出してしまっただけで…」
みっともない姿を見せてすみませんと謝るが、ウィルバートの翳りは消えず。
俺のほうこそ、と再び謝られる。
「考えさせるようなことを俺がしたから、ですよね」
「そうじゃなくて…」
どこまでも平行線の謝罪合戦に、ウィルバートが困ったように嘆息した。
「…きりがないので、これ以上謝るのはなしにしてください。大体、ククルが謝ることなんて何ひとつないんですから」
自分を見る眼差しは優しいが、どこか諦めたような、そんな影が見えて。
『やっと言えた』と、あんなに嬉しそうに微笑んでいたのに。
好きだと言ってくれた彼に、自分は何て顔をさせてしまっているのだろう。
(…私、自分のことばっかり…)
向けてもらえた好意に、まだ感謝すら伝えていない。
ただただ動揺し、わからないとうろたえ、何も手につかず、挙げ句には泣いて。
―――心底自分が情けない。
そういうことには、正直自分は疎いのだと思う。しかしいくらわからなくても、ここで彼に向き合わないのは失礼だと思った。
両手を握りしめ、ククルはウィルバートを見上げた。
「ウィル」
幾分しっかりした声に、どこか怯えたようにも見える紺色の瞳がためらうように向けられる。
まっすぐ見返し、ククルは混乱し通しの己の心境を、何とか言葉にしていく。
「色々驚いて、何も言えないままですみません。…その、ああ言ってもらえたことは、自分が認められたみたいで嬉しいです」
「…え?」
「ただ、すみません。考えておいてと言われたのですが、何を考えればいいのかわからなくて…」
ウィルバートの疑問の声には気付かず、ククルはそう言って目を伏せた。
暫しの沈黙のあと。
「…ククルが引っかかってたのって、そこなんですか…?」
半ば呆然としたウィルバートの呟きに、申し訳なさそうに頷くククル。
「すみません…」
再度謝るククルを見ていたウィルバートが、大きく息を吐き、目を閉じてうなだれる。
「…俺、ククルの返事も聞かずに…その、困らせるようなことをしてしまったので…」
絞り出すように呟き、顔を上げる。
「…怒らせたり、嫌われたり、したかと…」
「そんなことはっ」
即座に否定しかけて止まる。
怒っても、嫌ってもいない。しかし。
「ない、ですけど…」
困りは、するのだ。
口籠るククルにふっと息を吐き、ウィルバートがようやく表情を緩める。
「…それならよかった」
「つまり、恋人候補として考えてみてほしいってことだったんですけど」
結局再び謝罪合戦を繰り広げたあと、ふたり揃って吹き出し、ようやく落ち着いたところで。
ウィルバートが思い出したようにさらりと告げる。
「こ…い…」
最後まで言えずにいるククルに微笑み、でも、と続ける。
「撤回しますよ。性急すぎましたね」
細められる瞳に、もう翳りはなかった。
すっかり落ち着いた紺のそれに、ありがとうございますと返す。
「…ウィルのことは、尊敬できる素敵な人だと思います。でも…」
「俺の『好き』とは違いますよね」
わかってますよ、と笑う。
「今はそれでいいです。…俺の想いまで、撤回しろと言われなければ」
「そんなひどいこと言いません…」
ぼそりと呟いたククルに、よかったと笑う。
「もっと俺のことも知ってもらって。ククルが俺のこと、好きになるまで待ってるから」
口調が本来のそれに戻っていた。
瞳を細めてククルを見つめ、そっと手を握る。
「それまで、時々触れてもいい?」
「えっ、その…」
熱っぽく自分を見る眼差しと、包み込む温かな手に、いいも駄目だも言えなくて。
「…ほ、程々に…」
そうとしか返せなかったククルに、ウィルバートは善処するよと笑って手を放す。
「そろそろ戻ろうか。俺もククルも、テオに礼を言わないと」
「そう、ですね」
こうしてウィルバートと話す機会と時間をくれたおかげで落ち着くことができた。
頷くククルに、それで、と続ける。
「少しククルに協力してほしいことがあるんだけど」
どこか含みのある声で、ウィルバートが告げた。




