三八三年 雨の二十六日
朝、身支度を済ませたククルは、いつものように階下へ降りて裏口の鍵を開け、厨房に立つ。
静まり返った店内に、帰ってしまったのだと改めて思う。
ジェットとダリューンが来る前は当たり前だったこの静けさも、今は少し寂しく感じた。
(すっかり甘えてるわね…)
こどものように寂しがる己に苦笑し、気を引き締めないとと思ったそのとき。
裏口が開く音がして、テオとレムが入ってきた。
「おはようククル! 朝まだ食べてないなら一緒に食べよう!」
「おはよう。お茶淹れるな」
持ってきた籠から食事を取り出すレムと、手慣れた様子で竈に火を入れて、お茶の準備をするテオ。
まだいつもより早い時間なのにと、心配してくれているふたりをありがたく思う。
「ふたりともおはよう。朝からありがとう」
微笑むククルを少しほっとしたように見てから、テオとレムが顔を見合わせた。
朝食を食べ終え、レムが宿に戻った。
残ったテオとふたり、宿泊者用の朝食の準備を始める。
酔っていたからとはいえ隣にいていいかと聞かれていたのに、何も返事を返していなかったことに気付き、昨日自分の率直な気持ちを伝えた。
あとになってまた誤解を招くようなことを言ったのではないかと慌てたが、その後もテオの様子は特に変わりなく。
こうしていつもと同じように、穏やかな空気の中隣にいてくれることに安堵する。
自分にはこの時間がとても大事で、心落ち着くものなのだという実感と。
果てしてここにいるのがテオでなくとも得られるものなのかという疑問。
自分自身と向き合うと決めたからには、たとえ少しずつでも考えていかなければならない。
(…テオじゃなかったら…?)
そう考えてはみるが、すぐに行き詰まる。
ここにいるのがテオでなければ、自分は作業の傍ら指示を出し、状況を見、場合によっては先回りをし、準備と仕込みを円滑に進める為に色々考えているはずで、そこにこの静寂はあり得ない。
自分が何を目指してどう動きたいのか理解してくれているテオとだからこその、この時間。
テオへの依存は間違いないが、仕事仲間としての依存であって、恋愛的な意味ではないのか、それとも両方なのか。
結局はわからず、ククルは考えることを放棄する。
「…どうかした?」
考え込んでいたことすら気付かれて、ククルは笑って何でもないと返した。
ひとり笑うククルを怪訝に思いながら、それでも沈んだ様子がないことにほっとするテオ。
昨夜はレムがここに泊まるか、もしくはククルに泊まりに来てもらおうと、事前にレムと相談していた。しかし大丈夫だと断られたとレムに言われ、代わりにふたりで押しかけることにしたのだが。
驚いた顔はしていたが、嬉しそうに礼を言われて安心した。
大丈夫そうかな、とククルを一瞥してから手元に視線を戻す。
昨日、ククルに言われた言葉。
自分がここにいることを彼女が望んでくれるなら。
たとえこのカウンターの中だけに限ったことだとしても、変わらず隣に立ちたいと心から願う。
(…諦められるかな……)
ここで必要とされているのはほかでもない自分なのだと。
その言葉だけで、自分は彼女の家族同然の幼馴染として立つことができるかもしれない。
もちろんまだ、時間は必要だけれど―――。
「ジェットさん、もう戻ったんだ?」
その日宿泊の若いギルド員にジェットのことを聞かれたククル。既に帰路についたことを話すと、残念そうにそう言われた。
「休み明けまでもう少しあるから、ギリギリ間に合うかと思ったんだけどなぁ」
そう呟いてから、男がククルを見る。
「君がジェットさんの姪?」
「はい」
自分からは名乗らなくていいと、ジェットたちに言われている。
頷くククルに、そう、と笑って男が名乗る。
「ジェットさんには色々世話になってて―――」
「ご注文は?」
間に割り込んだテオが、少し乱暴に水のグラスを置いた。
頭を下げ、カウンター内へ戻るククル。
睨みつけるように自分を見上げる男に、テオは表情を変えずに続ける。
「世話になってるなら姪の名前も帰省の日程も聞いてるんじゃないのか?」
ククルには聞こえないようわざと低く呟くと、男は少し慌てた様子を見せた。
「ホントに世話になってんのか。ジェットに確かめてもいいんだけど?」
そう重ねると、男はそれきり口を閉ざした。
直後現れたパーティーのリーダーが状況を察し、ふたりは謝られることになったのだが。
今までジェットかダリューンがいたことで、ククルに直接話しかける者はほとんどいなかった。
下心のある者ばかりではないだろうが、判断がつかない以上すべて警戒するしかなく。
戻ったテオが小声でククルに大丈夫かと尋ねると、ククルは微笑み頷いてはくれたのだが。
不安な思いをさせない為にどうすればいいのか。
少し考える必要があるなと、テオは思った。




