三八三年 明の二十日
アリヴェーラが来て以来、朝に短い時間ではあるが指導を受けることとなったククルとレム。今日は『うしろから捕まったときの逃げ方』を教わった。
もちろん使う機会がないことが一番なのではあるが、こうしていざというときに備えるだけで、今までよりも少し心が強く持てるような気がする。
続きは明日、と身体をほぐすよう言うアリヴェーラに、思いついたようにレムが尋ねた。
「アリーはどうしてそんなに強くなったの?」
女性ではいくら鍛えても職には結びつかない。ギルドの実動員も警邏隊も、女性ではなれないのだ。
不思議そうなレムに、アリヴェーラはそうねと呟く。
「うちの父親ね、優しいけど、仕事には厳しくて。よく弟子ともめるのよ」
話しながらも柔軟を続ける。真似をしながら、黙って聞くふたり。
「四歳のときに、父親への嫌がらせに、ロイとふたりでどこかに閉じ込められたの」
「えっ」
声を上げたレムに、アリヴェーラはにこりと笑う。
「暗くて、怖くて。全然声も出なくてね。ふたりで震えて泣いてるだけだった」
「ひどい…」
まだ幼いこどもに、しかも嫌がらせの為に、何てことをするのだろう。
険しくなるククルの表情に、昔の話と穏やかに返すアリヴェーラ。
「助けてくれたのがおじいちゃんなの。ふたりで憧れて、おじいちゃんみたいになりたいって言ってね。それで鍛えてくれるように頼み込んで」
懐かしむように、笑みが深くなる。
「おじいちゃんは渋ったけど。そんなことがあったから、両親も賛成してくれて」
町を見下ろし、アリヴェーラは大きく伸びをする。
「ま、ちょっと想定外だったかもしれないけどね」
振り返り、今日は終わりと告げられて。
後悔も迷いも微塵もないその表情。
ククルとレムは顔を見合わせ、笑みを返した。
何事もなく一日を終えようかという、そんな頃。
閉店作業をしていたアリヴェーラが突然動きを止めた。
気付いたテオが声をかける前に、アリヴェーラが外を示す。
「ククルは待ってて」
そう告げ、テオはアリヴェーラと外に出る。
丘を登る人影。闇に紛れるその髪に気付き、テオは息を吐いた。
「ウィルだ」
「戻る?」
「大丈夫。ウィルはククルに危害を加えるようなことは絶対しない」
「じゃあ外にいるわね」
宿と食堂、その間に姿を消すアリヴェーラ。
テオはそのまま扉の前でウィルバートを待った。
自分の姿に気付いたのだろう、一度歩を止めたウィルバートが再び近付いて。
扉を塞ぐように立つテオの前、黒髪の青年は無言のまま立ち止まった。
「珍しい時間に来るんだな?」
まっすぐウィルバートを見据え、語気を強めてテオが問う。翳る瞳を隠すように伏せて、ウィルバートは息をついた。
「…ククルとふたりで話をさせてほしい」
問いには答えず、顔も見ず。呟くその声に力はなく。
思わず拳を握りかけ、テオはすんでのところで思い留まる。
強い眼差しでウィルバートを見返してから溜息をつき、何も言わずに扉前を譲った。
扉に手をかけるウィルバート。テオの前を通る、その一瞬。
「…あとを頼む」
小さく残し、店に入った。
扉を開ける。しばらく振りの店内、そしてその奥に。
ドアベルの音に顔を上げ、少し驚いた顔をするククル。
「久し振り」
小さく、ウィルバートが呟いた。
見せる微笑みにいつもの熱はなく。影の差すその表情に、ククルは手を止めカウンターから出る。
「ウィル?」
返された疑問の声に取り繕えていなかったことを知り、その笑みに苦さが混ざる。
目の前まで来たククルを見つめ、ウィルバートは吐息をついた。
最後に会ってから、ほぼ月ひとつ分。
(やっと会えたのに…)
揺らぐ決意に、覚悟は決めたはずだと己に言い聞かせる。
「…今日はお礼を言いに来たんだ」
「お礼?」
繰り返された言葉に頷く。
「今まで色々ありがとう。ククルのおかげで俺は、失いかけてたものを取り戻せたんだと思う」
ずっと心に沈んでいた暗い思いは消え、逃げていた故郷―――家族とも向き合えるようになった。そのおかげでギルドでも新たなつながりができた。
そして何より。こんなにも、自分も人を好きになれるのだと知った。
人を想う幸せを、知ったのだ。
―――そう。だから自分は。
続けようと口を開き、声にならずに再び閉じる。
告げなければならない言葉が出てこない。
散々悩んで迷って、それでも彼女の為にと決意して。
そうしてここへ、来たというのに。
(往生際の悪い…)
ほんのひとこと。しかし欠片も思わぬその言葉。それを告げなければらならないのが本当に辛い。
「…ウィル?」
再度名を呼ばれ、ククルへと意識が向く。
目の前の、心配そうに自分を見上げる紫の瞳。
「―――っ」
耐えきれず、手を伸ばした。
何が、と思う暇もなかった。
気付いたときには既にウィルバートの胸の中、苦しいくらいの強い力で抱きしめられる。
最初から様子がおかしかった。
微笑む瞳は翳ったまま、紡がれる言葉もどこか薄弱で。
本心を覆い隠すような笑みの奥、辛そうに自分を見る紺色の瞳。
不安を感じ、声をかけたのだが。
言葉にならない何かを伝えるかのように、強く、強く抱きしめてくるウィルバート。
「ウィ、ウィル…?」
ククルが小さく名を呼んだ。
僅かな身じろぎと同時に拘束が少し緩む。
ほっと息をつき顔を上げようとするククルの頭に手をやり、ウィルバートが再び自分の胸元へと引き寄せた。
「ククル」
押さえ込むように抱きしめられ、顔が見えない。
「俺の想いを撤回する」
頭上からの呟きは、淡々と、目の前の書面を読むかのように。
腕に込められる熱とは裏腹に、冷たく降る。
「もう、ここへは来ない」




