2-25 前世、愛を伝えられなかった私たちは
大商人の娘エリカは男爵令嬢エリーシャだった前世の記憶を取り戻す。エリーシャにはミハイルという名の夫がいたものの、二人の間に愛はなく、冷え切った関係のまま人生の幕を閉じたのだった。
ある日、エリーシャたちが暮らした屋敷が当時のまま残っていることに気づいたエリカは、なぜ自分がミハイルに愛されなかったのか、答えに繋がる手がかりが少しでもが残されていないかと荒れた屋敷に忍び込んだ。
しかしそこで屋敷に住みついていた宿無しの少年ケイと出会う。かつての夫ミハイルの面影を宿すケイにどぎまぎしながらも、エリカは屋敷の中で自らの過去をたどり始める――。
豪奢なシャンデリアに楽しそうな人々の笑い声。毛足の長い赤い絨毯に沈み込む純白のポインテッドトゥ。新しく仕立てたドレスは光を受け、妖精の粉を浴びたようにきらめいている。
けれど私の心は深く沈んでいた。その理由はパーティー会場のはるか前方で歓談している男性――私の夫のせい。エスコートもされず、パーティー中も私は一人で置き去りにされた。幼馴染が私を気遣って代わりにエスコートしてくれたものの、夫が他人に向ける笑顔を見てしまうと空しさが溢れてしまう。
私の視線に気づいたのだろう、彼の青い瞳がこちらを向いた。何の温度も感じない無機質な瞳が私を映し、すぐに逸らされる。隣の幼馴染には「いつもの事だから」と説明し、私はうつむいた。夫の態度は当然だ。だって彼には私への愛情など、ほんのかけらもなかったのだから。
そう、いつもの事……。そしてその後も、私たちの冷え切った関係は人生を終えるまで変わらなかった。
◇
「思い出しちゃった……」
数日前から高熱で寝込んでいた私は夢を見ていた。それは今の「エリカ・ノーア」になる前の「エリーシャ」としての人生の夢。
エリーシャはこの国にかつて存在した身分制度で下位に属する男爵家の令嬢だった。浮気に熱心な父と自分を着飾る事に夢中な舞台女優出身の母の間に生まれ、家族愛には恵まれなかったものの、それなりに貴族らしい生活を送っていた。柔らかな榛色の瞳と髪、そして母に似た愛らしい顔立ちをしていたエリーシャは幸運なことに社交界では人気が高く、十六歳で成人すると同時に結婚相手も決まった。エリーシャ自身も望み、相手からも望まれての結婚だった。
ベッドの上で横になりながら記憶をたどっていると、部屋のドアがノックされた。
「ミナでございます。エリカお嬢様、お加減はいかがですか」
「ええ。もうすっかり良いみたい」
「それはようございました」
白髪交じりの髪をきっちり結い上げたミナは我が家のメイド長だ。仕事で家を空けがちな両親代わりに幼い頃から私の面倒を見てくれている。だからと言って私の味方のわけではない。その証拠にまだベッドの上にいる私にこんなことを言ったりする。
「体調が回復したらすぐに留学の準備を始めるように、と奥様が仰っておりましたよ」
「大丈夫よ。ちゃんと覚えているわ……」
私は深いため息をついた。
今世、私が生まれたノーア家は国で一位、二位を争う大商家だった。
祖父の代から細々と商家を営んでいたものの、父の代で外国向けに織物を扱ったところそれが大当たり。今では国の予算に手が届く程の資産を持つ裕福な家でもある。しかし事業が上手く行っているおかげで父は一年のほとんどが不在。母はひっきりなしに届くパーティーの招待状にいつも出席の返事を出す。
私は大商人の娘として相当の教育を受けるべく、全寮制の学校に通っていた。そしてついこの間卒業を迎え、家に戻って来たのだ。
(けど寮生活が終わったとおもったら今度は留学……か。よっぽど私と一緒にいたくないみたいね)
生まれかわっても愛されない人生は変わらなかったらしい。ミナが去ると、私は再び目を閉じた。
『初めてあなたを見かけた時に薔薇の精みたいだと思ったんだ』
『なあに、それ。薔薇の精?』
『あ、変な意味じゃないんだ! あの、とても……可愛らしいなと思ったんだ』
初めて出会った時、まだ少年だった夫――ミハイルは青い瞳を伏せながら耳まで真っ赤になっていた。そしてエリーシャだった私も同じくらい真っ赤になっていたはずだ。
涼しげな切れ長の瞳に輝く金色の髪の毛。そして整った顔立ちのミハイルは当時令嬢たちの注目の的だったし、例にもれずエリーシャも恋に落ちた。しかしエリーシャは突然態度が変わった夫に戸惑いを抱えたまま人生の幕を閉じた。
(愛し合って結婚したはずなのに、どうしてミハイルは冷たくなったのかしら。彼の眼差しが冷たくなったのはいつから……? ああ、そういえば当時エリーシャは疑っていたのだったわ――)
明日元気に起きられたら調べてみよう。今ならきっと受け止められるはずだから……。
◇
次の日、私はミナと図書館に来ていた。昔、本の収集を趣味としていた公爵家の屋敷だった建物をそのまま利用している図書館は、大きな扉をくぐるとすぐに受付のカウンターがあり、閲覧室となっているエントランスホールではゆったりと本を選ぶことができる。
「じゃあ勉強が終わったら声をかけに行くわね」
「はい。私は料理本の棚の近くにおりますので」
そう言ってミナと別れた私は、すぐに歴史書の棚に向かった。表向きは留学のための勉強だが、本当の目的は“貴族名鑑”と呼ばれる本。過去に存在した貴族達の家系図が一族ごとに記録されているものだ。
前世を思い出した私は、その後のミハイルがどんな人生を送ったのかを知りたくなった。もしかしたらエリーシャが愛されなかった理由が記されているかもしれない。
貴族名鑑はすぐに見つかり、私は近くの席に座るとすぐにページをめくり始めた。
「ミハイル……。ミハイル・ローランス伯爵。そうだわ、彼は伯爵家の嫡男で、私と結婚する直前に爵位を継いだのよね」
その名前が記されていたのはローランス伯爵家の家系図。かつての私と線で繋がった名前を呟き、指でなぞれば、胸によみがえるのは苦しいほどの愛おしさ。両親の愛を得られずに育ったエリーシャは、初めて思いが通じ合ったミハイルからの求婚に大喜びしたものだ。結局、彼と思いを通じ合わせることはできなかったが……。
だが予想外なことが起きた。ミハイルから伸びる線は私と繋がるものしか書かれていない。
「え?」
小さく声をあげてしまった私ははっと辺りを見回し、変わらぬ周囲の様子にまた本に視線を戻した。
(再婚、していないわ……)
当時、エリーシャはミハイルに愛人がいるのではと疑っていた。そのせいで愛が失われてしまったのだと考えていたのだ。しかし予想に反してミハイルの妻として記録されているのはエリーシャの名前のみ。
(それならミハイルはなぜ?)
さらに養子も取らなかったようで、ミハイルの下に記された名もない。それが意味することはローランス家の断絶だ。貴族名鑑にもミハイルの代でローランス家が途絶えてしまったことがしっかりと記されていた。
(そんな……。てっきり愛人がいるから私が邪魔になったのだと――)
空しさ、そして深まる疑問と共に私の中に次々と記憶がよみがえってくる。玄関ホールに飾られた先代の肖像画、当時の使用人たちの顔、気に入っていた香水の香り、可愛がっていた子猫の名前……。まるで昨日の事のように思い出せる。伯爵家の屋敷には薔薇が咲き乱れる美しい庭があって、高い鉄の柵が周りを囲っていた。少し先の区画には、本の収集で有名な公爵の屋敷が建っていて――
「あ!」
私は再び小さく声をあげた。
◇
「やっぱり……!」
ミナに黙って図書館を抜け出した私は二区画ほど南の区域に向かった。ここはかつて貴族たちの屋敷が並んでいた地区で歴史的価値があるとしてそのままの姿で残されている。息を切らした私の目の前に建つのは、その中でも最も大きな屋敷だ。
「もしかしてと思って来てみたら……」
白を基調とした外壁と重々しい木彫りの玄関扉、そしてきっちりと区切られた花壇。いかにも貴族の屋敷らしい重々しい雰囲気だが、緩やかにカーブを描く半円のエントランスが重厚感の中にも柔らかさを感じさせる。
「……覚えているわ。このエントランスをくぐると、大きな暖炉と肖像画の並んだ階段があって――」
輝くシャンデリアが美しい大広間。そして花々が咲き乱れる庭を独り占めできるバルコニー。
「ここは私が過去に暮らしていたローランス家の屋敷だわ」
まさかこんなに近くにあったとは。忘れていたとはいえ、前世の自分が過ごした場所と目と鼻の先に生まれ変わるとは何の因果だろう。
「もう誰も住んでいない……わよね」
当然のように門は固く閉ざされている。伯爵家の美しかった庭も草が伸び放題だ。窓ガラスもよく見ると割れている箇所がいくつもあり、屋敷の周りを囲む鉄製のフェンスも歪んでいる部分が多い。体の小さな子どもならするりと入り込めそうだ。私は柵の隙間を見つめながら、無意識に唾を飲み込んでいた。
「意外とすんなり入れたわね」
スカートの裾についた汚れを払いながら、私は柵の内側から屋敷の壁を見上げていた。年の割に小柄な体系が功を奏して、私は柵の隙間から伯爵家跡へ忍び込むことに成功していた。
図書館に残してきたミナは私が声をかけなければ料理本に夢中で、私が抜け出したことにさえ気づかないだろう。図書館の閉館時間までに戻れば問題ない。
「少しだけよ。ちょっと懐かしくなって中を見たくなっただけ」
私は自分に言い聞かせるように呟いた。
草を掻きわけながらしばらく壁沿いに歩いていると、庭の一角にぼろぼろの小屋が残っていた。庭師の道具置き場だったものだ。小さな窓枠は外れ、扉もかろうじて一か所が留まっているだけで、いまにも外れそうだ。それでも当時の記憶がよみがえるほどには当時の面影を残していた。
「懐かしい。確か結構年配の庭師だったような――」
だが何気なく小屋を覗き込んだ私は息を飲み固まった。何もいないと思った小屋の中でごそごそと何かが動いている。
「っ、誰だ?」
その瞬間、聞こえてきたのは声変わりして間もないような掠れた声。だけどその時の私は目に映る景色がエリカのものなのか、エリーシャのものなのかがわからなくなっていた。驚き顔でこちらを見つめている少年の青い瞳が、かつての夫によく似ていたからだ。





