2-24 ガール・ミーツ・ミート
ファッションデザイナーの母とジュエリーショップを営む父との間に産まれたお嬢様・美紅は美しいものに囲まれて過ごす女子高生。両親にそれはそれは大切に育てられた結果、世間知らずな少女になってしまった。
それを見かねてか、夏休みのある日、両親が「社会勉強をしてみないか」とアルバイトを美紅に勧める。美紅は高級な服屋や宝飾店のような自分にふさわしい美しいお店で働けるかと思いきや、待っていたのは……下町商店街の精肉店!?
店長に指示されるまま働くが、美紅の心にはわだかまりが残り逃げ出したい気持ちが募る。そんな中、店長の息子・郷太が見せた「肉磨き」という技術に目を奪われ……。
美しいものが好きだ。
着飾ることで光り輝くものが好きだ。
けれど美しさを生み出すためには、時にそれを傷つけなければならない。
人はその行為を研磨と呼んでいる。
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ルビーは一粒でもその真価を発揮する。
燃え盛る炎のような赤、情熱をそのまま映し出したような赤。
美紅は自室でルビーのネックレスを眺め、うっとりとため息を漏らした。十歳の誕生日に両親がくれたものだ。デザイナーの母と宝飾店を営む父の間に産まれたからか、美紅の毎日は美しいものに囲まれていた。
美しいものは良い。
特に宝石が好きだ。年月をかけて形成された原石が、人によって研磨され装飾品となって輝くのだ。無機質なのに、炎や情熱を彷彿とさせる美しさ。それがルビーであり、宝石。
「美紅ちゃん、ちょっと来て」
階下にいる母に呼ばれ、美紅はネックレスを宝石箱にしまった。
「どうしたの? もうお夕食?」
母だけではなく、父もリビングでテーブルに座っている。
「美紅も座って。大事な話をしよう」
父に言われるがまま、美紅は向かいの席についた。父の隣に母が座り、三人分のティーカップを置く。
「高校はどうかな、楽しい?」
「もちろん。みんな仲良くしてくれるし、先生方も優しいの」
何を言い出すのかと思いきや、学校生活の話だった。
でも、なぜ今?
入学して半年とか、少なくとも一年生のときに聞いてくるものだと思う。でも美紅はすでに二年生だし、夏休みの真っ只中だ。
「なら良かった。安心したよ」
「それが大事な話?」
いやぁ……と父は弱気に笑い、ごまかすように紅茶を飲んだ。それを見た母が背筋を伸ばし、美紅をまっすぐ見つめた。
「美紅ちゃん。バイト、してみない?」
「バイト?」
美紅は数回瞬きをした。
「もう十七歳でしょう? 今のあなたも素敵だけど、一度社会勉強をしてみた方がいいと思うの」
「それは、働いてみるってこと?」
そうそう、と父母が頷いた。
昔、職業体験型のテーマパークに連れて行ってもらったことがある。あれは面白かったし、お店で働いてみたいと憧れたものだ。
「楽しそう!」
美紅の瞳は一等星のように輝いた。
大事というからつい身構えてしまった、こんなに良い話だったとは。
「僕の古い友人が、最近店を持ったらしいんだ。そこで自分でお金を稼いでみるといいよ」
「わかった。そうね、初めてのお給料はバッグでも買おうかしら。六十万円くらいはいただけるよね?」
美紅が皮算用に耽っていると、父と母は顔を見合わせ、ため息をついた。
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美紅は紙切れの地図を睨み、お昼の活気に溢れた下町の商店街を歩いていた。
商店街というものは低価格な食品店だけではなく、穴場的なブティックや化粧品店があるものだ。きっと美紅の働く先はそういったところだろう。まだスマホの地図アプリにも反映されていないとなると、新築の綺麗な建物に違いない。
地図に記された星マークまで行くと、美紅は顔を上げた。
「……水卜精肉店!?」
目の前にそびえ立つ店の看板には、確かにそう書かれていた。美紅の背筋に冷や汗が伝う。
肉は苦手だ。というのも、幼い頃にレストランで食べたステーキがおいしくなかったのだ。脂がくどくて、ざりざりとした舌触りが受け付けなかった。
以来、肉は避けている。
「し、失礼します」
ガラス戸を開け、恐る恐る入った。入ってすぐにショーケースがあるが、開店前だからか中はからっぽだ。
すると、父と同じ歳くらいの男性がこちらへやってきた。
「ああ、小笠原の娘さんね。美紅さんだっけ?」
「はい。よろしくお願いします」
美紅は頭を下げながら、地図をくしゃりと握った。こっちに来て、と水卜は店の奥まで進んでいく。
奥はキッチンになっていて、中央にあるステンレスのテーブルを囲うように流し台やら冷蔵庫やら謎の機械やらがどんと構えている。
「助かったよ。オープニングスタッフが俺と息子だけじゃ慌ただしくてね」
「息子さんがいらっしゃるんですか?」
「うん、美紅さんの一つ上。おーい!」
水卜が声を上げると、キッチンの隣にある部屋から青年が顔を出した。エプロンをつけている、坊主頭の男の子だ。
「郷太だよ」
「美紅です、よろしくお願いします」
「……どうも」
郷太は美紅に小さく呟いたあと、すぐ元の部屋に戻ってしまった。
「美紅さんもエプロンをつけて。まずは品出しのやり方ね」
「わかりました」と美紅は頷き、郷太のいる部屋へ向かった。そこが従業員のロッカーや鏡がある場所らしい。郷太とすれ違ったが、彼はこちらを一瞥すらしなかった。なんだか、感じ悪い。
ロッカーを開けると、白いエプロンがかけられていた。バッグをしまい、代わりにエプロンを取る。鏡で全身を確認すると、胸元の「水卜精肉店」というゴシック体がいやに目を引いた。
部屋を出ると郷太がいて、美紅の全身をじっと眺めた。
「何か……?」
「髪がダメ、一つに結んで。不衛生だから」
なんですって。けれど逆らうわけにはいかない。ロッカーに戻り、扉の裏のフックにかかっていたヘアゴムを手に取って結ぶ。その様子を見た郷太は、店の奥に引っ込んでいった。
対して水卜は美紅を見て顔をぱっと明るくさせた。
「いいじゃん! 似合ってるよ」
「あ、ありがとうございます」
水卜とショーケースの方まで行き、品出しの作業に取り掛かった。
「ここが豚バラで、隣にひき肉。焼肉用はここで、端っこにお惣菜。ケースの裏に場所が書いてあるから、その通りにやれば大丈夫」
やってみて、と水卜は数個のトレーを美紅に差し出した。トレーの上には、「手羽元」や「春雨サラダ」などと書かれたカードが置いてある。
カードとショーケース裏のラベルを元に、トレーをしまっていく。終わったらすべて出して、カードをシャッフルしてまたしまう。この作業を繰り返した。
休憩に入り、美紅は即座にロッカーからスマホを取り出して父の番号にかけた。仕事中だろうと関係ない。
「もしもし、美紅。どうしたの?」
「パパ! どうしてお肉屋さんなの!?」
「そんなこと言わないで。これは美紅のためなんだから」
「でも、」
「美紅。君は素敵な女の子だけど、社会を知らなすぎるんだ。そのお肉が100グラムでいくらかわかるかい? 東京の最低賃金は?」
美紅がどもっていると、父は続けた。
「生きていくには、経験しないといけない。だから君を水卜に紹介したんだ」
これも自分磨きだよ。
父はそう言って電話を切った。落胆していると、誰かがロッカーを開ける音がした。
「肉屋じゃ不満だって言いたいのか」
郷太がこちらをきつく睨んでいる。美紅はどきりとして、その場に硬直した。
「金持ちだからって馬鹿にすんなよ」
バタン、とロッカーが冷たく閉まった。
心がすっと冷えて、視界が潤む。ぐっとこらえ、水卜のいる方まで戻った。
「美紅さん、疲れちゃった?」
「……いえ、大丈夫です」
水卜と品出しを練習して、少しだけレジ打ちを学んだ。
「グラム数はこのはかりに乗せて合わせて。でも慣れたら……って、もうこんな時間か」
水卜が時計をちらりと見て美紅に退勤を命じた。商店街の管理者が訪ねてきたようで、店を出て行った。
はあ、とため息をついてエプロンを外した。明日からも同じ日々が待っていると思うと憂鬱だ。
ロッカーからバッグを取り出し、店を出ようとしたのだが。
キッチンで何か物音がする。
覗き込み、美紅はぎょっとした。巨大な塊肉があるではないか。それを郷太が、両手で割いたり包丁で削ぎ落としたりしている。
「なんか用」
「あ、あの、何してるんですか?」
「肉磨きの練習。余計な筋とか脂を取ることを、『肉を磨く』って呼ぶ。これは牛の肩ロース」
大きくどっしりとした牛肉の、白い脂身を包丁で撫でるように切っていく。しゃり、しゃり、と赤身から脂や筋が離れていく音がする。白く覆われていた肉塊が、その赤色を見せ始めていく。
磨いて、いらない部分を取り除いてこそ輝きを発するそれはまるで……。
「ルビー、みたい」
美紅は自分で呟いて「えっ」と声を漏らした。大嫌いなそれのことを私は今、なんて?
「食う?」
「え!?」
「ウチの肉の美味さ、知らないだろ」
郷太はサクを作り、それをさらに薄く包丁を入れた。コンロに火を付け、フライパンに油を敷いて焼いていく。じゅわっと心地よい音がして、塩を振りかけた。
「ほら」
差し出された皿の上には、先程の赤身肉。焼かれて赤さを失ったが代わりに脂が仄かに輝いている。美紅は箸を取り、それを睨んだ。
いざ。
ぎゅっと目を瞑って、恐る恐る齧った。
「え……おいしい……」
咀嚼すればするほど肉の旨みがやってきて、ひかえめな塩がさらに肉の味を引き立てている。脂の加減も絶妙だ。
美紅はテーブルの肉をちらっと見た。グロテスクで生々しい、命の塊そのもの。放っておけば腐ってしまう、脂肪と筋繊維の集合体。そう思っていたのに。血の通った眩しいほどの赤が、美紅の目に飛び込んで来る。
「私が、間違ってたわ」
「……わかったならいい」
ぶっきらぼうに言い捨て、郷太が肉磨きを再開した。美紅はお辞儀と共に声を上げた。
「明日もよろしくお願いします」
スキップ混じりに商店街を歩いた。陽が傾いて景色が赤く染まる。それが熱くて、眩しくて。服やジュエリーではなく、私自身が輝く第一日目。
「自分磨き、しなくっちゃ」





