2-23 鉄錆のモビーディック
世界のほぼ全てが砂の海に覆われ、人類文明が大きく衰退してから幾百年。
人類の脅威、機械合一生命体の中でも特に強大な“クジラ”と呼ばれる種を研究する学者、イシューは死した親友の妹が生きていると知りオアシスの都市を飛び出す。
しかし再会した彼女は、兄を奪ったクジラに憎悪を燃やし実在すら定かではない怪物の討伐を誓う復讐鬼と化していた。
友との約束を果たすため、失ったものの仇を討つため、青年と少女は砂航船に乗って終末の海を征く。
鋼の鯨を駆り鋼の鯨を狩る、奪還と復讐の冒険譚。
“陸で最強の生き物はなんでしょう?”
答えはクジラ以外あり得ないだろう。
砂の中を自在に泳ぎ回る、生来より備わる何基もの動力炉と強靭な筋力が生み出す凄まじい膂力。
背に負った摩天楼が如き無数の火砲や誘導弾に加え、生体を侵す瘴砂を背孔より撒き散らす『噴錆』。
堅牢な外皮と全身に散ったナノマシンによる自己修復能力は、短時間なら溶岩への潜航すら可能にする。
奴らはあらゆる面で機械合一生命体の頂点に君臨する生物種である。
希少金属と旧世界の技術の塊である奴らを狙い多くの船乗りが戦いを挑むが、対生体合金銛やナノマシン中和弾頭といった専用の装備を以てなお討伐例は殆ど存在しない。
そこまで考えて、当時十一歳だった私は出題者のしたり顔をちらりと見た。
意地悪な引っ掛け問題の可能性もある。
これは『海で最強の生き物はなんでしょう』という質問に続けての問題だった。
海と陸をわざわざ分ける意図がわからない。世界の九割八分以上を覆う砂海の内部と表層……私たちが立つ地面のことを指して区別しているのだろうか?
しばし考え思考が行き詰まり、ヒントを求めて再び友の顔を見る。
天然肉を前に待てを命じられたスナイヌのような表情だ。
“……クジラ?”
“正解―!”
私は即座に答えへと辿り着いた。
話は何も複雑ではなかった。
この薄汚れた子供は、クイズがしたかったのではない。
クジラという生物が如何に凄いのかという蘊蓄、その前フリというだけだった。
私の回答に、砂まみれのシャツでこれまた砂まみれの顔を拭い彼は笑った。
鯨骨の銛でざくざく足元を突き刺し喜びを表現しながら。
希少な素材をわざわざ個人用の銛に加工するのはまず無いらしく、貴重な一点モノだとしつこいぐらいに自慢されたものだ。
“んじゃあ次は、空で最強の──”
“どうせクジラでしょう。小芝居はいいから早く聞かせなさい”
“ちぇー、相変わらず愛想悪ぃでやんの”
富裕層の代名詞であるオアシス住まいの私と、砂海の小集落で生きる彼。
お世辞にも社交的ではない私と、誰とでもすぐに仲を深められた彼。
現実主義者の私と、理想主義者の彼。
私と彼とでは、何もかもが違っていた。
“なあ、イシュー。立派な学者さんになるんだろ? だったらさ──”
“またその話ですか。この間『前向きな方向で善処します』って言ったじゃないですか”
“その言葉選び信用できないんだって!”
だがそれでも、私たちは確かに友だった。
彼が砂の民としての知識を私に与えてくれて、私は文明人としての勉学を彼に教える。
お互いに足りない知識を埋め合い、新しい発想を導き出す。
時に意見を違え、掴み合いの喧嘩になる。
その隣では、言葉を覚え始めたばかりの彼の妹がいつも楽しそうに話を聞いていた。
今は遥かに遠い、もう戻れない過去の話だ。
そして。
「ギィ、ギィ」
近付いてくる化物と血に濡れた己の身を眺めながら、私は思った。
やはり死の間際に流れるのは楽しかった頃の記憶なんだな、と。
劇的な物語は何もない。
砂海を渡る鳥車が螺子魚に襲われた。
乗客は皆殺しにされて、その犠牲者リストの中に今から私も混じる。
人々は新聞の片隅に書かれた事件記録を「またか」と読み飛ばして、新種のフルーツが栽培成功した報にでも目を惹き付けられるだろう。
かくして、私の存在はすぐに忘れ去られる。
『しあわせにくらしましたとさ』よりもずっとありふれた、砂海での命の締めだ。
悔しかった。
死ぬことが? 誰の心にも残らないことが? 違う。
『罪状:対鯨砂航艦無断保有。中央府の許可無くしての商売。生け捕り限定。』
手に持っていた紙が、似顔絵と共にその悪事が書かれた手配書が砂混じりの風に吹き飛ばされ、空に舞い上がった。
ここに来た目的を果たせないことが、だ。
覚悟を決めて都市を出たつもりだった。
このままオアシスで生きていれば、少なくとも金にも安全にも困らない平穏な人生を送れていただろう。
けれど私には、その恵まれた身分を投げ捨ててでも成したいものがあったのだ。
「ギィィ」
だが今から全て無為になる。
私を嘲笑うように、螺子魚が顎を開こうとしていた。
生体融合質の鱗に、鉄針の乱杭歯。陸を歩き回るための三列六枚の腹鰭は、水中でしか活動しなかったという旧世界の魚が持つ棘や皮膚だけのものとは違い、肉でも構成されている。
体長は4m程だろうか。一般的には成体のサイズだがまだ成熟していないようだ。成体は腹鰭が金属の多関節脚に置き換わり、まるで蜘蛛脚が生えたような形態となるからな。
場違いにも今から喰われる相手の分析をしてしまうのは、生物学者としての悲しき性なのかもしれない。
砂海に関する知識の数々は、きっとこれからの目的にも役立てられただろうに。
怪物に食われるのが、私たちの天命なのだろうか。
彼も、十二年前に私を庇って集落ごとクジラに呑まれ死んだ。
私も今から同じ場所に行くのだろう。
「ふむ、生――は―だ――ね」
声が聞こえたのは、生を諦めたのとほぼ同時だった。
内容が碌に聞き取れなかったのは、爆発音と爆風が重なったせいでそれどころではなかったからだ。
尋常でない何かが起こったのは明らかだったが、それを確かめるには十数秒かかった。
「……!」
せき込みながら目を開けて最初に飛び込んできた光景は、歯車魚の死体だ。
身体を大きく抉り取られ、力なく横たわっている。
生体合金の外皮と自己修復機構を有する機械合一生命体には、通常の火砲は効果が薄い。私が余波で吹き飛ばされもしない威力のものでは、本来ならその命に楔を打ち込むことなど叶わないだろう。
だが、例外が存在する。
「捕鯨艦……?」
その例外は私が振り向いた先にあった。
先程まで潜航していたのか、大量の砂を被った船である。
両舷に備えられた砲を見れば軍属の警備艦に思われるが、違う。
砲弾ではなく巨大な銛を打ち込むための捕鯨砲に、砂海内部を探査するためのソナー。
これは、対人ではなく人の智を超えた怪物と戦うために最適化された戦闘艦だ。
「その大層な衣服……都市の学者がこんな場所に遠出かい?」
私の思考を、凛とした声が遮った。
船首に行儀悪く足をかけこちらを見ていたのは、ひとりの少女だった。
ぶかぶかの帽子に、これまた若干サイズが合っていない軍服のような装い。
そして。
手に握られていたのは、金属のようなそうでないような奇妙な材質……鯨骨製の銛。
「……貴女を、探していました。共に航海をするために」
頭が真っ白になる。
目の前の少女と手配書ともうひとつ、三つの顔が重なってひとつになる。
言いたい事が溢れる程にあった。
だというのに、絞り出せたのは己の目的だけだった。
「ほう。それはこの私と『ピークォド号』の目的を知った上でかい?」
まるで私を試すように、少女はにやりと笑う。
危険に満ちた砂の海を往く船長たちの多くは、まことしやかに囁かれる伝説を追って旅をしている。
死期を悟ったクジラが最後の時間を過ごし、人間にとっては膨大な資源の山である『クジラの墓場』。
水と緑に満ち、十全に稼働する旧文明の遺構が残るという古代都市『楽園』。
他にも多くがあるが、それらほぼ全てに辿り着けた時の実利が約束されている。
莫大な資産であったり、一生水に困らない安全な生活であったり。
この明日を生きられるかも怪しい時代に見る夢なのだ、もっともな話と言えるだろう。
「そう、私たちは『原初の鯨』を討ち果たす!」
けれど、ただ一つの例外があった。
原初の鯨。それは数多くある伝説の中で最も信憑性が低く、最も実益が少ない最低の物語だ。
「人の世が砂に覆われ幾百年! 何故我々はこのような埋伏と苦痛の生を送らねばならないのか! それは全て『原初の鯨』の仕業だ! 背からは潮でなくこの世全ての穢れを噴き出し、口からは歌でなくこの世全ての悪徳を唄い、胎からは全てのクジラを産んだ白き悪魔、この世全ての邪悪の元凶!」
今の砂の時代が始まったのは、とある怪物が原因である。
生態系の覇者たるクジラは一個体残らず、その怪物から生み出された存在である。
こんな与太話を信じるのは、狂人くらいだ。
「私は兄とその友を殺された。生きていれば、ちょうどキミくらいの年だったろうな」
目の前の船長を名乗る少女は、そうだった。
きっとこの船の船員たちも殆どがそうなのだろう。
「キミはどうなんだ! 何を成さんがために船に乗る! 私に宣言してみろ!」
少女が、私を誘うように呼び掛けてくる。
一件夢見がちな乙女のようで、だが違った。
復讐に塗りつぶされて、それ以外の航路を見失ってしまった光の無い瞳。
「貴女と同じです、船長。原初の鯨に恨みがあります」
“なあ、イシュー! いつか三人で航海に出よう! きっと楽しいぞ! 俺が船長兼銛撃ち兼航海士……兼任しすぎかなぁ?”
“それで、もし、万が一だぞ? 俺に何かあったら──”
友よ。もう二度と会えぬ、遥か彼方の友よ。
私は砂海を征くことにしたよ。
君が理由を聞いたら、意外に思うだろうか。それとも同行できないのを悔しがってくれるだろうか。
「ヤツに奪われたものを、取り戻したいのです」
“──妹の……エイルのこと、よろしく頼んだ”
遅くなってしまったけれど。
私は、君たちとの約束を果たしてみせよう。





