二十九.
アレクサンドルは眉を寄せ、半月斧の柄をきつく握りしめた。
「そうでしょうね。貴女はかつて最強を謳われたマキナ……その奥義ともなれば、国の最高機密にも相当するでしょう。使用を避けるのも頷けます」
「そんな大層な理由はない。――それはそうと、お前に少し頼みがあるんだ」
「頼み?」
「降伏してくれないか」
三笠は刀を下ろし、静かに言った。
その瞬間、アレクサンドルの薄荷色の瞳が大きく見開かれた。
「……なんですって?」
「降伏してくれ、といった。加減を間違えればお前を殺してしまうかもしれない。それくらい、この黒風は荒々しい」
アレクサンドルはなにも言わない。
三笠は軽く手を広げた。腕に纏った黒い渦がゆらりとなびき、髪を揺らす。
「これでお前を傷つけずに済むなら、それに越したことはない。――だから、武器を下ろしてくれないか」
「――ふざけるなぁあああ!」
アレクサンドルが口を開くよりも早く、甲高い叫びが響き渡った。
三笠はやや顔色を曇らせ、ちらりとニコライに視線を向ける。スワロフを拘束したまま、彼女は肩を震わせていた。
「ここで負けるわけにはいかない! やっと……やっとここまできたんだ……!」
「ニコライ……アナタ……」
複雑な表情で、スワロフが背後のニコライを見やる。
ニコライはしゃくり上げながらも、きつく三笠を睨んだ。水色の瞳が強く輝きだす。
「もう負けたくないんだ……ボクだって――!」
ニコライがタンッ! と高く靴音を響かせた。
同時に二つの影が俊敏に薄霧の中を飛び交い、背後から三笠へと襲いかかった。
「今度こそ証明できるんだ――!」
「バルチックが無敵だって――!」
ニコライの分身達が口々に叫びつつ、三笠めがけて次々に刃を繰り出した。
怒りのこもった激烈な斬撃は、先ほどよりも遥かに起動が読みやすくなっていた。三笠はなにも言わず、最小限の動きでそれらをかわす。
しかし、そこに半月斧が振り下ろされる。
「っ!」
とっさに一歩下がった三笠の足に、太い鉄の鎖が絡みついた。
地面に沈み込んだ半月斧を引き抜き、アレクサンドルは三笠にそれをむけた。
「――これでわかりましたか、三笠」
「交渉決裂か」
「むしろ成立すると思っていたのですか? 傲慢ですね、三笠」
アレクサンドルが冷ややかな口調で言い放つ。
足を拘束する幻覚の鎖を見下ろし、三笠は物憂げにため息をついた。
「……思うようにならないな、本当に」
「その無力感を噛みしめて倒れなさい――行きますよ」
アレクサンドルは半月斧を振りかぶり、大きく跳んだ。同時にその左右から、双剣を振りかざしたニコライの分身達が走りでる。
高く空中を跳ぶアレクサンドルが長身を翻し、半月斧を薙ぎ払う。
「幻の中に消えなさい――!」
彼女の背後から大量の剣や槍が現れ、三笠めがけて怒濤の如く押し寄せる。
アレクサンドルの幻影は、体が実際に喰らったと錯覚を起こすほどの質を誇る。まともに食らえば消耗は必須。
しかし視界いっぱいに広がる幻影と散弾を捉えてなおも、三笠の表情は静かだった。
「……やむを得ん」
低い呟きと共に、三笠は刀を高く構えた。
目を細め、アレクサンドル達の位置を確認すると――袈裟懸けに刀を振り下ろした。
轟音が大気を揺るがす。黒い烈風が生じ、大地を蹂躙するように吹き荒んだ。
「ひっ――」
「ぎゃあぁあああ!」
結界を展開する間もなく、二人のニコライが風の渦に呑み込まれる。瞬間その体に無数の亀裂が走り、粉々に砕け散った。
着地したアレクサンドルは、迫り来る黒い風を呆然と見つめた。
「こんな……」
剣が、槍が、鉄球が――幾百もの幻が風に浚われ、呆気なく消滅していく。
アレクサンドルの顔が、初めて明確な感情に――恐怖に染まった。
「こんな……! あぁああ――!」
悲鳴は禍々しい風のいななきにかき消された。
未練がましく残っていた霧を散らし、風は重く垂れ込めていた雲までも切り裂く。
やがて静まりかえった地上に、淡い月光が零れた。




