第09話 猫の糞
「ソフィア様。最近はえらくご機嫌ですね」
オズヴァルトはご機嫌な様子で歩いているソフィアを見て声をかける。ここ最近、訓練終わりの時間帯にソフィアをよく見かけるのだ。クロードと同様にいつも沈んだ表情をしていたが、だんだんとその顔が晴れて来た。今日に限っては笑顔まで浮かべている。
「オズヴァルト! ふふふ、ちょっと近くに来てください!」
「お姫様にそう言われるなんて、身に余る光栄でございます」
わざとらしく大仰に言い、笑みを浮かべてソフィアの近くまで行く。ふわりと良い香りが鼻をくすぐった。
「おや。リディア様の香水ですか?」
オズヴァルトが問うとソフィアは笑顔のまま顔を横に振った。
「いいえ、これは私の香水なのです! そして私専用に作っていただけたものが、今日完成するのです! あ、はやくいかなくちゃ!」
「どちらに行かれるのですか?」
「え? あ……秘密です!」
ソフィアはオズヴァルトに手を振ると、急ぎ足で駆けて行った。向かう方向は魔術師団の駐屯所。その横あるのは調合班の建物である。そしてオズヴァルトは自分が連れて来た調合士、いや、調香士と名乗っていた少女のことを思い出す。
「……調香士リーリエ。いや、まさかな」
いくら国が雇った調合士とは言え、まだ試用期間中の彼女に護衛もつけずに王女が会いに行くなど、本来は許されることではない。
「一応、クロードに報告しておくか」
オズヴァルトはポリポリと頭を掻いた後、今日も仕事に没頭しているだろうクロードの執務室へと足を運んだ。
◇
「と言うわけだ。放っておいても大丈夫か?」
オズヴァルトからの報告を聞いて、クロードは小さくため息を吐いた。最近妹の機嫌が良くなったのは気が付いていたが、どうやら自分が連れて来た調合士と何かしているらしい。
最初は特別なポーションが作れる調合士かと期待していたが、リッツからはこれと言った報告はない。唯一あったのは『とても鼻が良い』などというどうでもいいものだった。勝手に期待した自分が悪いのだが、どうやら期待外れだったらしい。
そしてそんな調合士のことなどすっかり頭からなくなった頃に、クロードからのこの報告だ。ため息も漏れる。
「オズヴァルト。様子を見に行ってくれ。必要なら調合士を追い出しても構わない」
書類から目も離さないクロードの頭をオズヴァルトが軽く小突く。
「お前のせいで塞ぎ込んでいた可愛い妹が、ようやく元気を取り戻したんだ。まずは自分で確認してやったらどうなんだよ」
「仕事が立て込んでいるんだ」
「だから自分で立て込ませてるんだろうが」
オズヴァルトはクロードの首根っこを掴むとひょいと持ちあげた。そしてクロードが座っていた椅子に自分が座る。
「忙しいなら代わりに俺が仕事しといてやるよ」
「……ヴァルに触られるとめちゃくちゃにされそうだからやめてくれ」
「だから、めちゃくちゃにされる前にさっさと行ってこいっつってんだよ」
どこまでも強引な、しかし自分を思ってくれているオズヴァルトに少しだけ微笑んだ後、クロードは執務室を出て行った。
◇
リッツにリーリエの部屋の場所を聞き、クロードは足早に歩く。教えてもらった部屋の前に来ると、中から声が聞こえて来た。
自らの命で調合班に招いたものの、クロードはまだその調合士の顔すら見ていない。もっとも、王族であるクロードがわざわざ調合士の顔を見に行く必要もないだろう。
「り、リーリエさん……駄目です、嫌です、やめてください!」
「大丈夫、これも経験です。貴族でやっている方もいるのですよ。ほんの少しなら問題ありません」
「でも、そんなもの、そんなものを入れるなんて……あぁっ!」
聞こえてきたのはリーリエと思われる声と、聴きなれた妹の声だ。悲痛な妹の声を聴き、クロードは怒りで毛が逆立つのを感じた。天使のように純粋な我が妹が、汚されているのだ。
「何をしている!!」
叫びながら扉を開けるクロード。その視界に飛び込んできた光景は……
「……どなたですか?」
「……お兄様?」
マスクを着けて何やら液体をかき混ぜる痩せた少女と、その腕を引っ張って何とか止めようとしているソフィアの姿だった。
てっきり無理やり嫌なことをさせられていると思っていたクロードが、意味不明な光景に固まる。
「……何をしている?」
「お兄様聞いてください! リーリエさんが、リーリエさんが猫の糞を! 糞を!」
「ですから糞ではなく分泌物だと言っているではないですか! れっきとした香料です! 高級品なんですよ!?」
「だってにおいが! 臭すぎます!」
「ですから希釈して使用するんですってば!」
そして漂ってくる、明らかに糞尿のような匂い。クロードは額に手を当てて疲れたように言った。
「一から。一から説明しろ」
◇
「というわけで、ソフィア様に調香のお話をすることになったのです」
「……この糞のような匂いは?」
「それはジャコウネコの分泌物です。原料状態では非常に嫌悪感のある香りですが、希釈することにより官能的な香りになるんですよ」
「……信じられないな。猫の糞が香料になるなんて」
とりあえずソフィアが汚されているような事態ではないと理解したクロードが、猫の糞……もとい分泌物の入った小皿に目を落とす。鼻を近づけなくても分かる。獣臭い。そして糞尿臭い。
少し小皿を顔に近づけて、嫌な表情で顔を離す。
そんなクロードの様子を見ながら、リーリエは内心で冷や汗をかいていた。
なぜただの調合士、しかも雇われてから数か月しかたっていない自分の部屋に、あろうことかこの国の第一王子と第二王女がいるのだろうか。本来であれば、お目見えすることすら叶わない天上人である。
そして戦々恐々としながらも、少しの苛立ちを覚えていた。第一王子ということは、リーリエを半ば無理やり調合士として連れてくることを決定した張本人である。清貧ながらも自由で落ち着いた生活をしていたリーリエをこんなところに引きずり出した張本人なのだ。
それなのに何故こんなに胡散臭そうな、意味の分からないものを見るような目で見られているのだろうか。理不尽だ。
リーリエがクロードに目を向ける。濃いクマが目の下に張り付いたその顔を。
「クロード様は、最近睡眠が浅いようですね。よろしければ、よく眠れるようになるボディミストを調香しますよ」
「いや、私は……」
「先ほどのシベット……猫の糞を使用して」
「……」
リーリエの言いたいことに気が付いたのだろう。クロードが押し黙った。
沈黙を肯定と捉えたのか、リーリエが早速調香を始める。
猫の糞と呼ばれたものを奪い返し、アルコールで薄く希釈する。これで準備は整った。
「トップノートは沈静の効果のあるラベンダーを。ベルガモット製油も足して、開放感のある香りにします。ミドルノートは不安を和らげるネロリを。ベースノートは心を落ち着かせるサンダルウッドを」
エタノールの入った小瓶に、次々に香料を入れて混ぜ合わせる。良く混ざったそれをクロードの前に掲げた。まだ猫の糞は入っていない。
「嗅いでみてください」
「う、うむ……」
押せば倒れるような細身の少女に何故か気圧されて、クロードはその小瓶を嗅いだ。良い香りが鼻を抜けていく。
「良い香りだ」
「私も! 私にもにおわせてください!」
必死にアピールするソフィアも鼻を近づけてにおいを嗅いだ。その顔が笑顔になる。
「とっても良い香りです! 安心するような、落ち着くような」
リーリエは満足気に頷くと、最後にシベットを薄めたものを、ほんの二滴だけ足した。クロードとソフィアの顔が曇る。意趣返ししてやろうと思ったリーリエもこのあからさまな表情に思わず苦笑した。
「そんなに嫌な顔をしないでください」
リーリエの差し出した小瓶におそるおそるといった様子で顔を近づける二人。においを嗅いだ途端に驚きの表情に変わる。
「これは……」
「すごいですすごいです! 香りが、なんというか、まろやかで芳醇な香りになりました!」
「そうでしょう。あとは精製水を入れてよく振れば完成です。2,3日もすれば香りが馴染んで、よりよい香りになりますよ」
小瓶に精製水を足して、良く振った後にそれをクロードに手渡す。クロードは困惑しながらもそれを受け取った。
一言侍女に言えば最高級の香水がすぐに手に入る身分である。こんなひょろひょろの小娘が作ったボディミストを使用する必要なんてない。しかし、先ほどの香りは確かによく眠れそうだった。
「頂いておこう」
「追加でご入用であれば、いつでもお申し付けください」
「リーリエさん! 私の香水はもうできましたか!?」
「はい。もう十分馴染みました。こちらをどうぞ」
リーリエはかわいらしい小瓶に入った香水をソフィアに手渡した。ソフィアが満面の笑みでそれを受け取る。
「まぁ! なんてかわいらしいのでしょうか! リーリエさん、ありがとうございます!」
「喜んでいただけたのなら何よりです」
ニコニコと笑顔を浮かべるソフィア。そんな妹の様子にクロードは少し微笑んだ後、真顔になって低い声を出す。
「ところでソフィア。ここに来ることは誰かに伝えたか?」
「ぴぃっ!」
ビクリと肩を跳ね上げるソフィア。それでも抱えた小瓶はしっかりと握っていたため、落とすようなことはなかった。
「そ、それは……」
「お前は第二王女だ。いくら宮廷内とはいえ、使用人もつけずにふらふらと出歩くな。どこかに行くときは必ず伝えてから行けと言っているだろう」
「申し訳ありませんでした、お兄様……」
「大体どうしてこんなところに来るようになったんだ?」
「それは……お母様の香りがしたからです……」
「母上の?」
怒られているソフィアを助けるため、というわけでもないが、リーリエが一本の香水を取り出す。柚香だ。
「私の作っている香水が、リディア様のお使いになられているものと似ていたようで。その香りにひかれてこちらに来られたみたいです」
「お兄様も、お母様も元気がなくて、なかなかお顔を見ることもできなかったので、懐かしくなってしまってつい……」
しょんぼりした表情でうつむくリーリエ。流石にそんな妹を叱ることは、クロードにはできなかった。もとはと言えば全て自分のせいなのだ。自分がひきこもる前は母も妹も笑顔だった。
「だからと言って、一人で出歩くな」
「……はい」
「今後は俺に一声かけてから行くようにしろ。いいな?」
そのクロードの言葉に、ソフィアの顔が再び明るくなる。
「これからもリーリエさんのところに来ても良いんですか!?」
「あぁ。だが俺も同行する」
「ありがとうございます! お兄様!」
喜びのあまりクロードの腰に抱き着くソフィア。見目麗しい王子と王女のワンシーンを見ながら、リーリエは天を仰いだ。
心の安寧はまだ当分訪れそうにない。




