第06話 調香材料
「調合士リーリエさんのお部屋はこちらで合ってますか? ご注文された品物の納品に参りました」
「はい。今開けます」
今日はリーリエが楽しみに待っていた、調香道具が納品される日である。本来は調合の仕事があるが、リッツに融通を効かせてもらい、休みにして貰っている。せっかく道具が届くのだ。すぐに使わずに我慢なんてできるわけがない。
「机の上にお願いします」
「こちらですね。かしこまりました」
納品事業者が額に汗をかきながら運んできたそれを、机の上に展開する。
階段状の木製の棚に、ずらりと整列する空の試験管。まずはそれぞれの試験官に様々な香料を入れるところからが始まりだ。香水だけでなく線香の材料も併せて注文したため、何もなくシンプルだった白い部屋が一瞬でにぎやかになった。
荷物全てを部屋に運び込んだ後に、念のためにリーリエが納品書を確認すると、納品されていないものが二点。『アイリスルート』と、『アグルウッド』。頻繁に使用するものではないが、揃えておきたい香料である。
「すみません。このふたつが見あたらないのですが……」
「あ、それですね。申し訳ないです。ウチの商会じゃ取り扱いがなくて……。恥ずかしながら聞いたこともない材料だったんで、今取り扱える所を探しているところなんですよ。そのうち納品に来るのでお待ちください」
「確かに、あまり有名ではない材料ですからね。承知しました」
少し足りないものはあったが、とりあえず柚香の材料は揃えることが出来た。早速調香を始めることにしよう。
昼食を食べるのも忘れ、数多くの調香道具をすべて開き終わり、調香できる状態になった時には既に夕方。結構な時間がかかってしまったが、当然調香しないまま一日を終えるなんてありえない。
お腹がすいていることも忘れて意気揚々と調香を始めたリーリエであったが、その顔はすぐに曇ることになる。
「……なんか違う。やっぱり自分で採香しないとだめか」
柚子の香料に清涼感のあるローズマリーと白檀の香りを混ぜて作った『柚香』だが、その香りは何か物足りない。長い時間放置されて香りが飛んでしまったのか、採香に使用した柚子が品質の悪いものだったのか。原因は不明だが、決して満足のいくものではない。
季節は初夏。市場に行けば青柚子ならいくらでも手に入るだろう。
リーリエはさっそく市場に向かうことにした。
◇
「……においが消えないな」
市場へと足を進めて数十分。風上である背後から吹く風に乗ってくる、嗅いだことのある香り。シトラスのように清涼化がありどこかミステリアスさを思わせる魔香。一般人であればまず気が付くことはないが、調香士のリーリエはすぐに気が付いた。
「リッツさんの香り……。こっちに来てる?」
振り向いてみるも、リッツの姿はない。しかし、香りは確かにした。
「リッツさんの魔香に似た人でもいたかな? いやでも、こんなに似ている人いるかな」
少し疑問は残るが、リーリエは特に気にしないことに決めた。もしかしたらリッツも市場に買い物に来たのかもしれない。
リーリエは市場に着くとすぐにリッツのことなど忘れて、青柚子の吟味を始める。旬なだけあって、どれも香りが強く品質が良い。
満足のいく買い物が出来て、リーリエはウキウキで帰宅した。
自室に戻ったリーリエだが、残念ながら自室では火を用いた採香はできない。厳密には出来ないことはないのだが、さすがに許可もなしに火を扱うのはまずい。そう思ったリーリエはさっそくリッツのもとに許可を求めに行くことにした。何を買いに行ったのかはわからないが、おそらく市場からはもう戻ってきているだろう。
副班長室の扉をたたくと、返事はすぐに帰って来た。どうぞ、という言葉を聞いて中に入る。
リッツは机の上の書類から目を離すことなく、リーリエに問いかける。
「リーリエさん。どうされましたか?」
「自室で火を取り扱おうかと思っていたのですが、念のため許可を得てから行おうと思いまして」
「火を? それはまたどうして。煙草は……吸いませんよね」
リッツは書類から目を離してリーリエに目を向ける。流石に煙草を吸うようには見えない。
「はい、煙草はほとんど口にしません。ちょっと調香で火を使う必要がありまして」
リーリエがことの経緯を説明すると、リッツが納得したように頷いた。
「なるほど。それでしたら研究室を使用してもよいですよ」
「良いんですか?」
「自室で行って火事が発生するリスクを考えると、研究室の方がよほど安全ですから」
研究室であれば道具も一式そろっている。水蒸気を使用した香料の抽出は当然可能であるし、遠心分離機やアルコールなどもある。採香にはもってこいだ。
「ありがとうございます! あの、話は変わるんですが、リッツさん、今日市場にいましたか?」
軽い世間話のつもりで話を振ったリーリエに、リッツが鋭い視線を向けてきた。
「……私は市場には行ってませんが」
「え、あの……」
リーリエなりに頑張って社交しようとしたのだが、その頑張りは逆効果だったようだ。明らかにリッツの雰囲気が変わった。
「ごめんなさい、聞かない方がよかった、ですよね。すみません、気が利かなくて」
リーリエは考える。絶対に市場の近くに居たのに、何も買ってはいないという。そして急変したリッツの態度。市場の方角には他に何があっただろうか。男の人が知られたくないようなもの。そして買い物ではないとすると、それは……
「そうか、遊郭……。ごめんなさい、口外しませんから」
ボソリとつぶやいたリーリエの言葉を聞いて、リッツがあっけにとられたような顔をする。
「すみません。私はこれで」
「ちょ、ちょっと待ってください。待ちなさいリーリエさん。お願い待って。何か致命的な齟齬が発生している気がします」
リッツが慌てて立ち上がり、リーリエの手首をつかんで止めた。
「あの、大丈夫です。昔は父もそういうところに行ってたって、聞いたことがありますから。……あれ? でも遊郭にしては随分と帰りがはや……あ、ごごご、ごめんなさい! 人によりますよね、すみません! 誰にも言いませんから!」
「だから違うと言っているでしょう! ちょっと座ってください」
普段は張り付いたような笑みを浮かべているリッツの初めて見る素の表情に、リーリエは本当に聞いてはいけないことを聞いてしまったのだと申し訳なくなった。
「そんな顔しなくていいですから。違いますから本当に」
リッツは疲れた顔で額に手を当てて、大きくため息を吐いた。
「それで、どうして私が市場に行ったと思ったのですか?」
「それは……香りがしたので」
「香り? 私は香水などつけていませんが」
「私、調香士で鼻が良いので。多少離れていても魔香で分かるんですよ。それにリッツさんはローデリアのご出身ですよね? 名前も定冠詞が入っていますし。ローデリアの方の魔力は少し香りが違うんですよ。シトラス系っぽい香りが混ざるので」
「……そんなことでバレるなんて。犬ですか貴女は……」
リッツは椅子の背もたれにもたれて、両手を軽く上げた。
「わざわざ自らその話を振ってきているという時点で、貴方に裏はないのでしょう。これで罠だったらその演技力にお手上げです」
「なんの話ですか?」
「監視させてもらってたんですよ。あなたのことを。まさか魔法も使っていないのに魔香でバレるとは思いませんでしたが」
「はぁ。監視、ですか」
「前にも少し話しましたよね? 調合士は毒殺に一番近い職業だと。なので何か変なもの……毒の材料になるようなものを買いに行かないか監視をしていたんです。まぁ、ほくほく顔で鼻歌を歌いながら青柚子を買っていただけだったので問題ないと判断しましたが」
「ぅ”」
どうやら見られていたらしい。暗殺者でないかと疑われて監視されているのに、能天気に鼻歌を歌いながら青柚子を買う自分の姿を想像してリーリエは顔に血が上るのを感じた。恥ずかしい。
「必要なものの注文をこちらで請け負っているのもその一環です。こちらで購入物を把握できていれば、いちいち買い物を警戒する必要もないですしね」
「な、なるほど。そういうわけでしたか」
私物の買い物も一緒にしてくれるなんて、とても親切だなぁなどと思っていたが、しっかりと裏はあったらしい。
「でも、良かったんですか? その話を私にしてしまっても」
「魔香で個人が特定できるなんていう特技を、ただの世間話で普通にばらしてくる時点で、暗殺者としてはありえませんからね。まぁ、感情がすぐ顔に出てしまうあなたが暗殺を企てているとは夢にも思いませんが」
どうやら随分とひよっこに思われているようだ。もう少し顔に出さないように頑張ろうと決意した。
「別にそんなに頑張ろうとしなくていいですよ」
顔に出ていたらしい。
「まぁ、そういうわけで市場まで尾行させてもらったわけです。だから市場で買い物はしていませんし、決して遊郭で遊んでいたわけでもありません。決して」
「す、すみませんでした……」
「分かってもらえれば結構です。今後買い物に出る時は、一声かけてくれるとありがたいです。私の仕事が楽になるので。もう行ってもいいですよ。調香をしたくてウズウズしているのは分かってますから」
「はい、ありがとうございます」
疲れた顔のリッツに申し訳なさを覚えながら、リーリエは研究室へと向かった。




