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第16話 嫉妬

「……」


 クロードは目の前の光景を見て固まった。調合班の建物の研究室にいる一人の少女。灰色の髪の少女は、確かにリーリエだ。しかし、数週間前の彼女とはまるで別人だ。

 パサついていた髪はつややかになり優しくウェーブしていて、その顔に張り付いていた濃いクマはすっかりなくなっている。体つきも、まだまだ痩せてはいるが多少女性らしい丸みを帯びいる。面影はあるが、まるで別人。前まではスラム街にいる貧乏少女と言われても違和感がないほどであったが、今はその逆。貴族のご令嬢と言っても通用するだろう。

 そんなリーリエは、クロードが見たことのない笑顔を浮かべていた。気の置けない友人に向けるような自然な笑み。それを向ける相手は、隣に座っている少女のような雰囲気の少年だ。

 クロードは少しざわつく気持ちに気が付かない振りをして、二人のもとに歩いて行く。

 近づいてきたクロードに気が付いたリーリエが顔を上げる。


「あ、クロード様。何か御用ですか?」


 先ほどまで少年に向けていた笑顔がまだ残った顔。言いようのないもやもやがクロードの胸を覆う。


「クロード様?」


 自分を見たまま何も言わないクロードに、リーリエが首をかしげて再度問いかける。


「あ。あぁすまない。そうだ、用件は、用件……」


 用件は一体何だっただろうか。ボディミストはまだ切れていない。リーリエが作成しているポーションに特に不備はない。自分はいったいなぜここに来たのだろうか。


「母上とアリスがお前を気に掛けると言っていただろう。調子はどうかと思い確認しに来たんだ。お前は私の専属調合士だからな」


 こんなことを言いたかったのだろうか。クロードは自問する。明らかに美しくなった彼女にかける言葉はほかにあるんじゃないだろうか。


「はい。リディア様とアリスさんのおかげで、体調は非常に良いです。ただ、その、例の件は気になっていますが」


 例の件。クロードは魔香のことだとすぐに気が付いた。


「ポーションの方は問題ない。いたって普通だ。ところで、そちらの少年は?」


 クロードがピノに視線を向ける。ピノはリーリエがクロードの名を呼んだ時から、顔面が蒼白だ。クロードの身なりと名前から、第一王子であることを察したのだろう。


「く、く、く、クロード様! 私は、えっと、薬草屋を営んでいるピノというものです! リーリエさんのご注文で、専門的なものがあった場合に納品に来ております!」


 一般庶民が王族に話しかけられた時のお手本のような反応でピノは返事をした。


「そうか。随分と楽しそうだったな」


「ピノは植物にとても詳しいのです。今回はミルラという香料を注文していたのですが、せっかくなので乾燥させたミルラの樹脂そのものを持ってきてもらって、ここで水蒸気蒸留を行っているのです。とてもスモーキーで甘い香りがするんですよ! 希少な香料なので、ぜひクロード様も香ってみてください!」


 小皿に入れられたオイルのような液体。少々抵抗はあったが、クロードが鼻を近づける。


「不思議な香りだ。薬草のようで、どこか煙たい。そして仄かに甘みのある香りだ」


「そうなんです! 落ち着いているのにどこか神秘的で官能的な香りがするんです! あえてトップを柑橘系のベルガモットの精油と合わせると、香りが華やかにスタートして、ミルラの神秘的な甘さで落ち着くんです! なかなかに面白い香料なんですよ!」


 リーリエは美しくなってもリーリエだった。香りの話になると人が変わったように目を輝かせるリーリエの姿に、クロードは胸を打たれた。

 

「そうか。そういえばリーリエはその人個人に合わせた香水を作れるのだろう? そのミルラを使って、私にも香水を作ってくれないか?」


「もちろんです! それでは失礼しますね」


 リーリエはためらうことなくクロードに近づき、その胸元に接するほどに鼻を近づける。


「なっ!」


 近づいてきたリーリエ。その体から立ち上る香りに、クロードは眩暈がした。まるで男を誘うかのような甘い香り。以前リーリエが言っていた魔力の香りとはこのことなのかと理解する。

 そんなクロードの様子に気が付くこともなく、リーリエは香水のレシピに頭を巡らせていた。


「……深淵の森のような深く落ち着いた香りに、漂う気品。ミドルはミルラと、イリス。ラストは……アンバーグリスとシダーウッドを。トップが悩むな……。ベルガモット……いや、フランキンセンスにセージを合わせよう。これは、良い香りになる」


 香水の方向性が決定したのか、リーリエがクロードがから離れた。


「二週間ほどで出来上がりますので、そのくらいに取りに来ていただければ……」


「リーリエ」


 クロードがリーリエの言葉を途中で遮った。


「えっと、なんでしょうか?」


「お前は私の専属調合士だ。香水の調合も私以外のものはするな」


 クロードのその言葉にリーリエの顔が曇る。


「不都合があるのか?」


「えっと……リディア様とソフィア様からは、定期的に香水の作成依頼がありまして……」


「……分かった。王族であれば、許そう」


「ありがとうございます!」


 よほど香水の調香が好きなのだろう。リーリエの曇った顔が晴れた。


「二週間後にまた取りに来る。あまり無理はするなよ」


 最後にピノを一瞥して、クロードは帰っていった。


 ◇


「リーリエ。調子はどうだ」


 数日後、部屋を訪ねて来たクロードを見てリーリエは線香を作っていた手を止めた。第一王子が来ているのだ。ながら作業をしながら会話をするなど不敬でしかない。しかし、クロードは片づけをしようとするリーリエの手を止めた。

 

「そのままでいい。突然訪ねたのはこちらだからな」


「しかし……」


「構わない」


 構わないと言われても……。少し悩んだ後にリーリエは手を動かし始めた。ちょうど線香型で型抜きを行っているところだったのだ。ここで手を止めるのも気持ちが悪い。


「それで、調子はどうだ」


「えっと、調子、ですか」


 要領を得ないクロードの問いかけにリーリエは疑問符を浮かべる。何の話だろうか。


「先日調香した香水でしたら、今は寝かせている最中です。お伝え忘れていたら大変申し訳ないのですが、完成には後一週間ほどはかかります」


「いや、その話は確かに聞いている」


 香水のことじゃないのだとしたら何のことだろうと、リーリエは再び首を捻った。


「体調の件についてだ。数か月前までは今にも倒れそうに細かったからな。最近は、その、だいぶ健康的な身体になったな」


 言葉を口にしてからクロードは後悔した。これではまるでリーリエの身体をじろじろと観察しているかのように聞こえてしまう。

 しかしリーリエはそんなこと微塵も思っていないのか、笑顔で答える。

 

「はい! アリスさんのおかげで、とても健康的になれました! なんだか体が軽くなって、動くのも全然億劫じゃなくて。重いものでも持てるようになったんですよ」


 リーリエは袖をぐいと捲り、その二の腕をクロードに見せた。クロードの鼻にふわりと香るリーリエの甘いにおい。


「そ、そうか。それは良かった。もし必要なものや困ったことがあればいつでも行ってくれ。できることはしよう」


「困ったこと……。いえ、今のところはないです。最初は私の魔香のせいで、周りの方に迷惑をおかけすることになるかと思ったのですが、どうやら私の自意識過剰だったみたいです。私は鼻が良いので過剰に注意していましたが、他の方に香るほど、私の魔力は強くないみたいでしたので。今まで瀉血していたのはなんだったのかって話ですよね」


 リーリエが屈託ない顔で笑う。実際にはその甘い香りのせいで、複数人の男を落としかけているのだが、さすがにだれも本人にそのことを指摘できるはずもなかった。クロードもそのうちの一人だった。


「まぁ、なんだ。それでもほかの男性にはあまり近づかない方が良いかもしれないな」


「ご心配ありがとうございます。でも大丈夫ですよ。私なんかに興味を持つ方はいないと思うので」


 全く警戒した様子の無いリーリエ。


「それでもだ。気を付けるに越したことはないだろう。分かったな?」


「えっと、はい。クロード様がそうおっしゃるのであれば」


 どうやらこのリーリエという少女は、健康的に美しくなった自分の魅力にこれっぽっちも気が付いていないらしい。これからも頻繁に様子を見に来る必要がありそうだと、クロードはため息を吐いた。

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