5
呼ばれている。誰かに、僕は呼ばれている。
行かなければ。長い影を落としながら、トオルはふらふらと細かな砂の散らばる公園を歩いていた。
辺り一面に白い花が咲いている。あれはたんぽぽの綿毛だ。そういえば自分も子供の頃、よく他の子と取り合って遊んだっけ。空に向けてかざしては、思いきり息を吹いて飛ばして。
少しずつ、アーチが近づいてくる。どこも錆びておらず、鮮やかな白で塗装されたアーチが。そうか、もともとあれは白でできていたのか。
「トオル」
誰かの声がする。アーチの向こう側は、パステルカラーでできた虹色のもやが緩く渦を巻いていた。
「やめろ、トオル。行くな。取り込まれるぞ」
だけど言葉はシャボン玉のように弾けて消えてしまい、何も聞こえなくなった。どこか遠くで我が子を呼ぶ、カラスの切ない鳴き声以外には。
歩みを進める。白いアーチに近づく。あと数センチで、トオルの指先が虹色のもやに触れようとした時である。
――「おててをちょうだい」
ふと、幼い声がトオルの耳に届いたのだ。
――「おててを、ちょうだい」
今にも泣き出しそうな声だった。不安で、悲しくて、一人で道に迷ってしまった子供のような声。そしてそれを聞いてしまった瞬間、お人好しな男は何もしないではいられなかったのである。
手を伸ばす。自分の右隣にいる小さな気配に向かって。
「うん、いいよ」
彼は、優しく微笑んだ。
「おいで」
少しだけ、躊躇うような間があった。
うっすらと透けた幼い指が、トオルの差し出した手の先でゆらゆらとしている。それが引っ込んだかと思うと、柔らかな感触がトオルの手の中に入ってきた。小さな幽霊は、トオルの手の平に自らの頬を擦り寄せていた。
思わずもう片方の手も差し出す。髪を撫でられたその子は、くすぐったそうに身を捩った。丸い目がトオルを見上げる。……本当に、まだほんの子供だったのだ。幼くてかわいらしい、誰からも愛されるべきだったはずの子供。
「……おててだ」
トオルには、その幽霊が笑ったように見えた。
「おおきい、ぼくのおてて」
そうして、それはそれは嬉しそうに笑って、幽霊は消えてしまった。
「あ……!」
待って、と言おうとした声は、急な突風にかき消された。足元に咲いていたたんぽぽの綿毛が一斉に舞い、夕焼けの空へと吸い込まれていく。面食らったトオルは、つい数歩後ろへ下がった。
「トオル」
そんな彼を受け止めたのは、佐一である。ハッと顔を上げる。そこにあるアーチは、いつもと変わらず錆びた様子でぽつんと寂しげに佇んでいた。
街の雑踏が聞こえ始める。どこかの家から夕食のいい匂いがする。夕焼けの陽はもう住宅街の隙間に沈みかけていた。もうすぐ、日が暮れる。
「トオル……大丈夫? 何か見たのか?」
佐一の問いに、呆然としたままのトオルは答えられなかった。胸が詰まって詰まって、少しの声すら出すのが難しかったのだ。
「……子供に」
「うん?」
「幼い子供に……会いました」
だが一つ言葉を切ってしまうと、堰を切ったように涙がこぼれ落ちてきた。佐一に抱えられたまま、年甲斐もなくトオルはぼろぼろと泣く。
「僕に……『おててをちょうだい』と、そう言いました。でも、僕がおいでって言ったら……手を取らず、僕の手の中に飛び込んできて」
「……」
「きっと、誰にも撫でられたことがない子だったんです。公園に遊びに来る他の子を見て、自分も大きな手が欲しいと思ってしまった。誰かの手に……撫でてもらいたいと」
自分の両手を見つめる。所々マメができて、お世辞にも綺麗とはいえない手。トオルは、挟んだ頬の中いっぱいに広がったはにかんだような笑顔を思い出していた。
「……こんな僕なんかの手でも、いいと思ってしまうぐらいに」
「……トオル」
「ダメだなぁ、僕はもっと優しい言葉をかけてあげるべきだったんです。あの子は本当に、幸せにならなきゃいけない子だったのに」
ぐすぐすと鼻を鳴らすトオルに、佐一は何と言葉をかけていいか迷っていた。それでもトオルを立たせてやると、自分はアーチの元に向かう。
「佐一さん……?」
「トオル、これ。心当たりある?」
「それは……たんぽぽですか?」
佐一が持ってきたのは、茎からちぎれた綿毛のたんぽぽ。見れば、半分だけ綿毛が無くなっていた。
「……よくわかんないけど、子供ってのはこれを吹いて遊ぶんだろ」
トオルから手渡されたたんぽぽは、子供がずっと握りしめていたみたいに少しだけ萎れていた。
「俺思うんだけどさ、トオルが来たから、その子はこれで遊ばなくても良くなったんじゃねぇかな。やっと自分の声に返事して、頭を撫でてくれる人が現れたんだから」
「……」
「嬉しかったと思うよ。俺は、そう思う」
できる限り優しくあろうとしてくれた言葉に、トオルはまた泣き出しそうに顔を歪める。だけど、今度はなんとか堪えた。
飲み込んだ涙の代わりに、優しくたんぽぽに息を吹きかける。綿毛は何の抵抗も無く一斉にトオルの元から離れると、夕暮れの風に乗って夜に向かう空へと飛んでいったのだった。




