―66― 話し合い
わたし、リリア=ヴェルトは、目の前の光景に完全に呑まれていた。
さっきまで何もなかったはずの空間に、突如として現れた『アレ』。
白金の翼、無数の目、光る輪っかの顔、光の帯の手足……。モンスターというにはあまりにも異質で、神話に出てくる超越存在か、あるいは悪夢そのものが形を持ったような、そんな畏怖すべき存在。全身の肌が粟立ち、本能がけたたましく警鐘を鳴らしている。
これは、絶対に、関わってはいけないヤバいものだ。
その、ヤバいもののすぐ隣で。
さっき「暗殺者」とかなんとか叫んでいた見慣れない女の子が、顔を真っ赤にして固まっている。今はもう真っ赤を通り越して、真っ青になっているけど……。
この子はこの子でなんなのだろう?
さっき口にしていた「暗殺者」っていうのは、わたしの聞き間違い……だよね?
だって、彼女が本当に暗殺者なら、セツさんは彼女も警戒しないとおかしいような……?
それよりも、信じられないのはセツさんだ。
彼は、その異形の存在を前にしても、まったく動じていない。それどころか、心底面倒くさそうに話しかけている。
「ワレワレハ……コノウチュウノ……チツジョヲ、カンスル……(ザザッ)……『シリウス』ノ、メ……(ジジジッ)……コノ、ジゲンカンソク……タンマツ……(ピ――)……ワガ ナハ ルミナス……」
ルミナスってのが名前なのかな?
そのルミナスは、ノイズまみれの声で語る。
宇宙の秩序? シリウスの目? 次元観測端末? なんかスケールが大きすぎて、単語は拾えても意味が全く頭に入ってこない。
「要するに、あんたたちは宇宙の秩序を守る監視者で、オレがこの世界のルールを乱すかもしれない危険分子だから、チェックしに来たってことか?」
セツさんは、やっぱり平然と要約している。どうしてこの人は、こんな存在の言葉がわかるの……?
「……ソウトオリダ(ガガッ)……キデンノソンザイ……ハ……キケンナ……(ブツッ)……フカクテイヨウソ……」
ルミナスは肯定し、そして敵意を明確にした。
「ワレワレノ……カンリ(ザーッ)……カニ、クダレ……サモナクバ……ハイジョ……スル……」
「ふざけんな。悪いが、オレはこの静かな生活がすごく気に入ってるんだ。あんたたちの都合で、それを乱されるのはごめんだね」
セツさんは、きっぱりと拒絶。
「ナラバ……(ザザッ)……ザンネンダガ……(ジジジッ)……ハンダンヲ……ジッコウ、スル……」
ルミナスの光輪が高速回転し、翼の目が一斉に不気味な光を宿す。空気が重く、濃密な圧力となって肌を刺す。
セツさんは、ふぅ、とひとつ大きなため息をついた。まるで、厄介な虫でも見つけたかのように。
「……話しても無駄みたいだな。しょうがない、ちょっと本気をだすか」
その言葉が、世界の法則を書き換えるスイッチだった。
瞬間、世界が壊れた。
視界が、幾千幾万の光の破片となって砕け散る。存在しないはずの色が溢れ、目の前の路地裏が万華鏡のように回転し、歪み、溶けていく。セツさんとルミナスの姿は無数に分裂し、時間軸がズレたように残像を残しながら、ノイズの嵐の中へ明滅を繰り返す。
音は、脳に直接響く轟音の奔流だ。ガラスが無数に砕け散る音、空間が引き裂かれる悲鳴、逆再生されるような不快な音、意味不明な電子ノイズ、そして冒涜的な囁き声が混ざり合い、わたしの意識を掻き乱す。
ドカン! とかバキッ! とか、そんな分かりやすい破壊じゃない。
もっと根本的な、世界のルールそのものが書き換えられていくような、静かで、それでいて圧倒的な崩壊。
時間が巻き戻るような感覚に襲われたかと思えば、次の瞬間には未来の光景が一瞬だけフラッシュバックする。
物質が泡のように虚空から生まれ、瞬時に崩壊して消える。遠近感は狂い、すぐ隣に別の次元が覗く窓のようなものが開き、名状しがたい景色が垣間見える。
重力がおかしくなって、体がふわりと浮き上がるような感覚と、地面に叩きつけられるような感覚が交互に襲ってくる。
「セ、セツさんっ! これ、いったい……!?」
あまりの異常事態に、わたしは悲鳴のような声を上げた。
セツさんは、ちらりとこちらを見た。その横顔は、信じられないくらい落ち着いていて、まるで他人事のように飄々としていた。
「ん? ああ、世界が根源ごと壊れてしまっただけだ。まあ、安心してくれ。すぐ終わる」
世界が壊れた!? よくわからないけど、それが本当ならもっと焦らないといけないのでは! なんで、セツさんはそんな呑気な顔ができるの!
そう叫びたかったけど、言葉にならなかった。
セツさんはもうルミナスに向き直り、面倒くさそうに指先で何かを弾いている。そのたびに、光の奔流の中に、さらに複雑怪奇な幾何学模様や数式の奔流が走り、ルミナスの異形をさらに歪ませ、苦悶させているようにも見えた。ルミナスもまた、光輪から凄まじいエネルギーを放ち、翼の目から無数の光線を撃ち出すが、それらはセツさんの周りで奇妙な軌道を描いて霧散するか、セツさん自身に吸収されているように見えた。
理解不能な力の応酬。これが、セツさんの本当の……。
あまりの現実に、頭がくらくらする。吐き気が限界を超え、立っているのがやっとだった。
ふと、隣で震えていた女の子に目をやると、彼女は焦点の合わない目で虚空を見つめ、ガタガタと体を震わせていた。
「だ、だいじょうぶですか……?」
あまりにも不安そうにしているので、思わず声をかけた。
「はえ……、へは……」
彼女がそんなうなずきともとれる言葉を発した瞬間だった。
その時、ツンと鼻をつくアンモニア臭がした。
彼女の足元の床が、じわりと濡れていた。
……うそ。
この子、あまりの恐怖に、失禁しちゃったんだ……。
かわいそうに。
その事実に、わたし自身の恐怖も限界に達しそうになる。わかる。この状況は、人間の理解と精神の許容量を、遥かに超えている。
どれくらい時間が経ったのか。永遠にも、一瞬にも感じられた時間の後。
唐突に、悪夢が終わった。
視界を埋め尽くしていた光と色の洪水が、嘘のようにすぅっと引いていく。
目の前には、いつも通りのラグバルトの路地裏が広がっていた。壁の落書きも、地面のシミも、何も変わっていない。
そして、セツさんが、やれやれといった表情で、服についた見えない埃でも払うかのように、軽く手をパンパンと叩いていた。
「ふぅ、うるさいのがいなくなったな。さてと……」
さっきまでこの空間を歪め、宇宙の法則を語っていた異形の存在、ルミナスは……どこにもいない。
まるで、最初からそんなものは存在しなかったかのように、完全に消え去っていた。
ふと路地の向こうを見ると、通りを歩く人々の姿が見えた。楽しそうに話す親子、荷物を運ぶ商人、巡回中の衛兵……。みんな、普段通りだ。空には鳥がさえずり、平和な午後の空気が流れている。
さっきまでの、世界が壊れるような異常な現象は、まるで無かったことになっている。
気づいているのは、わたしと、隣で腰を抜かしてへたり込んでいる、見慣れない女の子だけ……?
「あの……セツさん……さっきの、アレは……?」
かろうじて、震える声で尋ねる。
セツさんは、わたしに向き直ると、にこりともせずに、まるでちょっとした隣人トラブルでも解決したかのように言った。
「ああ、あいつ? なんかオレのこと誤解してたみたいでさ。ちゃんと話し合ったら、わかってくれたよ。もう大丈夫だろ」
「え……? は、話し合いで……?」
信じられない。あの、宇宙がひっくり返るような現象が、話し合い……?
セツさんはそれ以上何も言わず、「さて、帰るか」とでも言いそうな雰囲気だ。
わたしは、セツさんの言葉の意味を全く理解できないまま、隣で失神しかけている少女を見下ろし、ただただ呆然とするしかなかった。
わかってはいたつもりだ。
セツさんが規格外な存在なことは。
それでも、言わずにはいられない。
セツさんって、やっぱり規格外すぎる……!
その底知れなさに、改めて、身の毛がよだつような感覚を覚えたのだった。




