―65― 桃兎
あたし、桃兎。
念の為に言っておくけど、もちろん桃兎というのは暗殺者としてのコードネーム。まあ、本当の名前はとっくの前に忘れちゃったけど。
こう見えて闇の世界じゃ、ちょっと名の知れた暗殺者だ。
物心ついた頃にはもう、人を殺めるための技術を叩き込まれてたっけ。なんでそんな境遇に生まれたのかは知らない。ただ、あたしには天性の才能があった。
人の感情の機微を読むのが、昔から得意だったんだ。相手が何を考えて、次にどう動こうとしているのか。それが手に取るようにわかる。嘘とか、隠し事とか、そういうのすぐ見抜いちゃう。
だから、暗殺も楽勝。
ターゲットが油断する瞬間、恐怖や焦りを見せる一瞬。そういう心の隙を突いて、音もなく忍び寄り、気づいた時にはもう手遅れ――ってのがあたしの十八番。静かに、確実に。それがプロの仕事ってもんでしょ?
魔術の系統は身体強化系。
近接戦闘タイプで、特にスピードには自信がある。まあ、身体能力の持続性もそこそこだけど、あたしの真骨頂は純粋な速さじゃない。
相手の動きを『読んで』、最小限の動きでかわし、カウンターで仕留める。予測と反応速度、そして気配遮断と静音性。
これが組み合わさってこその桃兎なんだ。
……そういえば、ターゲット――セツの隣にいる女の子。
今思い出したけど、名前はリリア=ヴェルトだっけ。資料にあったな。
名門貴族のお嬢様で、アストル学術院首席、騎襲闘技の学生リーグMVP……と、華々しい経歴。だけど、プロの世界じゃ壁にぶち当たって、挫折したって話。
ふーん。まあ、あたしにはわかるけどね。なんで彼女がプロで通用しなかったのか。
資料も見たけど、動きが大振りで単調。
ただ速いだけ。《疾風》しても、真っ直ぐ突っ込んでくるか、単純なフェイントくらい。
そりゃあ、学生レベルなら通用するかもしれないけど、プロは違う。早いだけで動きが読みやすい獲物なんて、むしろ格好の的だよ。シンプルすぎて、逆に狩りやすいんだから。
だから、リリアは『格下』。あたしの敵じゃない。
今回の計画も完璧。まずは油断してるセツの首を一瞬で掻き切る。こいつがなんで標的なのかとか知らないけど、不意打ちの初撃で殺せば関係ない。
その後、隣のリリアがパニックになって襲いかかってきても、問題なし。スピード自慢の彼女をちょっと翻弄してやれば、簡単に叩きのめせる。
うん、楽勝。
あたしは物陰に潜み、息を殺してその時を待つ。セツとリリアが角を曲がり、ちょうどいい路地に入った。周囲に人影はない。絶好のチャンス。短剣を握る手に力を込める。
今だ――! そう思って飛び出そうとした、その瞬間。
ピタリ、とセツとリリアが足を止めた。
「おい」
セツが、あたしが潜んでいる方向――いや、正確にはその少し横の空間に向かって、面倒くさそうに声をかけた。
「さっきからこそこそと隠れているのわかっているんだぞ」
「――!?」
絶句。
え……? うそ、バレた? なんで? 気配は完全に消してたはずなのに!
あの目……。カマをかけてるとか、当てずっぽうで言ってるんじゃない。確信してる目だ。あたしがいることを、正確に『視て』いる。
……ちっ、仕方ない!
ここまでバレたら、もう奇襲は無理だ。
こうなったら、堂々と姿を現してやる。別に、殺しさえすれば依頼は達成できるんだし、計画はなにも破綻してない!
あたしは音もなく物陰から姿を現し、わざとらしく肩をすくめてみせた。余裕綽々なフリ。堂々していれば、だいたい相手はビビってくれるからね。実際、余裕なわけだし。
「ふふ、よくあたしの気配に気づいたね。褒めてあげる」
さあ、第二ラウンドと行こうか。
そう思って、口角を釣り上げた、次の瞬間だった。
「――ヨク……(ザザッ)……ワレノ……ソンザイ(ジジジッ)……ニ……キガ……(ピ――)……ツ、ツイタナ……」
え――???
声は、あたしのすぐ隣から聞こえた。
さっきまで何もなかったはずの空間が、まるで壊れた万華鏡を覗き込んだかのように、現実の法則を無視して砕け散り、再構成されるとでもいうべきか視覚的なノイズを発した。そして、その歪みの中心から、ゆっくりと『それ』は姿を現した。
それは、人間とは似ても似つかない、畏怖すべき存在だった。
幾重にも重なる白金の翼は、羽ばたくことなく静止している。
その一枚一枚には、無数の『眼』のような模様が刻まれており、それらが一斉にこちらを、あるいはセツを、あるいは虚空を見つめていた。
顔はなく、代わりに幾何学的な光の輪がいくつも重なり合い、それぞれが異なる速度で回転している。輪の内側には、理解不能な文字か図形のようなものが絶えず明滅していた。
胴体は磨き上げられた黒曜石のようで、その表面には複雑な回路図のような光のラインが走り、時折、閃光を発する。手足と呼べる部位はなく、代わりに複数の光の帯が、優雅に、しかしどこか無機質に揺らめいていた。
あまりにも人間離れしたその構造は、強烈な『異物感』と『畏怖』を掻き立てる。
そして、その存在から発せられる『声』は、まるで壊れた魔導通信機から複数の音声が同時に流れ出し、激しいノイズと混ざり合っているかのようだった。
思わず息を呑む。
なんだ、アレ……?
魔物……? いや、違う。もっと、こう……根本的に異質な存在。
あまりの予想外の展開に、あたしの思考回路がショートする。
頭の中が、真っ白になった。
「ああ、ようやく姿を現したな」
セツは、あたしを一瞥もせず、その隣に出現した異形の存在に向かって、呆れたように言った。
「朝からオレのことをずっと見張ってただろ。正直、目障りなんだよ、チカチカと光りやがって」
「フム……サスガト……イウベキカ(ピ――――)……キデンホドノ……ソン、ザイ……(ジジジッ)……ニハ……ワレワレノ……コウ(ザーッ)……ジゲンチカクニヨル(ブツッ)……カンソクモ……ツツヌ……(ブォンッ)……ケデアッタカ……シツ……(ガガッ)……レイ……」
異形は、光輪を激しく明滅させ、翼の『眼』を忙しなく動かしながら、ノイズまみれの声で応えている。
セツは眉間に皺を寄せ、疑いの目を向ける。
「それで、何の用だ? 目的は何だよ、このうるさいピカピカオブジェ」
……え? ちょ、ちょっと待って。
状況が、まったく飲み込めない。
これってどうみてもあたしの存在ごと無視されているよね。
「ちょっと、無視しないでくれる! あたしはあなたを殺しにきた暗殺者なんだけど!」
思わず、声を荒らげてしまった。
だって、そうでしょう!? あたしはあんたを殺しに来た暗殺者だって言ってるの! てっきり、あたしのこと警戒して、それで気づいたんだとばっかり……!
しかし、セツは心底面倒くさそうにあたしを一瞥し、怪訝な顔で言った。
「……え? 誰? すまん、悪いが今忙しいから用事があるなら後にしてくれ」
「は……?」
本気で、あたしのことをどうでもいい、という顔だった。
そして、次の瞬間にはもう、あたしから興味を失ったように、再び異形の存在へと視線を戻している。
…………。
え?
じゃあ、さっきの「隠れてるのわかってるんだぞ」って、あたしに言ったんじゃなくて……この、隣にいる、ワケのわからない、異形の存在に……言ってた……ってこと……?
う、うそ……。
とんでもない勘違い。
全身の血が、顔に集まってくるのがわかる。
うわああああ! 何この状況!? めっちゃハズい!! 顔から火が出るって、こういうこと!?
あたしは羞恥と混乱で顔を真っ赤にしながら、ただその場で固まるしかなかった。
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