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排水溝につまったスライムを日々かたづけるだけの底辺職、なぜか実力者たちの熱い視線を集めてしまう  作者: 北川ニキタ


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―64― 急に……な、な、何を……!?

 わたし――リリア=ヴェルトは、セツさんの言葉が信じられず、ただ呆然と立ち尽くしていた。

 フィネアちゃんが強い? あの、わたしが守らなきゃって思った、おっとりした賢者様が?

 不安でたまらず、セツさんに詰め寄ろうとした、その時だった。


「それより、リリア。オレから離れるな」


「え……?」


 セツさんが突然、真剣な声でそう言った。

 え? 離れるなって……どういう意味?

 わたしの思考が追いつくよりも早く、セツさんの手が伸びてきて、わたしの肩をぐっと掴んだ。そのまま、ぐいっと力強く引き寄せられる。


「きゃっ!?」


 突然のことに、わたしはバランスを崩しそうになり、セツさんの胸元に軽くぶつかってしまった。とっさに支えてくれたセツさんの腕が、すぐそこに。


 ――近い。


 セツさんの顔が、すごく近いんですけど……!

 わたしの心臓が、ドクン! と大きく跳ね上がる。顔が一気にカァッと熱くなって、耳まで赤くなっているのが自分でもわかった。

 せ、セツさん、急に……な、な、何を……!?

 だって、こんな! まるで恋愛小説のワンシーンみたいに!


 頭の中が、乙女チックな妄想でぐるぐる回り始める。ドキドキが止まらない。セツさんの真剣な横顔を見上げながら、わたしは完全に思考停止状態だった。

 そんなわたしの乙女心をぶち壊すかのように、セツさんは警戒に満ちた表情で、低い声で囁いた。


「何者かがオレたちをさっきから観察している」


「へ……?」


 一瞬でロマンチックな雰囲気は消え去り、現実に引き戻される。


 観察……? 誰が?


 わたしはセツさんの視線を追うように、彼が見ているであろう方向へ目を向けた。通りの向かいにある建物の屋根の上や、路地の暗がり、窓という窓……。

 でも、わたしの目には、怪しい人影なんてまったく見当たらない。道行く人は普通に歩いているし、特に変わった様子はないように見える。

 セツさんは油断なく周囲を窺いながら、わたしの肩を掴む手に少し力を込める。その真剣な様子に、わたしの心臓はさっきとは違う意味でバクバクと鳴り始めた。



 首が、折れる。

 ギリギリ、と骨がきしむ音が聞こえるようだ。視界が明滅し、肺に空気が入ってこない。息が……できない。


「……ぐっ……かはっ……!」


 わたし――黒鴉の首を片手で軽々と締め上げているのは、絶界の魔女シーナ。森の木々を背景に、彼女の小さな姿が、死神のようにわたしを見下ろしている。

 その表情は、無邪気な子供が虫の足をむしる時のような、残酷な好奇心に満ちていた。


「ねぇ、さっきの一撃、なかなか威力あったじゃない。ちょっとは楽しめた。……でも、それだけ?」


 シーナの声は、まるで歌うように軽やかだ。だが、その声色とは裏腹に、わたしの首にかかる力は容赦なく増していく。

 くそっ……さすがに……魔女……規格外すぎる……!

 一瞬で距離を詰められ、反撃する間もなく捕らえられた。狙撃の一発を叩き落とされた時点で勝負は決していたのかもしれない。


 それでも――。

 ……時間は……稼いだ……!

 苦痛の中でも、その確信だけがわたしの意識を支えていた。


 森へシーナをおびき出し、こうして足止めする。それが、わたしに与えられた最後の任務。桃兎が、あの小生意気な後輩が、今頃セツの元へ向かっているはずだ。

 セツ……あの男さえ始末できれば、ボスもわたしを少しは見直してくれるかもしれない。いや、それよりも、あの男に三度も煮え湯を飲まされた屈辱を、これでようやく晴らせるのだ。


「……ふ、ふふ……」


 朦朧とする意識の中で、わたしは思わず口元に歪んだ笑みを浮かべてしまった。

 苦しい。死ぬかもしれない。だが、作戦は成功する。わたしの役目は終わった。


「……あら? 何がおかしいの?」


 シーナが怪訝そうに眉をひそめ、わたしの顔を覗き込む。首を絞める力が、ほんの少しだけ緩んだ気がした。かろうじて、わたしはかすれた声を絞り出す。


「……くく……わたしは……ただの囮だ……」


「おとり?」


「今頃……わたしの仲間が……お前の……仲間のセツとやらを……殺しているはずだ……!」


 言ってやった。勝利宣言だ。

 どうだ、魔女。お前がわたしのような雑魚にかまけている間に、お前の大切な男はもう……。


「…………ふっ、ふはっ」


 魔女シーナは吹きだすように笑った。

 その笑い方にわたしは違和感を覚えた。心底かわいそうな人を見るというか哀れみをこめた笑い方だった。


「な、なぜ笑った!」


 理解できない。なぜ、そんなふうに笑うのか?

 対して、シーナは笑いたいのを必死にこらえるように口の筋肉をムズムズさせながら答えた。


「だ、だって……、勝ち誇った顔をしているあなたがこれから絶望すると思うと……あははっ、もうおもしろすぎ……っ、あはっ、あはははははははははっ、もう傑作っ!」


 いつの間にシーナはわたしの首から両手をはなし、お腹を抑えるように笑いこけていた。

 わたしのことを見向きもしないで、ひたすら笑い続けるシーナをわたしはただ恐怖を覚えながら眺めているしかなかった。



 暗殺者――桃兎は物陰に身を潜めながら、前方から歩いてくる男女を見ていた。

 一人は標的のセツ。

 もう一人はセツと仲がいいらしい少女。警戒すべき魔女でも賢者でもないので調べたはずだけど名前をすぐ思い出せない。


 彼らは特になにかに警戒することもなく呑気な様子でこっちに歩いてくる。

 あと数歩。

 こっちに近づいたそのときが彼の最期。

 隠し持っている短剣を握りしめながら、桃兎はただひたすらじっと息を潜めている――。

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