―59― うんうん、面白くなってきた
暗殺者――桃兎は、宿屋の三階に取った一室の窓辺にじっと腰かけていた。窓ガラスを少し開き、風の入り口を確保しながら、通りの向こうを注意深く見つめている。
「んー……退屈だなぁ」
つい先ほどから、桃兎はセツの家を監視していた。
長い時間ぼーっとしているのは性分じゃないけれど、こうやって仕事の前に下調べするのは大事なことだ。
そろそろおねえちゃん……いえ、黒鴉が魔女シーナを足止めし始める頃。そう考えると、桃兎の唇がにやりと歪む。
この数日、徹底的にシーナという魔女について調べ上げた結果、彼女は相当な戦闘狂だとわかった。
だったら、策略や奇襲を練るより、「正々堂々と手合わせしてあげる」と挑発するのが一番確実だろうと結論付けたのだ。
黒鴉がシーナを足止めしているあいだに、自分はセツを仕留めればいい。それが今回の計画だ。
……もっとも、いまだにセツの周囲は謎が多い。すでに「魔女の庇護が原因で狙撃が暴発する」説はほぼ固まっているが、他にも引っかかる情報があった。
(さっき仕入れた噂じゃ、セツの周りに賢者フィネアっていう有名人が出入りしてるらしいじゃん? こいつも厄介そう……。まさか、魔女以外に賢者まで味方してたら、一筋縄じゃいかないよね)
桃兎は胸を反らし、クスクスと笑う。
魔女、賢者――どちらも魔術界において、もっとも権威のある称号だ。
魔女もそうだが、賢者もおなじぐらい厄介な存在。もしかすると、賢者までがセツを守っているなんて可能性も十分ありうる。
「まぁいいや。とにかく全部排除しちゃえば、いいだけの話だしね」
そうひとりごちながら、窓辺に頬杖をついたその時、部屋の隅で小さな羽ばたきの音がした。
そこにいたのは、なんてことはない普通の鳩。
鳩はわりと一般的な伝令手段だ。ある程度訓練させれば、目的地に素早く向かってくれる。
「おや。もう連絡がきたの? ずいぶん手際がいいじゃない、おねえちゃん」
桃兎は愉快そうに立ち上がると、窓枠へ止まっている鳩をそっと手のひらに載せる。
鳩の足元には赤いリボンがきつく結ばれている。
本来は書簡を持たせてやりとりするのが一般的だが、より簡略化させて「赤は計画どおり進行」を意味する合図にしていたのだ。
「ふふ……やっぱり順調みたい」
鳩が戻ってきたということは、黒鴉が予定どおり行動を始めた証拠。つまり、果し状を受けたシーナがすでに森へ向かい、黒鴉が足止めを開始したのだろう。
桃兎は鳩の頭をひとなですると、「ありがとね」とささやく。鳩はひと声も鳴かず、するりと桃兎の腕から離れて飛び立っていった。
鳩が小さく羽ばたきながら狭い窓を抜け、空へ溶けていくのを見届けてから、桃兎は再び通りに視線を戻す。彼女の口元には、より深い笑みが刻まれていた。
「さーて、魔女は解決。賢者フィネアは――これから。うんうん、面白くなってきたじゃない」
ゆるりと立ち上がり、宿の窓から通りをうかがう。ちょうどセツの家の扉が開き、二人の女性が出てきたのが目に入った。
「おやおや……あれが賢者フィネアと、もうひとりは……えーと、誰だっけ?」
桃兎は覗き込むようにしながら確かめる。
噂に聞いたとおり、フィネアは例の奇妙な鳥くちばしマスク姿だが、目線や体格を照らし合わせれば本人で間違いないだろう。隣の少女も一応調べた覚えはあるけど、忘れてしまった。ということはあまり気にする必要はないってことだ。
(二人だけでお買い物にでも行くのかな? ラッキー。二人がいなくなるってことは、セツは単独行動中ってことよね。いいね、好都合)
ゆらりと踵を返し、桃兎は宿の部屋を出る。廊下を軽快にステップしながら、一階のフロントへ向かっていく。フロントには宿の主人が立っていたが、桃兎は彼に特に声をかけることもなく、さっと扉を抜けて表通りへ出た。
――本当なら、別のプランも用意していた。だが、たまたま賢者フィネアとその連れが買い物に出たのなら、それを利用しない手はない。
(あの二人が外をウロウロしてるなら、セツへの合流を阻むのは簡単。そのための準備は終わってるってわけ)
桃兎は通りを横切って細い裏路地へ入り込む。足音を消すように軽やかに進むと、煤けた石壁に背を預けて待機している男が一人いた。
小柄で猫背、しかし妙にぎょろりとした目が鋭い。今回の依頼のために雇ったギャングの下っ端だ。
「何か動きがあったんすか?」
「うん、そうだよ。フィネアともう一人の娘が買い物に出かけた。場所はまだ不明だけど、すぐに追跡してよね。あんたたちは賢者を足止めすればいいだけ。わかった?」
男はこくこくと大きくうなずいた。彼らにはすでに前金を渡しており、賢者フィネアを中心とした妨害の依頼を完了済みだった。
「了解っす。まさか賢者を相手にするなんて思いもしませんでしたが……まあ、余裕でしよう。こっちにはたくさんの仲間が待機してますから」
「そう。だったら、失敗しないでよね。そっちが上手く引き留めてくれているあいだ、あたしはターゲットを狙う」
「へへっ、任せてください!」
男は深くうなずいたのち、すばやく裏路地を走り去っていった。既に仲間が町のあちこちで待機しているのだろう。彼らはフィネアとリリアを見つけ次第、巧妙に包囲して襲う手はずだ。
そうなれば、いくら賢者といえども振り払うのは難しいはず。
「さて……あたしも行こっかな。邪魔な連中が分散してるうちがチャンスだしね」
桃兎は笑みを浮かべながら路地を抜け、再び日の当たる通りへ戻った。表情には一切の迷いがない。
魔女シーナは森で黒鴉が押さえ込んでいる――はず。
フィネアともうひとりはギャング連中が襲う。その間は、セツを守る者はいない。
「流石、わたし。完璧な作戦。あとはどんな手段をつかってもいいから、セツを殺せばいいだけ」
桃兎はそう口にしながら、軽い足取りで大通りを抜けていく。血と混乱の幕開けが今にも始まろうとしていた――。




