―56― 最後の最後のチャンスってわけ
わたし――黒鴉は、シャワーの吐水音を耳にしながら、壁にもたれて虚空を見つめていた。
目の前には曇った鏡。そこに映るのは、自分のやせ細った身体――そしてどこか陰鬱な目。
――空腹のあまり倒れかけていたわたしに、桃兎は、まるでからかうようにパンを差し出したのだ。
「おねえちゃん、食べる? ホントはあたしが食べるつもりだったけど、ま、いいよ。ちょっとくらい分けてあげても」
そのときのわたしに、そのパンを拒むなんて選択肢は頭に浮かびもしなかった。
気づいたときには口いっぱいにパンのかけらを頬張り、我に返ったころには空腹が幾分まぎれていた。
そして、半ば強引に「ついてきて」と言われ、なぜかこんなホテルの一室でシャワーを浴びている。
シャワーの湯がわたしの頭からざあっと流れ落ちていく。
ホテルの浴室はそこまで広くはないが、石鹸の匂いと生ぬるい湯が染みわたるだけで、まるで生き返ったかのように身体が軽くなる。それだけ、わたしは汚れきっていたのだと痛感させられた。
……それにしても、桃兎か。
あいつは昔から苦手だ。
暗殺者たちが集まる闇の組織において、常に冗談半分で人を小馬鹿にするような態度をとっているからだ。
わたしより年下だからか「おねえちゃん」なんて呼び方をして、へらへら笑いながら仕事をこなす桃兎。
彼女の不真面目そうな態度にはいつも苛立ちを覚えるが、組織内ではそこそこ重宝されているのもまた事実だった。
なにより、ボスの命令をきっちり遂行しつつ、あっさり成果を挙げてくる。――そういう意味では、わたしなどよりよほど優秀なのかもしれない。
「……ふん」
わたしは、鼻先をすすりながら、シャワーを止める。全身から滴る水滴を払い落とし、石鹸の香りが残る身体をホテルに備え付けのタオルで拭いていく。
それだけで、さっきまで漂っていた浮浪者さながらの泥臭さが一掃された。
鏡を覗けば、髪は相変わらずバラバラな長さでナイフで切った痕がひどいけれど、それでも前よりはましに見える。
浴室を出ると、狭めのベッドが一つ置かれた部屋に、桃兎が足を組んで腰かけていた。
片肘をテーブルにつきながら、こちらを見上げて、にやりと笑っている。彼女の薄紅の髪は胸元まで流れ、派手な飾りをぶら下げた上着がいつものようにカラフルに揺れていた。
「さっぱりしたみたいで何より。ふふ、それだけで少しはマシに見えるよー」
相変わらず軽い調子だ。どこか人を馬鹿にしたような声音が耳障りで、イラつきが湧いてくる。だが、助けてもらった手前、何も言えない。
「……ああ。シャワー、ありがとう。おかげですっきりした」
わたしがタオルで首筋を拭きながら答えると、桃兎はさらに目を細めて笑う。
「お礼なんていいんだよ。だって、あたしはおねえちゃんに仕事をしてほしいだけなんだからさ」
そう言って、テーブルに置いた白磁のカップをコトンと指先ではじく。
そこには残り半分ほどのハーブティーのような液体が入っていた。香りはどこか甘い……砂糖でも混ぜているのだろうか。
「仕事だと? わたしはボスから見放されたはずだが」
わたしは唇を噛むようにして返した。自分で言っていて情けなくなる。
桃兎はこんなわたしをどう扱うつもりなのか。まさか、再度ボスのもとへわたしを連行し、痛めつけたりするのか……いや、わざわざシャワーまで用意してくれたんだ。きっと別の目的があるのだろう。
「もちろん知ってるよー。あははっ、おねえちゃん、ほんとドジだよねー。暴発って……ははっ、ださいよ。魔術を覚えたてのガキかよって感じ」
桃兎がひとしきり笑うと、わたしの胸にむかむかした怒りが芽生えた。頭に血が上って、「黙れ」と叫びたくなるが、あの惨状を考えれば反論の余地もない。暗殺者が狙撃銃の暴発で失敗なんて、笑いものだろう。
そんなわたしが怒りを噛み殺しているのを見透かしたように、桃兎はわざとらしく咳払いをした。
「ま、そんなドジなおねえちゃんに『最後のチャンス』を与えようってわけ。もちろん、あたしの独断じゃないよ。ボスも知っている」
わたしは目を見開く。
ボスがわたしに最後のチャンスだと? 通話にてわたしを突き放したというのに。
「……本当か? ボスがわたしにチャンスを……?」
「本当だよーん。でなきゃ、わざわざこんなホテルまで連れ込んで、おねえちゃんをシャワーに入れると思う? まさかあたしが、好き好んで浮浪者を介抱する善人に見えるとでも?」
軽い調子でそう言いつつも、桃兎の瞳には確かな光が宿っている。
彼女が嘘をついているようには見えない。だったら、本当に最後のチャンスがわたしに巡ってきたのか……?
「……まあ、要するにさ、次こそ、本当に最後の最後のチャンスってわけ。これでまた失敗すれば、わかるよね……?」
その言葉に脅し文句が含まれているのは明白だ。
とはいえ、わたしに逆らうだけの選択肢はない。ここで逆らえば、この場で桃兎に殺されても文句は言えない。
「ああ、わかった」
短く返事をすると、桃兎は満足そうに口角を上げる。まるで猫がネズミを追い詰めるような笑みだ。
「それで、仕事の内容も聞かせてもらってもいいか?」
わたしがそう尋ねると、桃兎は「あれ? まだ言ってなかったっけ?」と首を傾げつつ、再度口を開いた。
「そんなのひとつに決まっているじゃん。F級冒険者セツの暗殺だよ」
わたしはそれを聞いて、目を大きく見開くのだった。
◆
(おねえちゃんって相変わらずバカだよねー)
一方、黒鴉の対面に座っている桃兎は内心笑いそうになっていた。
(最後の最後のチャンスなんて、あるわけがないのに。セツとやらの暗殺が終わったら、その次はおねえちゃんの番だからね)
桃兎が語ったボスが黒鴉に最後のチャンスを与えたというのは全部ウソだ。実際には、ボスから黒鴉の始末を命じられている。
ウソだといっさい疑わずに耳を傾ける黒鴉の姿がどうしても滑稽にしか思えない。そんな感情をひた隠しにしながら、彼女は黒鴉にどんな仕事をさせようかと企んでいた。




