―37― す、すっごい……美味しい……
目が覚めたとき、まず襲ってきたのは、狭い天井とごちゃっとした部屋の圧迫感だった。
「……そういえば、窮屈な部屋に引っ越したんだった」
わたし――リリア=ヴェルトはそう呟いてみるものの、実際に住んでみると悪くないのだから不思議だ。
つい先日まで豪華なホテルで暮らしていた頃は、「安い部屋なんてあり得ない」「もっと広々とした部屋こそわたしに相応しい」と思っていたのに。
実際、家賃を抑えたことでお金にも少し余裕ができたし、もともと大した荷物も持っていなかったから、狭い空間でも不便はなんらなかった。
「朝イチでギルドに行く用事もないし……まあ、誰かと会う予定なんてないし……」
ぼんやりした頭を振り払うように、わたしはベッドから抜け出し、簡単に着替えを済ませる。鏡の前に立つと、乱れた髪が目に入った。
手ぐしでざっくり整えてから小さな櫛でとかし直す。
以前ならこんなことに時間を使う余裕もなかったというか、そもそも興味が薄かったのに。今はなぜか、髪がバサバサしていると落ち着かなくなっているような。
「……別に、気にしてくれる人がいるわけでもないのに」
わたしはそんな自問を心の中で打ち消し、意を決して部屋を出た。今日は特に目的もないし、なんとなく街をぶらぶらするつもりだ。
◆
「へぇ……意外と賑やかじゃない」
宿を出てしばらく歩くと、冒険者ギルドがある地区が見えてきた。
通りには出入りする冒険者が多く、露店や酒場が軒を連ねている。どこからともなく鋼を打つ音が聞こえたり、荷車を運ぶ商人が声を張り上げていたり。様々な人の姿が目に飛び込んでくる。
「見ているだけでも案外おもしろいのね」
今まではお金を稼ぐために必死で、場所を移動する手段としか思っていなかった街の通り。でも落ち着いてみると、そこにはたくさんの店が並んでいて、それぞれに人の活気があったり工夫があったりと、新しい発見がある。今までは余裕がなかったから、どれも気が付かなかった。
そんなふうに街を見回していると、いつの間にか「セツさん、いないかな……」なんて考えてしまっている自分を発見して、あわてて首を横に振った。
「……別に探してないし、会いたいとか、そういうのは……ないんだから。うん」
自分自身に言い聞かせるようにそう呟いてはみるものの、胸の奥がむずがゆい感覚になっているのは否定できない。でも、今さら仕方がない。気を取り直してさらに通りを進む。
「あ、ここ……」
目に入ったのは、以前セツさんと訪れたスイーツ店。可愛らしい木の看板が揺れており、おしゃれな店舗だ。
前に来たときは、お金が足りなくて食べられなかった苦い思い出が蘇る。でも、今のわたしは多少なりとも経済的に余裕ができた。ここで甘いものを食べたところで、宿代を危惧する日々とは無縁だ。
「……いいわよね、甘いもの。たまには食べても」
扉を押し開けると、甘くてふわっとした香りが鼻をくすぐる。店内は温かい色合いの内装で、ガラスケースの中には宝石みたいに綺麗なケーキが並んでいた。
「いらっしゃいませ。……あら、あなたってこの前、セツさんと来てた子よね?」
奥からにこやかに現れたのは、この店の店主――シルフィさん。柔らかな笑顔が印象的で、わたしなんかよりずっと年上だ。前に会ったときも感じたけれど、人を安心させる雰囲気を纏っている女性だ。
「あ、はい……リリアといいます。少し前に……うん、セツさんに連れて来てもらって。その節はどうも」
すると彼女はぱっと微笑んで、「覚えてるわよ。あのとき食べなくて残念がってたでしょう?」と軽い調子で言ってくる。
気まずさもあるけれど、それより安心が勝った。この前、店にきて食べなかったから、迷惑がられるかもと不安だったけど、そんなことはなさそうだ。
「今日は、もちろん食べに来たのよね?」
「はい、ぜひ……!」
返事すると、シルフィさんは「じゃあ、ゆっくり楽しんでいってね」と手招きする。ショーケースに目を移すと、そこには『新作登場!』と書かれたポップと共に目をひくケーキが並んでいた。
「新作……ですか? おいしそう」
薄いチョコレートのコーティングと、ベリーが乗ったケーキ。その断面図が描かれたイラストもあって、チョコムースとベリーソースとサクサククランブルが層になっているようだ。見ただけでよだれが出そうなくらいそそる。
「これ、実はセツさんのアドバイスで改良したのよ。おかげですっごく美味しくなったわ!」
「せ、セツさんの……アドバイス、で……?」
その言葉を聞いた瞬間、思わず驚いてしまう。魔術だけではなく、ケーキのアドバイスもできるなんて、素直にすごい。
「……そ、そうなんですか……。じゃ、じゃあ、それをいただこうかな……」
「もちろん! 合わせるハーブティーはどうする? すっきり系とまろやか系があるけど?」
わたしは少し考えて、「じゃあすっきり系でお願いします」と答えた。
セツさんもケーキと一緒にハーブティーを楽しんでいたな……なんてことを思わず思い出してしまった。
シルフィさんがカウンターの奥に消え、しばらくして運ばれてきたケーキは、思わず息をのむほど美しかった。チョコのコーティングの上には、宝石みたいなベリーが乗り、ほんの少しキャラメルの色合いが見える。
「それじゃ、いただきます」
フォークを入れると、チョコの中からすっと柔らかいムースが現れ、さらにザクザクのクランブルが小気味よい音を立てた。一口食べると、チョコのまろやかな甘みと、ベリーの酸味が絡み合い、最後に塩キャラメルがほんのり苦みをもたらす。舌の上で複雑な味が踊るようで、一瞬で幸せな気分になる。
「す、すっごい……美味しい……」
あまりに感動して思わず呟くと、シルフィさんはにこにこしながら「でしょ?」と胸を張る。
「チョコとベリーだけだと飽きちゃうかもって懸念していたけど、セツさんのアドバイスのおかげで塩キャラメルとクランブルの組み合わせを試してみたの。ほら、最後まで飽きずに食べられるでしょ?」
「はい、本当に……不思議なくらい『次のひとくち!』ってなっちゃいます。こんなの、どうやって思いついたんだろう……」
口の中でまたふわりと広がる風味に陶酔しそうだ。ああ、こんな小さなケーキひとつで幸せになれるなんて、少し前のわたしじゃ信じられなかった。
お金に必死だった頃、食事なんて生きるためだけの行為だったのに、今はこんなふうに味わう余裕がある。
そして思い浮かぶのは――セツさんの姿。ドブさらい専門の地味な冒険者のはずなのに、どうしてこんな素敵なアドバイスができるんだろう。いろんな意味で、底知れない人だと改めて感じる。
幸せな甘さと、キリッとしたハーブティーの爽やかさ。まさに至福の時間。わたしはフォークをひとくち、またひとくちと運びながら、胸いっぱいに温かな気持ちを噛みしめていた。
「あれ? リリアさんじゃない」
振り返ると、そこにはわたしよりも年上と思しき女性が立っていた。
ギルドの受付嬢の制服を身にまとっているから、すぐわかった。セレナさんの先輩――ミレイさんだった。




