―35― 慣れてるだけですよ
朝起きると、部屋からじゅるじゅると奇妙な水音が聞こえる。いつものように「シーナのやつ、また家に忍び込んでるのか……」とため息をつきながらベッドを出たが、どうやら今回はいつにも増して変なことになっていた。
「……ん? なんだこれ」
リビングへ向かう廊下の手前。そこには、うっすらと水色の半透明な粘膜らしき塊に飲み込まれたシーナが、床から天井まで逆さまにぴたっとくっついていた。
オレの仕掛けておいたトラップが、作動したらしい。いわゆる捕縛トラップの進化版……粘液で確実に動けなくするトラップだ。
「くぅ……うへへ……」
当のシーナは口元に薄くよだれを垂らしながら、粘膜にぐるぐる絡まれたまま器用に眠っている。背中も逆さま、頭も粘液の中に包まれているという奇妙な格好だ。それなのに息苦しさすら感じさせず、むしろとろけるような夢見顔で「ダーリン……ぐふふ……」と寝言をもらしているから驚きだ。
どうして起きないんだ……と、少しだけ同情の念が芽生えるものの、「そもそも勝手に入ってくるこいつが悪い」と思い直し、粘液トラップを解除する。パチン、と指を鳴らすとスライム状の魔力がしゅるしゅると縮んでいき、やがてべたべたに光る粘液だけが残って床に滴り落ちる。
「へぶっ!?」
と同時に重力に従ってドサリとシーナが落ち、床で仰向けのまままだ寝ぼけた声をあげた。
「おいおい、毎回思うけど、なんでそんな堂々と侵入してくるんだよ」
「だってダーリンに会いたいんだもん……。はぁ、おはよ~……」
シーナは眠そうに背中を伸ばしつつ、体についたべとべとの粘液をぺたりと拭い取る。ちょっと引くほど色っぽいしぐさだが、オレは慣れたもんだ。あまり気にせずさっさと立ち去ろうとする。
「今日はドブさらいに行くから、家で大人しくしててくれ。下手に街を荒らすなよ」
「ええ~、せっかく来たのに~? ま、いいや、ダーリンが帰るまで待っていてあげる!」
シーナはくるんと床で回転して立ち上がったかと思うと、「今度こそダーリンのベッドに忍び込んで、どへへー」なんてよからぬことを口走ってる。ふざけんな、と返しつつ、オレは玄関から出ていく。
次も絶対にトラップを張り巡らせておかないとな。
「はぁ……朝からこれだよ。さて、仕事行くか」
とりあえず伸びをしてから家を出る。青空が広がる気持ちいい朝だ。こういう朝こそ、面倒な依頼をパパッと片付けて、明日はサボるのに限るってものだ。
ギルドに着くと、いつも通りひっそりとしていた。
前回は巨大モンスターがどうとかで大騒ぎだったが、今日はいつもの日常のようだ。冒険者の姿も少なく、受付カウンターに向かう道は閑散としている。
「セツさん、お疲れ様です!」
声をかけてきたのは、いつも対応してくれる受付嬢のセレナさん。今日は落ち着いた空気が漂っているようで、彼女の表情にも余裕が見てとれる。
「おはようございます。いや、もう昼近いか。まあ来ましたよ、ドブさらいしに」
「ふふっ、前回はシーナさんのこと、探してくださったじゃないですか。おかげですごい助かりました。あんなふうにSS級モンスターを倒せるなんてさすが……魔女、ですね。セツさんが彼女を見つけてくれなかったら、どれだけ大変なことになっていたか……」
「たいしたことはしてないですよ。自分は彼女を呼んだだけなんで……」
それでもセレナさんは感謝の笑みを浮かべて「本当にありがとうございます」と頭を下げるものだから、ちょっとこそばゆい。オレは軽く手をひらひらして受け流す。
「それにしても、シーナさんとセツさんって、どういうご関係なんですか?」
唐突に首を傾げるセレナさん。そりゃ気になるだろうな。あのS級冒険者がどうしてどぶさらい専門のオレといつもつるんでいるのか、周囲から見ても謎の光景のはずだ。
シーナとの関係か……。
真っ先に思いついたのはストーカーだが、それを伝えたら無用な心配をされそうだしな。
「縁があって、そこそこ仲がいいんですよ。まああっちはS級、こっちは底辺冒険者なんで、オレも正直何を気に入られてるのかわかんないですけどね」
「いえいえ、セツさんのおかげで、いつもギルドは大助かりなんですよ? セツさんがどぶさらいの依頼をあっという間に片付けてくださるでしょう? 本当に助かってます!」
そこまで褒められると、なんだかむず痒い。確かにオレにとっては「目立たず効率よく稼ぐための手段」だけど、こうやって感謝されると悪い気はしないものだ。
「そういえば、今度のドブさらいですが、実はちょっと多めなんです。最近、雨が続いたので大量に依頼が溜まってしまって……ほら、こんなに!」
セレナさんが差し出したのは……ざっと数えて五十件。大量の依頼書が束になっているのを見て、オレは思わず苦笑した。こないだ依頼を受けられなかった反動がこれか。
「なるほど。まあ仕方ないですね。じゃあ、全部もらいます」
明日は休みたいので、今日中に全部片付けてしまおう。
「はい、わかりました。今日中に全部終わらせるなんて、セツさんはホント手際がいいですよね」
慣れてるだけですよ、と頷いておく。
一日50件なんて、リリアにはおかしいとか言われてしまいそうだが、セレナさんには手際が良いと言われるだけで、特に驚かれることはない。うん、この反応が普通だよな……多分。
「じゃあ、これ、受け取っていきますよ。あとで報酬の件だけまとめてお願いします」
「もちろんです。無理しないでくださいね。……あ、それと、リリアさんのことはもう平気ですか? 以前、セツさんに粘着してましたけど……」
リリアのことを頭に浮かべていたら、まさか彼女の名前が出るとは思わず、「ああ、リリアか」と小さく唸る。あの子もいろいろ面倒な動きをしていたけど、最近はほとんど付きまとってこない。
「リリアさんなら最近大人しくなりました。もう特に困ってませんよ。問題ないです」
「それならよかったです。原因の一端はわたしにもありましたので……。あのときは迷惑かけて申し訳ございません」
ペコリ、と律儀に謝られる。
迷惑というのは、リリアにオレのことを教えてしまったことだろう。確かに、これさえなければ付きまとわれることはなかった。
とはいえ、こんなふうに謝られると、こっちも落ち着かない。
「もう終わったことですし、これ以上は謝らないでくださいよ。本当に気にしてませんから」
そう答えると、セレナさんは「よかったです」と安堵の顔を浮かべる。
「よし、それじゃあ行ってきます。今日中にまとめて終わらせて、明日はぐっすり寝たいんで」
「はい、がんばってください、セツさん。報告をお待ちしてますね!」
セレナさんに見送られ、のんびりした空気の漂うギルドを後にする。五十件分のドブさらいが詰まった依頼書をぱらぱらとめくりながら、オレは考える。
「サボりまくったツケが回ってきたけど……まあ今日中に終わらせれば明日は完全オフか。うん、がんばるか」
深呼吸をして気合を入れる。
かくして、依頼書の山を抱えながら、オレは最初の現場へ向かう。今日は五十軒、汚水とスライムとの闘いだ。ひそかにタイムアタックするのも悪くないな。




