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排水溝につまったスライムを日々かたづけるだけの底辺職、なぜか実力者たちの熱い視線を集めてしまう  作者: 北川ニキタ


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―29― 絶界の魔女

「まったく、いい天気だなあ」


 オレはのんびりと空を見上げた。カーテンをサーッと開き、ベランダに出てゆっくり伸びをすると、陽光とほのかな風がオレを包む。背筋がぽきぽきと鳴る。


「こんないい日にモンスター退治かよ……みんなも大変だなあ」


 口の端が自然と緩む。今頃みんな、巨大なモンスターとやらと戦っているはずだ。それなのにオレは平和に一日を過ごす。

 まあ、シーナがいるなら大丈夫だろう。あいつが強いのはあの講習会でさんざん見せつけられたからな。冒険者たち一撃で吹っ飛ばす化け物なんだから、まぁどうにかなるだろう。


「さてと……じゃあ、ガーデニングでも始めるかな」


 そう決めて家の裏庭へと回る。ここにはオレがこつこつと整備してきた小さな畑とプランターがある。派手な花壇じゃないけれど、オレにとっては大切な趣味だ。

 一番のお気に入りは、プランターに並んだハーブたち。バジル、ローズマリー、オレガノ……風に揺れる葉っぱの香りをかぐだけで、なんだか心が安らぐんだよな。それぞれ葉の形や色も違うし、触れたときの手ざわりも一つひとつ個性がある。


「ちょっと茂りすぎたな」


 バジルの葉っぱの一部が大きく成長してボサボサになっている。

剪定バサミを手に取り、丁寧に先端を摘んでいく。葉の数や長さを調整することで、茎が細く弱々しくなるのを防ぎ、より健康的に成長してくれる。

 特にハーブ類は適度に間引かないと、全体的に弱くなってしまうからな。


「あ、虫がついてる……」


 パセリの葉の裏に、小さな虫が張り付いている。

 オレは穏やかに一つ一つ手で取り除く。農薬なんて使ってないからな。一匹、また一匹と丁寧に虫を取り除き、最後には小さな水を振りかけて洗い流す。


「今日はローズマリーも収穫しようかな」


 オリーブオイルに漬けたローズマリーを使って、明日は肉料理でも作ろうか。前世では、こんな風に自分で育てた食材を使った料理なんて、想像もできなかった。忙しすぎて、コンビニ食や外食で胃をダメにしていたあの日々……。


 次はミニトマトの畝へ。枝がびっしり茂りすぎないよう、先日余分な葉を間引いたおかげか、小さな赤い実が鈴なりになっている。

 風通しを考えて、支柱にしっかり誘引してあげないと、重さで枝が折れたり、蒸れたりしちゃうんだよな。適度にハサミを入れて、真っ赤に色づいた実を見つけては軽くひねって収穫する。ぷちん、という手応えが心地いい。


「こいつも今日の昼飯にでもしてやるか……」


 そっと舌の上に転がすと、柔らかい皮を噛んだ瞬間に甘酸っぱい汁が弾ける。取れたてのミニトマトは、味も香りもまるで違う。自分で育てた野菜は、どうしてこんなにおいしいんだろうな。

 さらに奥には、昨年試しに植えてみたナスとピーマンの畝がある。まだ花が咲いている段階だが、小ぶりの実がちらほら顔を出している。あとはうまく日光と水を管理すれば、きっと立派に育つだろう。


「さて、この調子なら午後ものんびり過ごせそうだな」


 気楽な気分でそう思いつつ、俺は庭の小さなベンチに座って一息つく。やけに爽やかな空気が、美味しく感じられた。



 ひときわ眩しい太陽を背に、絶界の魔女シーナはひとり、未開拓の荒野に立っていた。すぐ先には、まるで山のように巨大な怪物――怪食竜グランドイーターがのしのしと迫りくる。だが、シーナはその巨体を前に、まるで散歩でもするように伸びをするだけだ。


 そもそも、『魔女』とはなんなのか?

 国際魔術協会では、一個人が「国家のバランスを崩壊させかねないほどの戦闘能力」を持つと判断したとき、性別を問わず『魔女』という称号を与えることが通例となっている。


 なぜ『魔女』なのか。

 その由来は大昔まで遡る。

 当時、魔術というのは今よりずっと神秘的でよくわからない存在だった。

 しかしおよそ七十年前、賢者エベラスという大天才により魔術理論が体系化された。

 こんにちでは『汎用魔術理論(コモンアーケンズ)』と呼ばれる近代的な魔術理論を樹立したことで、多くの人々にとって魔術を扱いやすくなった。


 だが、ある一定を超えた化け物たちは、この理論から脱却してしまう。

 あまりにも強大な魔力や得体の知れない魔導刻印で己独自の魔術を使いこなし、『汎用魔術理論(コモンアーケンズ)』では説明がつかない現象を起こすのだ。

 国際魔術協会は、その異常なまでの力を指して「呪術時代に逆行した存在」つまり『魔女』と再定義した……というわけである。


 現在、その『魔女』の称号を持つ者は世界に五人しかいない。その中で、もっとも厄介と称されるのが絶界の魔女シーナである。

 彼女は数々の国に損害をもたらし、その被害規模は国家予算レベル――具体的にはあらゆる家屋を軽々砕き、兵団を一夜で壊滅させるなどの豪快な逸話が絶えない。

 そんな蛮行ゆえに、一部の国では正式に指名手配犯とされているが、そんな国でさえ堂々と入国しては帰っていく。なんせ「仮に捕らえたところで牢獄ごと破壊されるだけ」であり、実際、彼女を止める手段が誰にもないからだ。



「シーナさん! お気をつけください!」


 ギルドの支部長アルフォンスが声を張り上げるが、シーナはどこ吹く風。

 シーナはぐるりと腕を回しながら、怪食竜グランドイーターを見上げた。サイズがまるで山のようだというのに、彼女の表情からはまったく緊張が感じられない。

 むしろ「ずいぶん大きいおもちゃが出てきたわね」と言わんばかりに、唇を釣り上げて楽しそうに笑う。


「ふふっ、こっちに尻尾を振り回してくるなんて、随分と元気じゃない。よーし、さっさと倒して褒めてもらわなきゃ」


 上空で唸りを上げた怪食竜グランドイーターの尻尾が、振り下ろされようとしていた。地面に激突すれば衝撃波だけで周囲の冒険者をなぎ倒してしまうだろう。

 多くの者たちは悲鳴を上げて後退するが、シーナだけが逆に大きく踏み込み――


「久々に全力を出せそう!」


 そう呟いた瞬間、シーナの右腕がぐっと引き絞られ、空間がビリビリと歪むような感覚が周囲に走る。

 普通の冒険者ならば、汎用魔術理論(コモンアーケンズ)に従って、身体に魔力を巡らせる身体強化系(インハンサー)か、魔力を外部に出力して矢や炎を放つ外部出力系(シェイパー)かのどちらかに属するのが通例だ。

 しかし、シーナはまったく異なる存在だった。


 ――彼女の本質は「空間そのものに干渉することにある」。


 彼女の魔術は、空間の定義を強引に書き換え、あたかも自分の都合のいいように歪めてしまう。

 これは汎用魔術理論(コモンアーケンズ)で説明できる範囲をはるかに逸脱しており、シーナの魔導刻印や魔力の流れを視覚化しても、破綻した構造しか見えないと言われていた。


「――全力で行くわよっ!」


 シーナの拳が尻尾を狙い、一直線に突き出される。同時に、彼女の周囲の空気が白く凍りついたように一瞬で霜を帯びる。

 これはシーナが空間を歪める際、副次的に生まれる急激な冷却現象だ。熱をぎゅっと集中・圧縮した結果として、周囲から一気に熱が抜かれるために起こる現象。


 ただ、本質はあくまで空間を押し潰すことで起きる絶大な威力であって、冷却はただの副産物にすぎない。

 だが、その副産物でさえ、並みの冒険者にとっては体表が切り裂かれるほどの低温ショックを伴う、極めて危険なものだった。


 バキィンッ……!  氷結する空気の音とともに、拳が尻尾へめり込む。

 わずかに遅れて、怪食竜グランドイーターの巨体がバランスを崩すように揺れた。

 その尻尾は、もはや軽く打ち払われたなどというレベルではなく、空間ごとねじ曲げられたように捻転していた。


「ひゃはっ! 良い手応え!」


 シーナは笑みを浮かべるが、その同時に、巻き込まれる形で近くにいた冒険者数名が、思いもよらぬ衝撃に襲われて地面を転がった。副次的に発生した冷却空間のせいで、彼らは体温を急激に奪われ、痛みに悲鳴を上げる。


「な、なんだ……!? この攻撃、こっちまで巻き込む気か……!」


 砂煙とともに吹き飛ばされた冒険者たちが、悲鳴を上げてうめき声をあげる。治癒師たちが慌てて駆け寄ろうとするが、第二波の衝撃がすぐに襲う。


「あんたみたいな図体が巨大だと狙いやすくていいわ!」


 まるで息をつく間もなく、シーナがさらにもう一撃、拳を突き出した。

 空間がぎゅううう、と圧縮される独特の歪みが起こり、白い冷気が同心円状に広がる。直後、怪食竜の胴体――まるで山の腹を殴るような位置――に対して、一点集中の圧縮衝撃が炸裂した。


 ゴガァァァァンッ……!!


 大地が揺れ、遠くの森までもざわつくような轟音が響く。巨大怪物の巨体がのけぞるようにたわみ、周囲の冒険者が何人も吹き飛ばされてしまった。殺しこそしないが、それでも腕や脚を折る者が続出だ。


「ぎゃぁぁぁぁ! 巻き込まれた……うぐぁっ……!」


「うそっ……いててて……っ!」


 リリアも距離を取っていたはずが、冷気の余波に足を取られて転倒し、背中を地面に強く打ちつけてしまう。

 それでも、なんとか顔を上げる。視界の先には、巨大怪食竜がごぼごぼと不気味な音を立てながら体勢を崩していた。よほどシーナの攻撃が効いたのか、踏みとどまれずに地面へ膝をつくように沈み込む。


 そんな絶望的な巨体すら一方的に叩き伏せるシーナの姿に、リリアは改めて別格を痛感した。


「これが……絶界の魔女……」


 前にシーナから受けた一方的な暴力。それですら凄まじかったが、いま目の当たりにしているのは次元が違う。まるで自然災害そのものを操っているかのようだ。魔女と呼ばれるだけのことはある。

 広範囲に及ぶ衝撃と冷気は、味方を巻き添えにするほど無差別で容赦がない。けれど、圧倒的な力がそこにあるのは誰の目にも明らかだった。


「ふふ、まだまだ楽しめるかしら」


 シーナがぺろりと唇をなめるように笑う。

 さらに怪食竜が頭部を振り回し、その「無数の眼」から瘴気混じりの液体を吐き散らす。危険な酸性ブレスだ。冒険者たちは悲鳴を上げて散り散りになり、シーナに向けて警告の声をあげるが、当の彼女は目を細めただけだ。


「そんなもの、歪ませて消し飛ばすだけよ」


 再度、空間の歪みが起こった。シーナの周囲に霧のような冷却現象が生じると、その酸性ブレスはまるで壁にぶつかったかのように横へ逸れてしまう。

 さらにシーナが深く息を吸い、地面を大きく蹴って空へ飛びあがる。彼女の両手が交差するように重なったかと思いきや、そのまま――


「終わりよっ!!」


 空中で高速回転しながら、拳を怪食竜の頭部に振り下ろした。凄まじい冷気と衝撃が爆発し、拳の周囲の空間そのものがビリビリと音を立てる。


 ――ドゴォンッ……!!


 轟く衝撃音とともに、巨大怪物の全身が振動し、やがてゆっくりと崩れ落ちる。

 その巨体はもはや動かない。何本かの脚が痙攣するように伸び、地面を軽く震わせてから完全に沈黙した。


「……倒したのか?」


「す、すごい……あの規格外の怪物を、ほんの数撃……」


 冒険者たちの誰もが、戦慄に満ちた視線でシーナを見る。なかには腕や脚を負傷している者も多いが、それでも目を離せなかった。

 リリアもまた、茫然と立ち尽くしている。自分と同じ人型とは思えないほど圧倒的な力。前に講習会でボコボコにされたことが脳裏をかすめ、思わず身震いする。


「これで、ダーリンに褒められるかな♪」


 シーナは上機嫌にそう呟き、巨大な怪物が動かないことを確認すると、くるりと踵を返して去ろうとする。

 だが――。


「――この程度で喜んでもらっちゃ困るなぁ」


 不意に、空間を震わすような不気味な声が響いた。

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