暗黒魔法
「……僕に、こんなことをして……許されると思っているのかぁっ!」
まるで獣の咆哮のように叫んでいるが、エルシュにとっては駄々をこねる子どもに見えていた。
自分のお願いが叶わなくなれば、すぐに癇癪を起してしまう、そんな聞き分けの無い子どもがそのまま大きくなってしまったのがダドリウスなのかもしれない。
「もう、いい! この城ごと全て、ぶっ壊してやる! 何もかも! 全て殺してやる!」
ぶわりと生温い風がその場を駆け抜けて行き、ダドリウスの足元が紫色の光を帯びて、光り始める。読めない文字が羅列し、円を描く光景を見て、最初に叫んだのは魔法陣に囚われたままのジークだ。
「わぁっ!? まずいぞ! その魔法は駄目だ!」
普段、見ないような慌てぶりでジークは精一杯に叫んでいる。
「どんな魔法なのですか」
「暗黒魔法の一つだよ! どうしてそんな禁術を知っているんだ、彼はっ! ……その魔法は、やがて形成した魔法陣が広がっていき、少しでも触れたものを吸い込んでしまう恐ろしい魔法だ! しかも、吸い込まれたものは闇と呼ばれているこことは違う次元の空間に投げ出されて、二度とこちら側に戻ってくることが出来なくなるんだよ!」
「えっ!?」
「そんなっ……」
魔法をよく知らないエルシュとフィオンでさえ、ジークが言っている言葉の意味はすぐさま理解出来た。
それまで、そこにあったものが消えてなくなる魔法だと聞けば、恐ろしくないわけがない。
「ああ、もうっ……! こういう時に限って、動けないなんて、最悪だっ……! くそっ!」
ジークにしては珍しく声を荒げており、事態の深刻さが窺えた。
「ジーク様! どうすれば……!」
「とにかく、ダドリウスを止めるしかない!」
ジークの言葉に一番早く動いたのはフィオンだった。フィオンはスカートの下からナイフを一本取り出して、呪文らしきものをぶつぶつと唱えるダドリウスの腹部辺りに向けて投げ放った。
しかし、ダドリウスが立っている魔法陣の中央へと届くことなく、ナイフは突然、姿を消したのである。
「なっ……!?」
魔法陣の上をナイフが通過した瞬間に、あっという間に消え去った光景を見て、エルシュの身体に冷や汗が浮かんでくる。
「ああっ……。まずい、まずいぞ……魔法陣が発動し始めている……! くそ、こういう時ってどうすれば良かったっけ……。もっと真面目に師匠の修行、受ければ良かったー!」
遺言のようにジークは叫ぶ。魔法使いである彼でさえ、暗黒魔法と呼ばれるものの対処は見当が付かないらしい。
フィオンもなす術がないため、呆然としてしまっていた。恐らく、エルシュが同じようにダドリウスに攻撃を仕掛けても、彼に到達する前に消し去られてしまうだろう。
その時だった。
「──エルシュ!」
自分を呼ぶ声にエルシュは身体を震わせる。仰ぐように後ろを振り返ってみれば、真っすぐに自分を見つめているリディスがいた。
「エルシュ、仮面を外してくれ」
「えっ……」
「いいから、早く!」
「は、はいっ……」
叱責するようなリディスの声に従い、エルシュは急いで彼の傍へと駆け寄った。
「仮面の紐を外してくれないか」
「ですが、それは……」
「頼む」
揺らぐことのない深い青色の瞳が自分へと向けられていた。彼は何かを決意したのだ。
エルシュはごくりと唾を飲み込み、右手に掴んでいた氷の長剣の柄を握り直した。
「……失礼します」
「ああ」
深呼吸をしてからエルシュは氷の剣の刃先を使って、リディスが被っている仮面の紐をゆっくりと断ち切った。
固定している紐が断ち切られてしまえば、その状態を維持することが出来なくなった仮面はからん、という音を立てながら床の上へと落ちる。
「……ありがとう。あとは任せてくれ」
エルシュはリディスの背中側にいるため、仮面を外した顔を見ることは出来なかったが、それでもリディスが考えていることは感じ取れていた。
瞬間、言葉にしがたい空気がその場を埋め尽くしていく。その力を発しているのはリディスだとすぐに気付いた。
リディスは身封じの魔法によって、動けなくなっていたはずなのに彼の右手がゆっくりと空間をかき乱すように動き、そして床に向けて思いっ切りに振り下ろされた。
まるで頬でも張られたような音がその場に響いたと同時に、床上では小さな火花がばちばちと散っていく。
それまでリディスとジークを囲むように淡く光っていた魔法陣はいつの間にか消え去っており、床に手を付きながら二人は起き上った。
「……ああ、確かに人間の魔法が竜の力に敵うわけがないからね。考えたね、リド」
「魔法が専門なのはお前だろう。慌てて冷静さを失う性格は二十年経っても直らないみたいだな」
「うぐっ……。でも、今から魔法使いとして名誉挽回するから!」
リディスとジークは軽口を叩き合いながら、エルシュの盾になるように立ち上がっていた。
二人の身体の動きを封じていた魔法が解けたことに驚いていると、目の前に立っているリディスがエルシュの方へと振り返った。
明るい場所で初めて見た素顔は、仮面を被っている時と同じで、何も変わりはない。頬の上に彩る透明な鱗が眩しいだけで、何も変わりなどないのだ。
きっと言葉にせずともエルシュの考えることは伝わってしまっているのだろう。だからこそ、エルシュはリディスに微笑を浮かべて見せた。
視線を交えたリディスはエルシュへと満足気に頷き返す。そして、再び背を向けて、玉座が佇む壇上から下りて行った。
「ジーク。この部屋全体に強固な多重結界を張ってくれ。……私がダドリウスの魔法を相殺する」
「ええっ……? 君、簡単そうに言っているけれどねぇ……。まぁ、いいけどさぁ、自分を犠牲にしようなんてこと、思わないでよね?」
「そんなことは微塵も思っていないから安心しろ。無事に収束させた後は、後片付けの雑務を山ほど投げてやる」
「なっ!? ……もう、宰相なんて辞めてやるー!」
ジークの声は虚しく響くだけだ。だが、本気で宰相を辞める気はないのだろう。
「フィオン、エルシュが立っている場所まで下がっていなさい。ここは危険だ」
「は、はいっ……」
フィオンはリディス達に頭を深く下げてから、エルシュのもとへと駆け寄ってくる。
今からリディス達が何をしようとしているのか分からないが、それでも危険なことには間違いないのだろう。
エルシュは掴んでいた氷の剣を空気中の水分へと分解させてから、両手を胸の辺りまで持ってくる。
……どうか、ご無事で。
それだけしか祈ることは出来ないがエルシュは両手を組んだまま、リディス達の背中をじっと見つめていた。




