自分の意思
だが、その時だった。
ふわりと柔らかい風が吹き抜けていったと同時に、風を切り裂くような何かがエルシュの横を通り過ぎ去っていったのである。
一体何が、と考えを巡らせるよりも早く、目の前で赤い飛沫が舞うように飛び散っていた。
血飛沫が飛び散る瞬間を凝視していると、魔獣の頭の一つに細いナイフのようなものが突き刺さっていた。
よく見てみれば、ただ突き刺さっているだけではない。細いナイフは魔獣の目に深く突き刺さっていたのだ。
その正確さにエルシュだけではなく、ダドリウスも驚いているようだった。
「……私が愚かでした」
小さく呟いた声はまだ震えている。だが、玉座がある壇上から下りてくるフィオンの足取りはしっかりとしていた。
「自分の意思をはっきりと持っていれば弟を巻き込むことなく、誰かを殺すことなんて、なかったのに」
後悔の言葉を口にしているが、それでもフィオンの瞳には力強い意思が宿っているように見えた。
「エルシュ様。あなた様とリディス陛下には謝らなければならないことがたくさんございます。……ですがどうか、この一時だけ、お傍にいることを許していただけませんか。全てが済んだあとに、どのような罰でも受けますので」
そう言って、フィオンは短剣を右手に構えたまま、エルシュの隣に真っすぐと立ったのである。童顔である彼女の凛とした表情はいつもよりも大人びて見えた。
きっと、彼女は今までやりたくもないことを我慢しながら、ダドリウスの下で働いていたのだろう。だが、それをきっぱりと跳ね返すように彼女は言い切ったのだ。
「……また、一緒に雪遊びをしましょう」
「エルシュ様……」
エルシュを見つめていたフィオンの表情は一瞬にして幼いものへと変わっていく。
「でも、自分の命を散らすようなことをしては駄目よ。あなたには大事な弟がいるのでしょう。……今度、弟も一緒に連れて来るといいわ。他にも侍女の子ども達も呼んで、皆で雪合戦をしましょうね」
エルシュが出来るだけ明るい口調でそう告げるとフィオンはやっと表情を崩した。
「……ありがとうございます。エルシュ様のお傍に居られることを私はこれ以上にない喜びだと感謝しております」
フィオンは浮かんでいた涙を手の甲で素早く拭ってから、短剣の刃先をダドリウスへと向けた。ダドリウスは目の前でフィオンの裏切りを受けて、次第に顔を怒りの色で染めていく。
「フィオン……! 今まで飼ってやった恩を仇で返すようなことをよくも……!」
「ダドリウス・ファヴニル様に申し上げます。フィオンは本日を持ちまして、弟のティオと共にあなた様の飼い犬を辞めさせて頂きます!」
宣言のようにフィオンは声高にそう告げた。ダドリウスの中の何かが爆発したのか、彼は床を思いっ切りに蹴った。
「ふざけるな……! ふざけるなよ……!」
頭を手でかき乱しながら、ダドリウスは顔を真っ赤にしたまま声を荒げた。
「殺す……! フィオン! お前も、お前の弟も殺す! そこにいる馬鹿どもと一緒に魔獣の餌にしてやる!」
「その前に魔獣を殺して差し上げます」
フィオンはスカートの下に装備していたナイフをすぐさま、魔獣に向けて躊躇いなく投げ放った。ナイフの軌道はあまりにも正確で、三本投げたナイフはそれぞれ、魔獣の瞳に直撃していた。
想像するだけで痛ましい光景だが、エルシュは魔獣に追い討ちをかけるように氷の剣を空気中へと形成していく。
「突き刺して!」
エルシュの号令に従うように頭上に浮かびながら形成されつつあった氷の剣は、まだ形成途中であるにもかかわらず、氷の鉄格子の間を勢いよく抜けて、魔獣の頭へと激突した。
魔獣は地獄から這い出るような叫び声を上げつつ、その場でのたうち回り始める。
「何だと……!?」
「ダドリウス様、まさか知らないわけではないでしょう。私のナイフには毒が塗ってあるんですよ」
そう告げつつ、フィオンは左手に新たに構えたナイフを二本、手に取ってから再び魔獣に向けて投げ放った。
さすがにのたうち回っている魔獣の瞳を正確に捉えることは出来なかったようだが、フィオンのナイフは魔獣の頭へと注射器のようにぶすりと突き刺さっていた。
「っ……! ……おいっ、後ろで何を呆けているんだ! 早く、こいつらを片付けろ!」
それまでダドリウスの指示を待っていたのか、彼の配下である四人の男達は中々動けずにいたらしく、やっと届いた命令を耳に入れてから動き始める。
「邪魔はさせません!」
フィオンはすぐにスカートの中から紙のようなもので包まれている球体を二つほど取り出して、それらを男達に向けて、振りかぶりながら投げ放った。
フィオンが投げた球体は床に直撃すると、割れてしまったのか、鈍い音を立てたと同時に包まれていた中身が零れ出ていた。
球体から零れた何かは男四人の足元を覆うように白い煙を発生させて、姿が見えないくらいに立ち昇っていく。
エルシュが瞳で一体何を投げたのかとフィオンに問うと、彼女は少し顔を引き攣らせつつ答えた。
「眠り玉です。……大変申し訳ないのですがこれを使って、王城で働いている人達を眠らせました」
そう答えているうちに、床上に何か重いものが倒れる音が四つ分、響いて来る。
白い煙のせいで良く見えていないが、フィオンの説明の通りならば男四人は眠り玉によって、たちまち眠ってしまったということだろう。
「……凄いのね、フィオン」
「……本来ならば、褒められるべき技術ではありませんが、エルシュ様のお役に立てたのならば光栄です」
白い煙はダドリウスと魔獣が立っていた場所まで及び、次第に彼らも煙によって見えなくなってしまう。
「このまま、眠ってもらえると助かるのだけれど」
だが、エルシュが愚痴のように呟いた瞬間、それまで白い煙によって埋め尽くされていた視界は、突風が吹いたように一瞬にして晴れ渡っていったのである。
「っ!?」
視線を前方へと向ければ、よろめきながらも立っているダドリウスの姿があった。
彼は腕輪をはめている右手をこちらに向けてかざしており、恐らく魔法によって風を起こし、煙を吹き飛ばしたのだろうと察した。
一方でナイフの毒が身体に浸透し、さらに眠り玉が効いているのか、魔獣は腹を上へと向けた状態で倒れていた。胸がゆっくりと動いているので、まだ生きてはいるらしい。




