銀花の姫
「フィ……」
「──フィオン」
エルシュが呼ぶよりも早く、ダドリウスの冷たい声がフィオンを襲う。
「リディスを殺せ。……お前の弟がどうなってもいいのか?」
「っ……!」
告げられた言葉が引き金となったのか、フィオンは侍女の服の下に隠し持っていた短剣をすぐさま抜いて、右手に構えた。
この時、彼女がどうしてダドリウスに付き従っているのかを理解した。恐らく、フィオンは彼女にとっての弱みとなるものをダドリウスに握られているのだ。
先程、ダドリウスはフィオンに弟がどうなってもいいのかと訊ねていた。つまり、彼女の弟が人質となっているため、命令に背くことが出来ないでいるらしい。
「いいか、心臓を突き刺せ。治癒魔法が効かない程、深く刃を突き立てろ」
ダドリウスはまるで呪いの言葉のように、フィオンに向けて恐ろしいことを呟いていく。
「迷いなく殺せ」
言葉に縛られたようにフィオンは一歩、また一歩とリディスへと近づいて行く。その顔は蒼白で、後には引けないと言っているように見えた。
だからこそ、エルシュはフィオンを責めることはせずに許してしまうのだ。
「フィオン」
優しい声色で名前を呼べば、フィオンの肩ががたりと動いた。首がぎこちなく、エルシュへと向けられる。
「フィオン、あなたが抱えているものに気付いてあげられなくて、ごめんなさい」
「……っ」
「あなたが毒を扱ったという罪を許すことは出来ないけれど、私はフィオンという人間を許すわ。だから、どうか自分を責めないで」
くしゃりとフィオンの顔が歪んで行く。短剣を握っている腕は震え、今にも落としてしまいそうだ。
「私はあなたの意思を尊重するわ。……あなたが選んでいいのよ。だって、フィオンの意思はあなたのものでしょう? 誰かに傷付けられていいものではないもの。……だから、私はあなたが選んだものを責めたりしないわ」
「エルシュ、さま……」
ぼそりと呟く言葉さえも震えていた。
本当はフィオンもリディスを殺めるようなことをしたくはないのだろう。
それでも、彼女の真の主であるダドリウスが望む以上、言う通りにしなければ彼女の弟の命が危うくなってしまうのかもしれない。
「でもね、一つだけ伝えておくわ。……あなたがもし、私に手を伸ばしてくれるなら、私はしっかりとその手を掴むわ。絶対に離さない。私が──フィオンとフィオンの大事なものを必ず守ると約束する」
「っ……!」
フィオンの丸い瞳が大きく見開かれる。エルシュはその表情から答えを読み取ることは出来なかったが、あとはフィオンの判断に任せることにした。
「……うちの飼い犬をたぶらかすような真似はやめていただこうか」
ダドリウスは顔を歪めながら、機嫌が悪そうな声色でエルシュに吐き捨てる。
「フィオン。お前の親は確か、魔獣によって殺されていたね? ……お前の弟はまだ小さいから、食べ応えはないだろうがそれでも肉は柔らかいだろうな」
「……っ」
わざとらしく告げられるダドリウスの言葉に、フィオンの顔が絶望したようなものへと変わっていく。嫌なことを思い出したのか、空いている左手で口を押えていた。
「ダドリウス殿下。あなたはそうやって、力で人をねじ伏せることしか出来ないのね。……あとで後ろを振り返ってごらんなさい。武力と恐怖による支配では、誰もあなたの後ろを付いて来ることはないわ!」
「ははっ……! たいした力も持っていないのに、口だけは達者なお姫様だ」
王家の血が流れているとは思えないほどに下品な笑い声を上げてから、ダドリウスはフィオンの方へと視線を向ける。
「フィオン、賢いお前なら分かっているだろう。……お前にとって、得なのは何か。それが分からない頭を持っているわけではないよな?」
「……」
フィオンは言葉を発さない。彼女と接していた際に、自分に見せてくれていた輝きのある瞳はそこにはなく、ただ空虚な瞳が佇んでいた。
「殺すだけだ。いつもと同じように、ただ殺すだけ。……それだけだろう? 慣れていることじゃないか」
「……あなたは最低だわ」
ダドリウスに向けて、エルシュは吐き捨てるようにそう告げた。
「こんな小さな子に罪を背負わせて、自分は手を汚さないのね。本当に卑怯で、傲慢で愚かだわ」
「なに……」
そこで初めて、ダドリウスの顔に困惑と怒りが入り混じったような感情が浮かんだ。他人から傷付けられるような言葉を受けたことがないのだろう。
だが、エルシュの言葉はダドリウスを傷付けるために放ったわけではない。自分の言葉は刃だ。そして、守りたいものを守るための盾でもある。
エルシュはダドリウスを真っすぐと見据えたまま、右手で一閃を薙いだ。
瞬間、エルシュの右手には空気中の水分が凝結して、生み出された氷の剣が掴まれていた。その長剣の柄をしっかりと握りしめてから、エルシュは剣の刃先をダドリウスへと向けた。
「自分以外の人間の手を使って、陰からこそこそと動いてばかり。それほど、国王になりたいというのなら、堂々とこの場所を歩いてみせなさい。ここは、王へと通じる道よ」
後ろからはリディスのものと思われる視線が背中に突き刺さってくる気がした。
彼は今、どのような顔をしているだろうか。エルシュが勝手に行動を起こしていることをどう思っているだろう。
……私は陛下に生きて欲しい。だから、この場所は絶対に譲ったりはしない。
エルシュはあえて、ダドリウスを睨むことはせずに無表情のまま見つめた。彼に対する感情は怒りだけで、他には何一つとして浮かばないからだ。
「玉座に座りたいならば、その隣に立っている私を──『銀花の姫』を倒してごらんなさい」
「……」
銀花の姫、それはダドリウスが嘲りを含めた声で自分を指した呼び名だ。
だが、今の自分にはちょうどいいのだろう。雪と氷を従え、表情は動くことなく、氷像のように突っ立ったままだ。
自分が花であるとまでは言わないが、今の姿はまさに銀花という言葉にふさわしい。
「くっ……。あははっ……ははっ……」
何かの糸が切れたように突然、ダドリウスは笑い声を上げ始めた。
「……ああ、本当におかしい。見くびっていたことを謝るよ、エルシュ姫」
そう言って、ダドリウスは黒い石の腕輪をはめている腕を上から下へと撫でるように薙いだ。
その瞬間、それまでエルシュが作った氷によって、身体が覆われていた魔獣が不穏な唸り声を上げながら、三つの首をそれぞれ動かしていく。
……まずいわ。
エルシュは咄嗟に魔獣の足元から氷を伸ばして、身体を包もうとしたが間に合わず、魔獣は再び自由の身となっていた。
「これくらいで僕が歩く玉座への道を足止め出来ると思わない方がいいよ。国王になれるなら、僕は血と骨の上だって歩いてみせるからね」
ダドリウスが顎でエルシュの方をくいっと示せば、それが合図になったようで控えていた魔獣が氷の檻へと勢いよく体当たりしてきたのである。
「っ……」
その勢いによって、氷の檻となっている鉄格子の部分には薄っすらとひびが入っていた。
……修復をしながら、この魔獣を仕留めることなんて、出来るのかしら。
この場から動かないと決めたが、それでも現実の圧倒的な力となるものを見せつけられたエルシュは小さく唇を噛み締める。




