王妃の務め
「なんと……」
「凄い、これが……」
それまで恐れたような声を上げていた貴族達の中にも、喜びと希望が宿ったような声が漏れ聞こえ始める。
誰もエルシュが壁に穴を開けて緊急用の出入り口を作るなんて、思ってもいなかっただろう。
エルシュが溜息を吐いて、視線を壁の方へと向ければ、荒々しくもそれなりに人が通れる出入り口が完成していた。
穴の向こうには廊下が見えており、思わず安堵によって身体の体勢を崩してしまいそうになるが、自分がやるべきことはまだ終わっていないと持ち直した。
この穴の幅ならば、ダドリウスが召喚した魔獣も通ることは出来ないだろう。
それが分かっているのか、振り返った先のダドリウスは顔を顰めていた。
「余計な真似をしやがって……!」
苛立ったような声で吐き捨てていたがエルシュはその言葉を無視して、貴族や諸外国から訪れて来ている要人達に向けて言葉を放った。
「……それでは改めて、皆様に問いたいと思います。この場にまだ、残っておられる方は正常な意思をお持ちの方だとお見受けしますが……」
そう言って、エルシュは出来るだけ、笑顔として受け取ってもらえるようにと、精一杯に微笑んで見せた。
自分は今、ちゃんと笑えているだろうか。
視界に映る人々は目を見開いて、驚いている表情を浮かべる者ばかりだ。誰もが石のように固まってしまっている。
……私は、陛下の王妃。誰かを動かす力はないけれど、持てる武器は全て使わせてもらう。
今まで、笑顔の練習なんてしてこなかったのは笑う必要などないと思っていたからだ。
だが、今は違う。自分はドラグニオン王国の王妃で、リディスの妻だ。
妻は夫を支え、助けるものだ。そして、それはまさにこの瞬間なのだろうと思う。
「それぞれの心に、素直に従って選んでください。……どちらの道を選んでも、後悔がないように」
エルシュの言葉に引き攣った声を上げる者もいれば、顔を逸らす者もいた。きっと心の中では、今すぐにでもダドリウスが開けてくれた扉から出ていきたいと思っていたのだろう。
そう思うことを咎める気は毛頭ない。だから、自分はここで待つだけだ。
すると、一人の貴族がエルシュの前へと出てきて、ゆっくりと膝を折った。初老の男性は顔を下げたまま、言葉を呟く。
「エルシュ姫、いや王妃様。命を助けて頂くことに、最上の敬意を以てお伝えさせて頂きます。……今後も我がホーネスト家はリディス国王陛下とエルシュ王妃の下で忠義を尽くす所存でございます」
「お顔を上げて下さい。……その誠意、今後もしかと受け取らせて頂きます。……外にもダドリウス殿下の配下となる者が潜んでいるかもしれないので、お気をつけ下さいね。それと謁見の間の外に待機しているはずの近衛騎士達を呼んできて頂けますか」
「はい、かしこまりました」
ホーネスト家の当主と思われる男性は丁寧に応えてから、連れ添って来ていた妻と共にエルシュに向けてもう一度、頭を下げて来る。
妻の方は目元に涙を浮かべており、今にも泣きだしてしまいそうだったため、エルシュは大丈夫だと言わんばかりに微笑みを返した。
エルシュが壁に穴を開けて作った出入り口に、ホーネスト夫妻が出ていくのを見送ってから、周りに気付かれないように溜息を吐く。
とりあえず、謁見の間から出ることが出来れば、魔獣に襲われる心配はないだろうがダドリウスの配下の者が潜んでいる可能性があるため、どうか無事に家に辿り着くことを祈るだけだ。
「……陛下と王妃様に忠誠を」
「ドラグニオン王国の繁栄と安寧のために、これからもリディス国王陛下の下でお仕えしたいと思います」
気付けば、エルシュを囲うように貴族達が頭を下げに来ていた。きっと、彼らの中には自分に対して頭など下げたくはない者もいるだろう。
それでもエルシュは微笑み続けた。
「どうか、気を付けてお帰り下さいね」
エルシュは貴族達、一人一人の顔を見ては、まるでダドリウスによる反逆行為など無かったように振舞った。
エルシュが作った道を通るために集まってくる貴族の中に、アルヴォル王国からの外交官も混じっていた。
彼はエルシュの顔を見るなり、困惑した様子だったが、エルシュは特に気にすることなく言葉を続ける。
「半年後に行われる、私とリディス国王陛下の結婚式では幸せな姿をお見せしますので、どうかお父様に──いえ、アルヴォル国王様には宜しくお伝え下さいね」
「エルシュ様……」
何か言いたげな表情を浮かべているアルヴォル王国の外交官に向けて、エルシュは静かに口元を緩める。
彼は唾を飲み込み、強く頷き返してから頭を深く下げた。
そうやって、エルシュに向けて挨拶をしながら、諸外国の要人達や貴族達は壁の穴から次々と脱出していく。
給仕をしていた者達はさすがに謁見の間に残ろうとしていたが、待機しているはずの近衛騎士がまだ来ないため、呼んできて欲しいという頼みと、出て行った貴族や要人達の安全を守るために、彼らの傍に居て欲しいということを伝えて、外に出て行ってもらった。
それまでは大勢で賑わっていた謁見の間はたちまち静けさが流れる空間へと移り変わっていた。
その場にいるのは倒れているリディスとジークの他に、ダドリウスの配下と思われる貴族らしき姿の男が四人と、そしてエルシュとダドリウスだけだ。
エルシュは給仕係の者を見送ってから、自らが壁に開けた穴を塞ぐために雪華の力を使って、新しく氷の壁を形成させておいた。ダドリウスを逃がすわけにはいかないからだ。
睨まれていると分かりながらもエルシュはダドリウスの方へと振り返り、そして、意識をダドリウスが開け放った扉の方へと向ける。
「……閉じなさい」
瞬間、開け放たれていた扉の前には床から天井へと伸びるように透明な壁が形成されていく。
ダドリウスも謁見の間に閉じ込められたとすぐに気付いたのだろう。彼が舌打ちした音が虚しく響いた。
「……やるじゃないか、銀花の姫。やはり、雪華の力は本物だったんだね」
「……あなたにお見せしたくて使ったわけではありません。私は武力や恐怖心によって、力を得ようとするあなたを王として認めることが出来ないので反抗させて頂きました」
エルシュは冷たく突き放すように答えつつ、そして再びリディスを守るべく、玉座の下まで歩いて戻った。
リディスの瞳は驚きによって、閉じることが出来ないのではと思える程に見開かれていた。
一方で、ジークの方は楽しそうに苦笑している。緊急時だったが壁に穴を開けてしまったことはあとでちゃんと謝って、弁償するつもりではいる。
ただ、弁償するための術がないため、その辺りもしっかりと相談しなければならないだろう。




