氷の槍
自分と共に生きると願ってくれたリディスが再び、生きることを諦めているような気がして、エルシュは自然と拳に力が入っていた。
身体は震えており、指先までが氷のように冷えている。それでも、自分がすべきことは頭の中ではっきりと理解していた。
……私が、陛下をお守りする。陛下の全てを……!
その意志だけを胸にエルシュは大きく一歩を踏み出し、力の限りに叫んだ。
「──お待ちなさい!」
エルシュの声は混沌とする空間に波打つように広がっていく。その声が耳に入ったのか、開いた扉から出ようとごった返していた出入り口付近の貴族達はぴたりと足を止めた。
魔獣の隣に立っているダドリウスはエルシュが声を発するなど、予想していなかったのか、きょとんとした表情で驚いているようだった。
だが、最も驚いたのはエルシュ本人である。
まさか、これ程までに大きな声が出るとは思っていなかったため、喉の奥が少しだけ焼けたように痛んだ。
「私は……エルシュ・クライアインは──」
一度、深く息を吸ってから、言葉を続ける。
「ダドリウス殿下によって、開かれたその扉を通過した者を我が夫であり、国王であるリディス・ドラグールを裏切った反逆者として見なします!」
エルシュの言葉に新たなざわめきが生まれていく。
誰しもが思っているだろう。他人を抑える力を持っておらず、政略結婚で嫁いで来たばかりの姫君が何を言っているのだろうかと。
「あなた方はこの場で反逆者だと見なされても……陛下への忠誠よりも自身の命の方が大事だと思っている者もいるでしょう。私はその考えを否定する気はありません。ですが、私からもあなた方に一つ、提案があります」
その言葉に顔を歪めたのはダドリウスだ。彼の表情が、小娘ごときが一体何が出来るんだと言わんばかりに口の端を上げている。
そんなダドリウスを無視したまま、エルシュは玉座から見て、左側の方向へと足を進めた。
「浮いて出たような者に国王の座が務まると本当に思いますか。何かあるたびに、力を正しく使えない者から命を脅されて、怯えながら生きることを良しとするならば、どうぞその扉から立ち去って下さい。ですが──」
そして、突き当たった白い壁に顔を合わせるように向かい合ってから、足を止める。
「リディス・ドラグールに永遠の忠誠を誓い、怯えることなく安穏とした日々を望まれるのでしたら、こちらの扉から出ていって下さい」
「……何を言っているんだい、エルシュ姫? 頭が混乱しているのかな?」
ダドリウスが冷めたような物言いをしながら、鼻で笑って来る。
「扉なんて、どこにもないじゃないか」
その言葉に同調するように他の貴族達からも、何か言いたげな表情を浮かべる者が多数見受けられた。
「ええ。……だから、今から作ります。──ローファス宰相。壁の修繕費は私があとで弁償しますので」
「えっ? あ、うん? ……え?」
いまだに魔法陣に捕まって、動けないでいるジークは何が何だか分からないと言った表情で返事を返した。
その言葉を聞いてから、エルシュは白い壁に両手を添える。
頭の中で想像したのは全てを凍てつくし、氷の壁へと変えていく光景だ。指先から、ぱちりと弾く音が聞こえて、エルシュは薄く目を開く。
背後からはどよめきのようなものが上がり、感嘆と驚きが混じった声が方々から聞こえた。
だが、そんな喧騒を無視してエルシュは白い壁に手を添え続けた。掌に伝わる温度は最初触った時よりも冷たく、しもやけしてしまいそうな程に痛かった。
もう、良いだろうと思ったエルシュは両手を下ろしてから顔を上げる。
目の前の白い壁は両手を広げたほどの範囲を覆うように氷が埋め尽くしていた。まるで、氷の壁とも言える光景だ。
「……あれが、噂の……」
「雪華の力と言われている……」
「だが、あの王妃はアルヴォル王国から嫁いできたんだぞ? あの国の王家の人間は植物を操る力が使えるはずだ」
背後から聞こえるのはエルシュの力を訝しがる声だ。
……そう、私の力は本当ならば、望まれないものだと分かっている。でも──。
リディスが、綺麗だと言ってくれた。
ありがとうと自分に向けて、告げてくれた。
それだけが、今まで沈むように溜まっていた重い感情を消し去ってくれたのだ。
……だから、私のこの力は忌まわしいものなんかじゃない。私の力は……ちゃんと、誇れるものだって、陛下が教えてくれたから。
短く息を吐いてから、エルシュは壁から距離を取った。そして、頭の中で想像したものを具現化するために氷の壁を睨み、自分の足元の床を踵の高い靴で鳴らすように叩いた。
響いたのは、軽やかな音だ。それは次第に目に見えたものへと変化していく。
エルシュの足元から、氷の壁へと斜めに伸びるように形成されていくのは、先が尖った槍のようなものだった。
だが、それは決して細くはない。まるで丸太を五本ほど束ねた、太く透明な槍が形成されていったのである。
……あの方が諦めるならば、私は何度だって、道を作ってみせる。
エルシュは意識を氷の丸太に集中させながら、もう一度、踵で床を鳴らした。
瞬間、形成されていた太い槍は放たれた矢のごとく、壁に向かって勢いよく伸びていき、突き刺さったのである。
「なっ……」
その場に居る者達から悲鳴にも似た声が上がる。
自分は傍から見れば、大人しい姫君だと思われていたのかもしれない。それでも、やらねばならない時くらいは分かっているつもりだ。
宰相のジークにはすでに壁を壊すことに許可を貰っているため、遠慮する気はない。
自分こそがリディスの剣と盾であり、そしてリディスの名誉を回復させるためには自分が戦うしかないのだから。
エルシュは最後の仕上げだと言わんばかりに今度は氷の丸太に向けて、踵を叩きつけた。
「っ!」
まさか、姫君が素足を晒しながら蹴りを入れるという光景を想像出来なかったのか、ダドリウスを含めた貴族達は引き攣ったような呼吸をしていた。
エルシュが蹴り上げた氷の丸太はそのまま勢いを増して、氷の壁へとめり込むように突き刺さっていく。
だが、それは氷の壁だけではなく、氷の下の白い壁も同様だった。
白い壁は丸太のような槍が突き刺さったことで、ひびを広げていき、そして鈍い音を立てながら、その場に瓦礫を作り上げていった。
押し込めながら突き立てるようにエルシュは更に出入り口となる壁の穴を広げていく。
白い瓦礫がその場に山を作っていき、開けた穴の広さが両手を広げた程まで到達したことを確認してから、エルシュは丸太を蹴るように突き立てていた足を下ろし、そしてもう一度、床を叩くように踵を鳴らした。
瞬間、それまで壁に突き刺さっていたはずの氷の槍は瞬く間に形無きものへと変わっていく。
固体だったはずの氷はその場へと溶けてから液体の状態へと変化し、やがて床に染み込みつつ、空気の中へと戻るように消え去っていった。




