騒乱の始まり
祝辞の挨拶を述べに来る者も落ち着き、リディスとエルシュは並んで座ったまま、安堵の溜息を吐いていた。
「えっと、お疲れ様でした……」
「そなたも大変だっただろう。正式の場での挨拶だったが、他国の者に対しても受け答えがしっかりしていたな。下調べをしていたのか?」
「ええ……。と言いましても、文官の方から頂いた式典と夜会の参加者の名簿を眺めたり、それぞれの国の特徴や特産物を頭に入れておいただけですが……」
「いや、それだけでも十分過ぎるほどだ。途中は会話で助けてもらうことが多かった。ありがとう、エルシュ」
「い、いえ……」
真っすぐと笑みを向けられるとどうしても照れてしまい、エルシュは顔を背けた。
自分なりに王妃としての知識や技術を培っていきたいと思っていたがちゃんとリディスの役に立ったようならば、それは途轍もなく嬉しいことだ。
思わず気が緩みそうになってしまう。
すると、いつものゆったりとした服装ではなく、しわが一つもない正装を着ている宰相のジークがエルシュ達の傍へとやってきた。
「二人とも、お疲れ様。特にエルシュ姫は初めての式事で大変だっただろうけれど、上手くやり過ごしていたみたいで何よりだよ」
「ジーク……」
窘めるようなリディスの言葉にジークは低く笑った。
今、玉座の周辺には誰もいないため、ジークの軽口が聞こえる者はいないが、聞き耳を立てている者もいるかもしれないため、注意しろという意味なのだろう。
「分かっているよ。……さて、もう少ししてから夜会もお開きだ。それまで頑張ってくれよ、お二人さん」
「言われなくても……」
いつもの調子でリディスとジークが気楽そうな会話をしている。
その会話に入ることはせずに、エルシュは少し呆けた表情で、玉座の下に広がる広間で明るい表情を浮かべては楽しんでいる者達を眺めていた。
しかし、その視界の端に先程、自分達へと祝辞の挨拶をしに来たダドリウスの姿が映った。
彼は中年の男性達と楽しげに会話をしている。余程、親しげな間柄に見える彼らは貴族の当主と言ったところだろう。
ダドリウスは彼らに何かを話しているようだ。
それを受けてか、数人の貴族達は持っていたグラスを給仕の者へと返して、そして謁見の間からゆったりと出て行った。
誰もが行き交うこの社交の場では、数人の男が出て行ったくらいでは気に留めることなどない。
時間も時間なので、リディスによる閉式の言葉を聞かずに帰っていったのかもしれない。
何気なくそう思いつつ、ダドリウスの方へと再び視線を向けた時だ。
……え?
ダドリウスはエルシュを見ていた。いや、正確に言えば、エルシュの隣に座っているリディスを見て笑ったと言った方が良いだろう。
その笑みは今まで見てきたものの中で、黒い感情と愉悦が含められたものだった。
だからだろうか、瞬間、エルシュの身体にぞくりと冷たい嫌悪感が流れた気がした。
ダドリウスはリディスを見つめたまま、彼の首元に下がっている黒く濁ったような色をした石の首飾りを無理矢理に引き千切る。
そんな行動を取っていても、誰もダドリウスを見てはいない。
嫌な笑みを浮かべたまま、ダドリウスは引き千切った黒い石の付いた首飾りを手に持つと、腕を少し振り上げたのだ。
「っ!」
ダドリウスが何か行動を起こす気だと感じ取ったエルシュはすぐさま、座っていた席から立ち上がり、周りの目を気にしないまま、階段を数歩だけ駆け下りる。
「待っ──」
それでも、エルシュの声が間に合うことはなかった。
黒い石を右手に持ったダドリウスはそのまま床に向けて、思いっきりに叩きつけたのである。
ぱきんと乾いた音が人々の声に混じって、耳まで届いて来る。
だが、それと同時にエルシュの背後では想像していなかったことが起きていた。
「がぁっ……」
「なっ……!?」
感じたこともない熱量が背後から突如として発生し、エルシュがすぐさま後ろを振り返ると玉座に座っていたはずのリディスがその場に倒れ込んでおり、苦しそうな呻き声を上げていたのである。
それだけではなく、すぐ傍にいたはずのジークまでもが床上に倒れており、一度も見たことがないような苦しげな表情を浮かべていた。
「陛下っ……!?」
「来る、な……っ!」
リディスの制止の声によって、エルシュの身体はぴたりと足を止める。
よく見てみれば、床上に伏せている二人の身体の下には魔法使いが魔法を使う際に使っている「魔法陣」が淡く光りながら浮かんでいた。
そんなもの、自分が座っていた際には見られなかったはずだ。
魔法陣は淡く光りつつも、途轍もない力を爆発させるように周囲に撒き散らしている。
魔法に関しては素人だが、それでもあの魔法陣が原因で二人は動けなくなってしまっていることは理解出来た。
「何が……」
「あれは魔法か……!?」
「おい、誰か陛下をお助けしろ!」
玉座の下の広間にいた者達の間に激しい動揺が広がっていく。誰もがこの現状を把握出来ていないのだろう。
すぐ近くに居たエルシュも何が起こっているのか、分かっていなかった。
混沌とざわめき、悲鳴が沸き起こる中、一人の青年が玉座に向けてゆっくりと歩みを進めて来る。
それは先程、奇妙な行動を起こしたダドリウスだった。彼は張りつけたような笑みを浮かべたまま、玉座へと向かって来る。
「中々、その椅子を譲ってくれないから、無理矢理に頂くことにしたよ、リディス」
「お前の……仕業か……!」
「ははっ、その状態でよく喋る気力があるねぇ。普通の人間ならば、その魔法の波動に中てられて、気絶してもおかしくはないのに。さすがは竜の力を持った、竜王ということかな」
褒めるように見えて、嘲笑っているのは確かだろう。エルシュはそれ以上、ダドリウスが近づかないようにとすぐに両手を広げながら、リディスの盾となった。
「ダドリウス殿下。陛下に一体、何をなさったのですか!」
大声を出す事は得意ではないがそれでもエルシュは腹の底から息を吐くように声を出した。
エルシュの言葉のどこがおかしかったのかは分からないが、彼は愉快そうに笑っているだけだ。
「だって、邪魔だったんだもの。僕にその椅子を譲ってしまえばいいのに、その男は図々しくも座ったままで動かないし」
何が悪いと言わんばかりにダドリウスは首を傾げる。
まるで親に叱られたことのない子どもが、悪さをしていることに気付いていない表情のように見えて、エルシュの身体には悪寒が走った。




