氷の表情
「何だ、今の……。魔法か?」
訝しがるようにダドリウスは少しだけ赤くなっている自身の右手を見つめて、そして──不気味な笑みを浮かべた。
その瞬間、エルシュは奇妙な感覚に陥った。
まるで小動物が自分よりも大きな肉食動物に遭遇した際の恐怖がこの場で再現されたように感じられて、身体が震えてしまったのである。
底知れぬ不気味な感情を向けられることに慣れていないエルシュは逃げるべく、隙を見せないようにと後ろへと下がっていく。
「まぁ、待ちなよ。……僕は君に興味があるんだって。……何と言ったって、あの冷徹王を骨抜きにした姫君だからね」
「……」
再びダドリウスが手を伸ばす。思わず、ぎゅっと目を瞑った瞬間、ぐいっとエルシュの腕が誰かに強く引かれて、立っていたはずの身体は少し崩れてしまう。
しかし、身体は床の上に倒れたわけではないようだ。布越しに慣れた温かさを感じたエルシュはゆっくりと目を開いた。
視界に入って来たのは今朝、リディスの着替えを手伝った際に見た服と同じもので、顔を上げれば予想通りの人物がいた。
「……何をしている、ダドリウス」
低く、跳ね返すような声色で牽制するのはリディスだった。
「陛下……」
どうして、ここに──と問いかけるよりも早く、リディスがちらりとエルシュに視線を向けて来る。
エルシュの姿を瞳に映した際は穏やかだったが、ダドリウスへと視線を戻す際は再び鋭いものへと変わっていた。
エルシュの身体はリディスに密着しており、いつの間にか腰辺りに手が添えられていた。
「……なるほどね。エルシュ姫にかけられている魔法は冷徹王のお手製ってことか。……他の男に取られないように施しているなんて、どうやら僕が思っていたよりも人間としての感情を持っていた、ということかな。──リディス国王陛下?」
国王陛下、とわざと呟いた部分はかなり皮肉が込められていたようにも感じて、エルシュはついダドリウスに睨みを返してしまう。
「ここは図書館だ。口煩い奴は出て行ってもらおうか」
エルシュの腰辺りに添えられた手に力が込められたと思えば、ぐいっと更に身体が引き寄せられてしまう。
気付けば司書を探しに行っていたオルアも近くまで戻って来ており、リディスが居る状況に驚いているようだった。
「彼女と少し、話をしたいだけだよ。……そう、例えばあなたのこととかね、陛下」
嫌味ったらしく、そう告げるダドリウスの表情は笑っているものの、不気味さが笑顔の裏から覗いていた。
「……そのような不必要なことのために、彼女を貸すと思うか? ……今後、我が妻に手を出そうとするならば、容赦はしない。長生きしたいならば、心得ておくといい」
「ははっ……」
リディスの忠告を馬鹿にするようにダドリウスは愉快げに笑った。
静かな図書館には彼の声が耳障りに広がっていく。
図書館を利用している者達もエルシュと同じように思っているのだろうが、相手は仮にも王家の血筋なので注意は出来ないでいるようだ。
「はぁ……。面白かった。良いね、凄く良いよ」
ひとしきり笑ってから、ダドリウスは目元に浮かんだ涙を指先で軽く拭い、再び口元に弧を描いた。
「冷徹王も腑抜けになったものだな」
それまで笑っていた顔とは一変し、ダドリウスの表情は氷漬けされたように冷たいものへと変わった。
「女一人でここまで、骨抜きになるとは予想外だった。だが、良い意味での予想外だ」
何かに満足したのか、ダドリウスは鼻で笑いつつ、リディスのすぐ傍を素通りしていく。
「来年の即位を祝う式典には、玉座に座れているといいなぁ、リディス」
「……」
ダドリウスの言葉にリディスは特に返事を返すことなく、黙ったままだった。
やがてダドリウスの足音は遠ざかっていき、図書館から出て行ったのか、扉が閉まる音が響き渡る。
それと同時に、図書館内に居た者達の緊張の糸が解けたのか、それぞれが安堵の溜息を吐いているようだった。
「──皆の者、騒がせてしまったことお詫びする。申し訳なかった」
リディスが図書館の利用者と司書に向けて、丁寧に詫びの言葉を述べると、まさか国王本人から直接謝罪されるとは思っていなかったらしく、全員が首を横に振っていた。
そのまま、作業を続けて欲しいというリディスの言葉に従うように、図書館内には再び静けさが戻って来る。
「……陛下、何故ここへ」
エルシュは出来るだけ、声を抑えながらリディスへと訊ねた。
リディスはそれまでエルシュと密着していたが周りの目を気にしてなのか、すぐに距離を取って、それから深い溜息を吐いた。
「……そなたの侍女からエルシュが執務室に来る前に図書館へ立ち寄るという話を聞いたんだ」
そういえば、フィオンにはそのように言付けておいたことを思い出して、エルシュは軽く頷き返した。
「だが、その後に……。ダドリウスの動向を見張らせている密偵から、彼は今、図書館に居るという情報が入って来たんだ」
「……それで駆け付けて下さったということでしょうか」
「……まぁ、そうなるな」
リディスはどこか気まずそうにそう告げてから、エルシュに背を向ける。その気遣いは嬉しいが、彼も今は式典と夜会の準備に追われていて忙しいはずだ。
「お忙しい時にご迷惑をおかけしてしまい、申し訳ありません」
「いや、それは……」
「ですが……。私は陛下に守って頂けて、嬉しかったです」
リディスに対して申し訳なさはあったが、それ以上に嬉しさと安堵の方が大きかったのは確かだ。
先日、本音を告げた夜と同じような笑みを浮かべることは出来なかったが、エルシュが目元を和らげると感情を受け取ってくれたらしく、少しだけこちらを振り向いたリディスが何か言いたげな表情をしていた。
「……行くぞ」
「はい」
しかし、リディスは何も言わないまま、図書館の出口を目指して歩き始める。
エルシュは傍で見守っていた侍女のオルアに、付いて来るようにと目配せしてから、リディスの後ろを歩き始めた。
……結局、ダドリウス殿下は私に何をしようとしていたのかしら。
まるで誘惑するような言葉と態度だったが、もしあの時、リディスによって魔法をかけられていなかったならば、どうなっていただろうと想像して小さく身震いした。
自分はどこかへと無理矢理に連れて行かれたのだろうか。
いや、そうなる前に反撃することも出来たかもしれないが、自分の心に浮かび上がった恐怖によって、身体が一瞬だけ動けなくなってしまったのだ。
……もっと、気を引き締めておかないと。
恐らく、ダドリウスに冷たく接しても効かないのだろう。むしろ、彼はエルシュの反応を楽しんでいるように見えた。本当に不気味な男である。
……私は絶対に、何があっても陛下の傍から離れたりはしない。
遅れて心に浮かんだのは悔しさと情けなさだった。
いざとなれば氷の剣を作ってでも、牽制しようと思っていたのに、恐怖で動けなくなってしまうなんて心が弱い証拠である。
それでも、リディスの隣に立つと決めた以上は、その恐怖に立ち向かわなくてはならないのだ。
エルシュは周りに気付かれないように拳を握りしめ直し、沈みそうになる心に自ら鞭を打っていた。




