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満ちる心

 

 エルシュはリディスの服を掴んでいた手をそっと彼の両頬へと添えた。それに驚いたのか、リディスは俯いていた顔を少しだけ上へと上げる。


「大丈夫です」


 目を細めながら、たった一つだけ見つけた愛おしいものを見るような瞳で、エルシュは言葉を続ける。


「私は、大丈夫です。怖かったのは……私の存在が、陛下の王位に傷を付けてしまうことなのです」


「エルシュ……」


 だから、とエルシュは言葉を続けて、そして──微笑んだ。初めて、自身の口が弧を描いたと感じ取れるほどに、エルシュはリディスに向けて笑って見せたのだ。

 目の前のリディスはそんなエルシュの笑みを見て、氷像のように固まってしまっている。


「私の存在が……。私が必要とされなくなることだけが怖くて、悲しくて……どうしようもない程に痛かったのです」


 でも、とエルシュは笑みを浮かべたまま、真っすぐとリディスを見つめる。


 初めて自分が笑う姿を見ることが出来たのは、リディスの瞳に映っている自分の姿を確認出来たからだ。自分はこんな風に笑うのかと改めて思い、そして笑みを浮かべ続ける。


「陛下が私を特別に想って下さっているならば、その心は杞憂でした。……それだけで私は十分です。あなた様から頂いた心があれば、私は……真っすぐと立つことが出来ます」


 エルシュは呆然としているリディスの眉間──銀色の仮面が覆っている部分へと背を伸ばすようにしながら軽く口付けた。

 短い口付けを終えてから、エルシュは再びリディスに向けて微笑む。


「陛下、どうか私を連れて行ってくれませんか。あなた様が一人で立とうとしている孤独の椅子に……私を寄り添わせて下さい。……お願い致します」


 夜凪の瞳が揺れ動き、そして仮面の向こう側で表情がくしゃりと崩れた気がした。嬉しさと切望する想いが入り混じったような、そんな表情をエルシュへと向けて来る。


「……いいのか」


「はい。私は……どんないかなる時であってもリディス・ドラグールの妻として、お傍にいることを望みます。どうか、私の我儘と意志をお許し下さい」


 瞬間、エルシュの身体はリディスの胸の中へと引き寄せられていた。腕は背中へと回され、脆いものに触れるようなそんな繊細さが含められた力加減で抱きしめられる。


「それは私の我儘だ。……連れて行く、どこへでも。たとえ、そなたが私の元から逃げたいと望んでも」


 耳元で囁かれたのは誓いとも言うべき、強い意志が込められたものだった。


「エルシュ。……今度こそ、私にそなたを守らせて欲しい。だから、どうか……。どうか、これからも一生、私の傍にいてくれないか。私が最愛として妻に望んだエルシュ・クライアインとして」


「……はい」


 まるで婚約をする恋人達のような誓いの言葉にエルシュは頬を少しだけ染めながら、頷き返す。気付けば、再び自身の瞳からは涙が溢れ出てきてしまっていた。


 エルシュが二度目となる涙を流していることに気付いたのか、リディスはすぐに腕を離してから、どこか慌てた様子で顔を覗き込んでくる。


「エ、エルシュ……?」


「すみません……。その、嬉しくて……」


 嬉し泣きとはまさにこのことだろう。エルシュは涙を流しながら、それでも笑みを浮かべていた。


 エルシュが悲しみによって泣いているわけではないと覚ったのか、リディスもやっと穏やかな表情へと戻って、安堵の息を吐いていた。


「……陛下」


「何だ?」


 エルシュは手の甲で目元を軽く拭ってから、潤んだ瞳でリディスを見上げた。


「今夜は……一緒に寝ても、良いですか?」


「……っ」


 エルシュのお願いのような呟きに、リディスは少しだけ身体を仰け反らせる。


「夏の夜なのに一人で寝ると少し、温もりが足りない気がして……。陛下が隣にいれば、嬉しいのですが」


 リディスは即答するのを何とか押し留めたのか、一度口を閉じてから返事をした。


「……あとでそなたの部屋を守らせている護衛に使いを送るか」


「え?」


「主がいない部屋を守っても、意味はないだろう? ……明日の朝、そなたが目覚めるのが私の隣ならば、侍女達にも伝えておかなければならないな。エルシュは私が預かっている、と」


 それはつまり、今夜はこのままリディスの隣で眠っても良いという意味だろうか。


 リディスは先に立ち上がってからエルシュの手を取り、立ち上がらせた。


 そして先程、エルシュが寝ている時にかけてくれていたリディスの外套をそのまま身体を包み込むように深く羽織らせてくる。

 温かさと一緒にリディスの匂いが鼻先を掠めたため、エルシュはいけないことをしているのではと少しだけ顔を俯かせた。


「行こう、エルシュ」


 それでも、エルシュの背中を支えるように手を添えてくれるリディスは、嬉しさを含めた優しい瞳で見つめて来る。


「……はい」


 自分も気付かないうちに寂しかったのだ。それを表現するように、エルシュは身体をそっとリディスへと寄せた。

 夏の夜は涼しいとばかり思っていたが、やはり温かいものは温かいらしい。


「……そういえば、そなたが作ったと思われる氷の階段を見て、後を追って来たのだが……。あの階段は少し勿体ないが、消しておいてくれるだろうか」


 リディスがどこか申し訳なさそうに囁いてきたため、エルシュは苦笑しながら頷き返す。


 リディスが言うには、エルシュの下の階は彼が一人で寝ていた寝室だったらしく、眠れなかったリディスが何となく目を開けてみれば、窓の向こうの二階の露台から氷の階段が出来上がっていたのだから、それはもう驚いたのだという。


「だが、機会があるならば氷の家も見てみたいな」


「まぁ……。それでは忙しさが落ち着いたら、庭先に作ってみましょうか。まだ、暑い日は続くでしょうから」


「ああ、楽しみにしている」


 上を見上げてみれば、自分に向けて優しく微笑んでくれるリディスがいた。


 その笑みを見ただけでこの数日間によって、ぽっかりと空いていたエルシュの心は穏やかさと嬉しさで少しずつ満ちていくのだった。

 

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