告白
鼻先をふわりと懐かしい匂いが掠めて、そして自分の身体が先程よりも熱を持ったように思えた。
温かさが心地よくて身じろぎする。だが、それが夢の中の温もりではなく現実だと気付いたエルシュはすぐに目を見開いた。
「っ……」
瞼を開き、横になっていた長椅子から勢いよく起き上ってみれば、エルシュの顔を覗き込むように立っているリディスがいたのだ。
彼はエルシュが起き上がるとは思っていなかったらしく、視線が交わった瞬間は驚いた顔をしていたがすぐに踵を返して、エルシュに背を向けた。
その一瞬、彼が泣きそうな程に悲しみを込めた瞳をしていたのは気のせいではないはずだ。
「──お待ち下さいっ」
エルシュは思わず声を張っていた。そして、リディスに向けて一歩を踏み出そうとしていたが、足がもつれて身体は前のめりに倒れていく。
地面に顔が接触すると思い、素早く目を瞑ったが身体に痛みらしい痛みは全く感じられず、むしろ柔らかい何かが自分を包み込んでいるようだった。
まさかと思って目を開いてみれば、エルシュの身体を真正面から受け止めてくれていたのはリディスだった。
数日ぶりとなるリディスの体温が布越しに伝わって来て、エルシュは瞳から何かが溢れてしまいそうになるのを必死に抑え、そして逃がさないと言わんばかりに両手でリディスの服を掴んだ。
「行かないで……下さい」
浅く呼吸をしながらエルシュは顔を上げる。自分の視界を埋め尽くすのはリディスの姿だけで、それ以外は目に入っていなかった。
「……部屋から出たいのは分かるが遅い時間に一人で出歩くものではない。部屋に戻るんだ」
まるで子どもを叱責するような穏やかな言葉が頭上から降って来る。
どうして、リディスがこの場所にいるのか。何故、先程リディスは自分に背を向けようとしていたのか。
そして、目の前の彼はどのような意味を込めて、こんなにも悲しい表情をしているのか。
自分は人の心を読めるわけではない。だからこそ、言葉にしなければ伝えることも知ることも出来ないのだ。
「教えて下さい」
静かに、真っすぐとリディスを見据えながら、エルシュは言葉を続ける。
「私は、邪魔ですか」
その言葉を吐いた瞬間、リディスの瞳が大きく見開かれ、そして波打つように揺らいだ。
「陛下にとって、私は……。あなた様の王位を脅かす、邪魔な存在なのでしょうか」
「──違う!」
エルシュの言葉を否定する、激しい感情が含められたものがリディスの口から発せられたと同時に、細い両肩は彼によって掴まれていた。
「違う……。私はただ、そなたのことを守りたかっただけなんだ。守りたいのに……守り方が分からないんだ」
そこには初めて見せるリディスの表情があった。いつも見せる冷静なものではない、感情を前面に押し出したような表情が目の前に浮かんでいたのだ。
「ダドリウスが私の王位を狙っていることは明らかだ。だからこそ、私が国王として即位する前に横槍が入れられないように留学させて、遠ざけていた。……少しでも、時間を伸ばして逃げるために。私はずっと、逃げていたんだ」
自分自身を責めるような口調でリディスは言葉を呟く。
「自分に刺客を直接、送って来るならばまだ対処は出来る。だが、ダドリウスが君を利用しようと目を向けてしまえば……」
「私が、何も出来ない姫君だとお思いですか? ……これほど、一緒にいるのに」
悔いるようなリディスの声をエルシュはわざと遮って、そして右手を真横に伸ばした。
リディスの瞳は何をするのかと問うて来ていたが、エルシュはそのまま右手に意識を集中させながら、とある物を頭の中で想像し、それを手元で具現化していく。
次第に形成していき、エルシュの手に握られたのは透き通っている氷の剣だった。それを地面の上へと突き刺してしまえば、刃先が地面をえぐるように真っすぐと自力で立っていた。
「私が何故、アルヴォル王国で忌み嫌われていたのか、お分かりですか。……この雪華の力は誰かを幸せにするための力ではないからですよ」
「……」
作り上げた氷の剣にエルシュは人差し指をすっと沿わせていく。
それまで形作っていた透明な剣はまるで存在が消されるように瞬時に粉々に消え去っていき、空中へと溶けながら目には見えないものへと変わっていく。
「自在に作っては消すことが出来る……。便利であるとともに、そこには他人を容易に傷付けることが出来る一面も含まれています。使い方次第で誰かを傷付けることが出来るこの力を持っている限り、私は……自分が誰かの手にかけられることはないと思います。魔法と比べて、雪華の力に必要なのは自意識と想像力だけですから」
そう言って、エルシュは自嘲気味に吐き捨てた。今、自分はどのような表情を浮かべているのだろうか。
いつもならば表情が動かないと分かっているのに、今だけはリディスが望んでいない表情を浮かべてしまっている気がした。
それは目の前で自分を悲壮感溢れる表情で見つめて来るリディスを見れば明らかだった。
「ご安心ください。私、自分の身くらいは自分で守れます。心配なさらなくても私は大丈夫ですから──」
そこでエルシュは言葉が途切れてしまう。
何故か自分の頬に冷たいものが流れていった気がして、瞳を瞬かせると更に溢れ出てくる。これが涙だと自覚してしまえば、保っていたものが全て崩れ去ってしまった。
「だから、傍に……陛下の傍に、居させて下さい。迷惑になんか、なりません。邪魔をしないようにしますから……っ」
掠れそうになる声でエルシュは必死に言葉を紡ぐ。感情を出してしまえば、リディスが困ると分かっている。それでも止まることなく、彼に対する感情が溢れてしまうのだ。
「私……。私、陛下を……お慕いしているんです。好きなんです。一緒に居たいんです。……一緒に生きていきたいって、そう思うのは……私があなた様を──」
だが、エルシュの言葉の続きは紡がれることはなかった。
気付いた時にはリディスによって、身体ごと抱き寄せられており、そして自身の唇にリディスのものが噛み付くように重ねられていたからである。
呼吸をすることも、瞬きをすることも出来なかった。熱が込められた視線は自分だけを捉えており、そして頭と腰に回されている腕は二度と離さないと言うように力が込められていた。
「んっ……」
初めて誰かと口付けというものを交わしたエルシュはそれまで自分が泣いていたことさえも忘れてしまっていた。
熱く、優しく、包み込むように。何度も口付けられるものからは逃れることが出来ず、ただなされるがまま、受け止めるしかなかった。
リディスが唇を離した時、やっと呼吸することが出来たが、そこに交わるようにリディスの吐息が重ねられる。
恐れるように顔を見れば真剣な瞳のまま、頬を少しだけ紅潮させているリディスが切なげな表情で自分を見ていた。
「──好きだ」
熱がこもった吐息の次に吐かれたのは、エルシュが想像していなかった言葉だった。
「私も、そなたが好きなんだ、エルシュ」
「……」
頭に添えられていた手がゆっくりと頬を沿うように滑り、左頬を包んだ。大きな手の温もりは、以前自分が確かに感じていた温かいものと同じだった。
「すまない……。そなたを傷付けていたのは私の方だったのに……。そなた自身を傷付けるような言葉を言わせてしまった」
「陛下……」
「覚悟が……国王として立ち、そなたと共に生きると選んだ覚悟が出来ていなかったのは私の方だったというのに」
吐き出された言葉は自分自身を責めるようなものだった。それは違う、とエルシュは首を横に振る。
「陛下は……私を守るために、傍に寄ることを禁じられたのでしょう……?」
リディスが気に病む必要はないと伝えようとしたが彼は苦い表情へと変わるだけだ。
「口先ではどうとだって言える。……結局は、自分のせいでそなたが傷付くところを見たくなかっただけなんだ」
「……」
叱られた子どものように肩を落としているリディスは視線をエルシュから逸らした。
最初、彼の瞳に自分が映った時から思っていた。リディスならば、自分を──エルシュという人間を真っ直ぐと見てくれるのではないのだろうかと。
揺るぎない意思を含めた瞳が自分を見下ろしている。否と言わせぬ雰囲気も、時折見せる微苦笑も、からかっては戸惑う表情も。
……私は全てが好き。
だからこそ、強く惹かれたのだ。頼り甲斐があって、威厳を持っている王としてではない。
自分が心を寄せたいと思ったのは目の前で打ちひしがれたように弱っている、他の誰でもないリディスだけなのだから。




