月を羨む
その日の夜中、中々寝付けずにいたエルシュは瞳を開いて、ベッドからゆっくりと起き上る。
……寝苦しくはないはずなのに、どうして眠れないのかしら。
思えばリディスと分かれて寝るようになってから、十分な睡眠時間は取ってはいるものの、熟睡出来ずに夜中、起きてしまうことがよくあった。
「……はぁ」
重たい心は浮き上がらないままだ。
エルシュは薄い革で作られた部屋用の履物を履いてから、露台に向けて歩き出す。
部屋の外には護衛の者達が寝ずの番をしているらしいので、エルシュは出来るだけ物音を立てないようにしながら、露台へと続くガラス張りの扉を開けて外へと出た。
命を狙われているかもしれないとは言われているものの、ここ数日は部屋の外を出歩くことさえ許されなかったため、少しだけ外の空気を吸いたくなったのだ。
肺に入っている酸素を新鮮なものと取り換えれば気分が落ち着くだろうかと思い、エルシュは露台の欄干に手を置きながら溜息を吐く。
「……」
今は夏の夜であるため、夜風が涼しく感じられた。空に浮かんでいる月は半月で、それ以外の光は周囲からは見えない。城で働いている者達も休んでいる時間であるため、当り前だろう。
自分が今、使っている部屋は二階であるため、露台から庭へと続く階段は備わってはいない。久しぶりに庭の芝生を踏みしめたいと思っていたが、そう上手くはいかないらしい。
……雪華の力を使ってみようかしら。
以前は王城に勤める者達が涼しい気分で仕事が出来るようにと雪華の力を使って、室内を冷やしていたが、ここ最近は自室から出る機会の方が少ないため、力を使う機会がなかったことを思い出す。
あまり大きなものは作ったことはないが、二階から一階へと下りるための階段くらいは作れるだろうか。
気分転換に試してみるのもいいかもしれないと思い、エルシュは欄干に添えた手に意識を集中させる。
想像するのは一段、一段が凹凸なく斜面を描く光景だ。横幅と縦幅も広すぎず、狭すぎない階段を想像しながら、空気中の水分が凝結しては形作っていくようにと右手に力を込めた。
瞬間、ぶわりと自分の髪を揺らした冷気によって、エルシュは瞳をゆっくりと開けた。
「……出来た」
露台の欄干から、庭へと伸びるように下っていくのは月の光によって、透明に輝いて見える氷の階段だった。
まさか一度で成功するとは思っていなかったエルシュは自身の力が具現化した光景に数度、目を瞬かせた。
指先で形成された氷の建造物を軽く叩いてみる。音は決して軽いものではないため、空気が氷に含まれているわけではなさそうだ。これならば強度もそれなりのものとなっているだろう。
エルシュは周囲をさっと見渡してみる。二階の露台から見える景色は庭だけで、両隣の部屋の露台には誰もいないようだ。
「……」
姫君でもあり、今は王妃の立場だと分かっている。
それでも物は試しにと露台に足をかけた。
氷の階段へと一歩ずつ踏み出しては足が滑らないようにと気を付けながら、氷の階段をゆっくりと下りていく。
……意外と強固なものも作れるのね。これなら、氷のお城も作れそうかも。
そんなのん気なことを考えながら、エルシュは氷の階段を全て降り切ってから、芝生の上に足を付けた。
「……ふぅ」
靴の裏側から感じられる芝生の柔らかな感触が懐かしくて、エルシュは安堵の溜息を吐く。
先日、庭に訪れた際と何も変わりがない光景がその場には広がっており、それが嬉しくもあり、寂しくもあった。
……今、この場には陛下はいないもの。
再び気落ちしそうになる心を胸の奥へと押し留めてから、エルシュは顔を上げる。
せっかく庭まで来たのだから、気分転換に少し散歩をしてから部屋へと戻ろう。
いざとなれば、雪華の力を使って身を守ればいい。この力は決して、美しいだけのものではないのだから。
気を張りつつも、手入れが行き渡っている庭に咲いている花からは、つい口元を緩めてしまうほどに優しい匂いがして、エルシュは息を吐いた。
元々、夜目が利くが月明りで辺りはよく見える光景となっており、どのような花が咲いているのか、どのような色をしているのかまで、はっきりと眺めることが出来た。
少し歩けば庭を眺めるために設置されている白い長椅子が目に入って来る。エルシュは迷うことなく、その椅子へと腰掛けてから、背中をゆっくりと背もたれに預けた。
見上げれば、眩しく輝く月が自分を照らしているようだ。
「……月はいいわね。どこからでも、人を照らせるもの」
独り言を呟いては何度目になるか分からない溜息を吐く。自分も一度は月になってみたいものだ。そうすれば、リディスを遠くから眺めることが出来るというのに。
会いたいと思うことは贅沢なことだったのかもしれない。そして、リディスのことをもっと知りたいと思える感情も、心に秘めた想いを伝えたいと願うことさえも傲慢なのだろう。
エルシュは目を閉じてから、息を吐く。
……陛下。私は分かりません。あなた様にとって……私はどのような存在なのでしょうか。
邪魔だ、お荷物だと言われてしまったら、きっともう自分は立てなくなってしまうだろう。何故なら、いつの間にか自分を支える中心はリディスになっていたのだから。
彼の笑顔が好きだ。
言葉も温度も、視線も──何もかもが好きだ。
初めて視線を交えた時、囚われたのは瞳だと思った。
だが、違ったのだ。
きっと、最初から自分の心はリディスの全てによって囚われていたのだろう。
今なら、それがはっきりと分かる。
だって、自分は──リディスが好きなのだ。
一緒に生きたいと思ったのは、一緒に生きて欲しいと願ったからだ。
リディスが好きだから。だから、生きて欲しい。自ら、命を終えるようなことはしないで欲しい。
ずっと、隣に立っていたい。自分の方を見て、微笑んで欲しい。
……ああ、私はなんて強欲なの。
自分の中に埋まっていた感情を理解した瞬間、その愚かさを憎んでしまいそうだった。
リディスのためにと心に抱いていても、結局、自分の内側に潜んでいたものは自己満足をするための願望しか持っていないのだ。
エルシュは冷たい長椅子の上へと身体を倒す。いつもならば、冷たさを苦とは感じない身体をしているはずなのに、今日だけはどうしようもない程に肌寒かった。




