夜凪の心
部屋の外へと行き来することを制限されて、数日が経った。正確な日数を数えることを止めたのはいつからだろうか。
出られない部屋の中で、王妃としての教育は受けてはいるものの、それ以上の人との関わりを持つことは許されずにいた。
「……と言うわけですので。……エルシュ様?」
「えっ……」
すぐ傍から声が降って来たため、エルシュは思わず驚きの声を上げる。
今は今度の式典と夜会で着るドレスの試着をしつつ、宝飾品を選んでいた最中だったが、どうやら自分は上の空だったらしい。
「大丈夫ですか? 少しお疲れのようですが……」
そう言って気遣ってくれるのは、先日から王妃付きの侍女となったオルアだ。
「あ……。ごめんなさい、少しだけ考えごとをしていたの」
「ドラグニオン王国に来られて、初めての大きな式事ですもの。不安になられるのも仕方ないですわ」
オルアは明るい声で励ましてくれる。彼女はエルシュよりも二、三歳程年上の女性で、ジークの遠縁の娘であるため、身元もはっきりとしているらしい。
「私は……声を張るのがあまり得意ではないから、しっかりと挨拶出来るように練習しておかないと」
縦に長い鏡を見ながら真面目な顔でエルシュが力強く頷くと、ドレスを着付けてくれていたオルアが柔らかい表情で笑みを返してきた。
「きっと、大丈夫ですわ。エルシュ様、いつも堂々と振舞っておいでですもの」
「それは……多分、感情が表に出ていないから、しっかりしているように見えているだけだわ」
「まぁ……」
ふふっと年頃の娘達が会話するように、その場には明るさが満ちていく。
気分は気鬱になっているがそれが表に出ないのは本当にありがたかった。でなければ、せっかく自分のために世話をしてくれている者達に申し訳ないからだ。
しっかりしなければと心の中で深い溜息を吐いていると、部屋の扉を叩く音が聞こえたため、扉の近くに控えていたもう一人の侍女、アンジュへと視線を向けて、誰が訪ねてきたのかを確認させた。
今、自分の部屋にはジークによって魔法がかけられており、エルシュに悪意を持った者が部屋に入れないようになっているのだという。
しかし、表向きにはエルシュの具合があまり良くないため養生中となっており、宛がわれているこの部屋に訪れる者はかなり制限される状況となっていた。
……私は守られてばかりだわ。
自分の立場がどのようなものなのかは分かっている。それでも歯がゆくて仕方がなかった。
「エルシュ様、フィオンが戻って参りました。それと文官の方も一緒です。今度の式典と夜会に参加する方々の名簿をお渡ししたいそうです」
アンジュが遠慮がちに声をかけてきたため、エルシュは鏡の前に立ったまま、すぐに返事を返した。
「分かったわ。入ってもらって」
開けた扉から入ってきたのは緊張気味な表情を浮かべているフィオンと女性の文官だった。
フィオンはリディスが服毒した件の容疑者として密かに疑われてはいるものの、その身をエルシュが預かっているため、厳罰らしい厳罰は受けずに済んでいた。
監視は付いている上に疑いは晴れてはいないが、エルシュがフィオンを傍に置いたままにしておくことを望んだからこその現状維持だった。
そのため、その事項を聞かされた際にはフィオンが一番驚いているようだった。
フィオンはエルシュに一度、頭を下げてから両手に抱えていた分厚い本を差し出してきた。
「エルシュ様。こちら、ご希望の本です」
「ありがとう、フィオン。わざわざ図書館に借りに行ってもらって、悪いわね」
「いえ、また読みたい本があれば遠慮なくお申し付け下さい。それでは、私はお茶の準備をしてまいりますので」
「ええ」
エルシュの返事に対して、フィオンは再び頭を一度下げて、部屋から出て行った。
その後に続くように待機していた女性の文官が一歩前へと踏み出た。
「ご気分が優れない中、失礼致します。体調の方はいかがでしょうか?」
「心配して頂き、ありがとうございます。今は随分と体調は良くなりました」
女性の文官はエルシュの具合が悪いという噂を信じ切っているらしく、どこか申し訳なさそうに茶封筒を差し出してきた。
「エルシュ様。こちら、式典と夜会に参加する者についてまとめられた書類です。名前、国籍、身分などが記載されています」
「まぁ……。名簿を作るのは大変だったでしょう? 大事に目を通させて頂きますね」
茶封筒をオルアに受け取って貰ってから、エルシュは文官の女性に向けて、労うような穏やかな視線を向ける。
すると直接お互いの視線が交わるとは思っていなかったのか、文官は少しだけ目をみはり、すぐに姿勢を正した。
「いえっ! ……あの、他に私どもが役に立てることがあれば、遠慮なさらずに仰って下さい。誠心誠意を込めて、お手伝い致します」
「お心遣い、ありがとうございます。……式典の日までお互いに忙しいでしょうが、どうか体調を崩されないようにお気をつけ下さいね」
表情には色が宿らないが、それでも口調を出来るだけ柔らかくしながら言葉を返した。
すると、文官の女性は少しだけ頬を赤く染めてから頭を深く下げて、失礼しますと告げて部屋から出て行った。
「……まぁ、エルシュ様は人の感情を動かすことが得意なのですね」
茶封筒を受け取ったオルアが小さく首を傾げながら、苦笑していた。
「え?」
「私、先程の文官と知り合いなのですが、周囲から生真面目で堅物だって言われている彼女が頬を染めるところなんて初めて見ましたわ」
「あら、そうなの?」
「ええ。きっと、エルシュ様に労って頂けたのが嬉しかったのでしょうね」
「それは……文官の方は私以上にお仕事があって忙しいでしょうから……。先程の方もお化粧で目立たないようにはしていたけれど、少しだけ表情が疲れているように見えたの」
きっと様々な職に属している者達は自分が知らないところで、懸命に働いているのだろう。それを尊敬しないわけがない。だからこそ、労う言葉をかけるべきだと思ったのだ。
「ふふ……。私はエルシュ様のそういうところ、好きですわ」
「えっ? ど、どういうところかしら?」
自分は一体、他の者達からどのような目で見られているのかと急に不安になってきてしまう。
もし自分がリディスの妻として、そして王妃として、王城で働く者達に認められていないならば、どうすればいいだろうか。
感情には出さないまま考え込むエルシュに対して、オルアは笑顔のまま小さく首を横に振る。
「これ以上、私の口からお伝えするのはどうかご容赦下さいませ。……ですが、私どもが一つ言えるとすれば……エルシュ様のお世話が出来ることが大変光栄だと思えるということでしょうか」
「……」
エルシュがオルアの言葉に瞳をぱちぱちと瞬かせていると、オルアはふっと女性らしい笑みを浮かべた。
「おこがましいと思われるかもしれませんが……どうか、ご自分に自信を持って下さいませ。私どもは式典の際に凛と立っていらっしゃるエルシュ様を見ることを楽しみにしておりますので」
視線の端にはオルアの言葉に同意するように頷いているアンジュもいた。
……私は、ちゃんと周囲から認められるだろうか。認めて、もらえているのだろうか。
だが、侍女二人の穏やか笑みを見たことで、エルシュの心は先程よりも少しだけ軽くなっている気がした。
「……ありがとう。私、頑張るわ」
か細くもはっきりした声で言葉を返すと侍女二人は目元を和らげながら、優しげな笑みを浮かべる。
まだ、嫁いで来たばかりの自分を王妃として認めてくれる人は少ないだろう。それでも、自分を認めてくれている者達のために胸を張っていたいと思った。
……けれど、私はまだ、陛下に伝えたいことを伝えられていない。
リディスのことを考えた瞬間、胸元辺りがざわついたのは何故だろうか。彼が自分のことをどう思っているのか、分からないのだ。
妻として認めてもらえているのか、それとも──。
それだけがエルシュの心を夜凪のように静めていた。




