踏み出す心
「──次の者」
リディスが低い声で言葉を発すれば、書類を携えた文官が失礼しますと言い置いてから書類を手渡し、そしてその場から逃げるように立ち去っていく。まるで何かに怯えるように。
エルシュとの接触を自らに禁じて、すでに五日が経っていた。
自分では己の心を律していると思っていたが、執務室に書類を届けに来る文官達が自分を見ては用が終わり次第、早々と退出するのでどのような顔をしているのかくらいは分かっているつもりだ。
「……今日も不機嫌そうだねぇ」
「うるさい。いいから、用事が済んだら自分の仕事場に戻れ。式典まで時間がないんだぞ」
「そうは言っても、宰相は国王の補佐みたいな役割だからね。それに君の機嫌が悪いと他の文官達も仕事がやり辛くて仕方がないらしいよ」
まぁ、どうして不機嫌なのか分かっているけれど、と最後に言葉を添えてからジークは声を落とした。
盗聴防止の結界が張ってある執務室には自分とジーク以外の人間はいない。その機会を見計らっていたように、真面目な面持ちで報告を始める。
「……今のところ、エルシュ姫の周囲にダドリウスの気配はないようだ。もしくはこちらに知られないように相当、優秀な密偵を忍ばせている可能性もあるけれど。……それに君に毒を飲ませた実行犯もまだ見つかっていないままだ」
「恐らく、脅しだったんだろうな。……エルシュを人質に取るという先触れのつもりだったのだろう」
「あれから毒見をしているけれど、食事には盛られていないようだからねぇ。エルシュ姫も用がある時以外は部屋から出ないようにしてくれているし、今のところは安全と言えば安全だろうね」
「……」
何が安全なものかとは言えなかった。もちろん、エルシュと距離を置くことを決めたのは自分だ。
一緒に居ればいるほど、自分にとってエルシュがどのような存在なのか、ダドリウスに認識されやすくなると危惧しているからである。
だからこそ、彼女を必要以上に人と関わらせないようにすることにしたのだ。
彼女の身を守っているのは自分が信頼している者達ばかりなので、ダドリウス派から手が届かないようにと細心の注意を払っている。
……それでも、エルシュの意思に関係なく、彼女を閉じ込めてしまっているようだ。
エルシュは表情が乏しいが人の話を聞いたり、接することは好きなようで彼女の周りにはいつも誰かがいた。本人は人と接するのが得意ではないと言っているが、決してそのようなことはないだろう。
この国へ来た当初は常に無表情であることから、他の者達と接する際には苦労していたようだが、地位に驕らず、分け隔てなく全ての者と接しているうちに、その人柄が慕われるようになったらしい。
もちろん、自分がその現場を見たわけではなく、ジークが王城内に忍び込ませている密偵が報告してきたものである。
もし、エルシュが自分以外の男と楽しげに話している姿を見てしまえば、威圧して追い払ってしまいかねないため、誰かとの交流を楽しんでいる彼女の邪魔をするわけにはいかないと自制していた。
故郷であるアルヴォル王国ではあまり、良い扱いを受けて来なかったようだが、それでも彼女は氷のように冷たい性格をしているわけではなかった。
むしろ、自身が溶けそうな程に誰かのために動く人間なのだと思い知らされたのは、初めて夜を共にした際に感じ取れていた。
エルシュは今まで必要とされて来なかったからこそ、誰かのために自分の身を使いたいと思っているようで、言い方を変えれば自己犠牲による精神が強いのだろう。
毒を盛られた件についても、責任を感じているかもしれないということは、エルシュの様子をよく見に行っているジークによって聞かされている。
「……向こうが決定打となる行動を起こしてくれれば、それを謀反として扱えるんだがな」
確かな証拠もなく、命を狙った者としてダドリウスを牢に入れてしまえば、彼を持ち上げている派閥から不満や反発が起きて、自分の立場の方が危うくなるのは理解している。
そのため、こちらからは行動を起こすことが出来ず、時を待つしかない状態が続いているのである。
「でも、それだとこちらの命も危うくなりかねないからね。……何と言うか、果てしない持久戦が続くなぁ。いつになったら、終わるんだろう……」
呆れているのか、諦めているのか、もしくは両方を含んだような溜息をジークはわざとらしく吐いた。
百年以上生きている故に、様々な人間を見て来たジークにとっても、人間関係は煩わしいものらしい。
「……まぁ、毒を盛った奴を捕まえて、誰の差し金なのかを吐かせることが出来れば、良い切り札にはなると思うんだが。──ジーク。お前、物探しの魔法で何とか探せないか?」
「ええー? 犯人捜しの魔法なんて、僕は持っていないよ……」
「頼りにならない魔法使い宰相だな……」
「むっ! そりゃあ、僕だってそんな魔法があれば遠慮なく使いまくるよ! でも、本当に持っていないんだから仕方がないだろう」
仕事の合間にジークが新しい魔法を生みだす研究をしていることは知っているし、竜にかけられた呪いに関して調べていることも分かっている。
それは決して、一朝一夕で成り立つものではない。
「でもまぁ、野放しにしておけば、そのうち尻尾を出すからね」
「……エルシュを巻き込むなよ」
「僕だってそうしたいさ。でも、彼女は意外と強情なところもあってねぇ。何と言うか情に厚い部分もあるから、例の件は彼女に任せることにしたんだよ。……彼女ならば、人の心を動かせそうな気がするだろう?」
恐らく、侍女のフィオンのことを言っているのだろう。ジークは彼女が毒を仕込んだ犯人だと思っているようだが、その尻尾はいまだ掴めずにいる。
しかもエルシュ本人が、犯人が確定していないならば、とフィオンをそのまま侍女として傍に置くことを決めたらしい。エルシュが決めたこととは言え、やはり心配なものは心配である。
「……」
何となく、ジークの言いたいことが分かっているリディスは深く息を吐いてから、小さく睨む。
「わっ、そんなに睨まないでおくれよ。……心配しなくても大丈夫さ。エルシュ姫が今、使用している部屋には防御結界が張ってあるからね。エルシュ姫に悪意がある者が扉に触れれば、その証拠として触った部分が赤くなるし、彼女を害そうと一歩でも中に入れば身体が痺れる魔法がかけてあるからねぇ」
そう告げた時のジークの表情はいつも以上に黒いものだった。童顔であるため悪人面が似合わない彼だが、その黒い笑みを見てしまえば背中に冷たいものが流れていった気がした。
「かなり強力な結界を張ってきたからね。そう簡単に奴らには触れさせたりはしないさ」
自慢するようにジークは語っていたが、一瞬にしてその明るさは消えて、夜の森に似た色の瞳が自分を責めるように見つめて来る。
「でもね、エルシュ姫を守るためには物理だけでは駄目なんだよ、リド。……君が本当にエルシュ姫を守りたいと思っているならば、それは決して目に見えた盾だけでは足りないんだ」
「……」
まるで子どもを穏やかに叱る様な物言いだった。ジークに心を読まれているのではとさえ思えて、リディスはふいっと顔を背けた。
「……分かっている」
「いや、分かっていないね。……いいかい? 人の心と言うものは果てしなく脆いものだ。表面上では美しく飾っていても、一度ひびが入ってしまえば、それは元に戻すことが出来ない氷の彫刻のような脆さだ。……その脆さをエルシュ姫が抱いているんだぞ」
「……」
「エルシュ姫を自分から遠ざけて、強固に囲えばいいと思っているだけならば、それは大間違いだ」
「──分かっている!」
思わず握りしめた拳で机を強く叩いていた。机の上にまとめていた書類が振動によって、数枚ほど床の上へと落ちていく。
「私の言葉が、行動が、想いが──。彼女に……エルシュに不安を与えていることくらいは分かっている。……分かって、いるんだ」
悔いるように呟く言葉は言い訳のようになってしまう。
「だが、守るためにはどうすればいい。守るためには……傷付けないようにするためには、私の傍に居ない方がいいのではという考えが巡って、仕方がないんだ……!」
「……」
視界の端に立っているジークが動き、床の上に落ちている書類を無言で拾い上げて、まとめてから元の位置へと戻した。
「……君は強くなったよ、リド」
ぼそりと呟かれる言葉は子どもを慰めるもののように穏やかだった。
「いつか竜になることを恐れて、生きることを怖がっていた頃の君とは違う。……君は確かに強くなっている。そして、それと同時に誰かを特別に想う心だって、しっかりと持っている」
気付けば、すぐ隣にジークが居た。顔をゆっくりと上げて見れば、膝を抱えて泣きじゃくっていた頃の自分に向けていた、優しくも懐かしい顔がそこにはあった。
「大丈夫。……だから、君の覚悟をエルシュ姫に伝えるんだ。君が彼女に抱く、本当の心を」
「……」
そう言って、穏やかに微笑むジークはどこか自分のもう一人の父親のような笑みを浮かべていた。
「何と言ったって、君は僕が認めた──竜王だ。強さだけではなく、慈愛を持った……そんな、優しい王だ」
「……随分と買い被ってくれるんだな」
「そりゃあ、君が生まれた時から傍にいるからね。成長というものをこの目でしっかりと見させてもらったよ。あ、もちろん、今だって成長過程の途中だと思っているよ?」
「いつまで子ども扱いする気だ……」
恨むような瞳でジークを見ると、彼はわざとらしく肩を竦めてから舌を出す。
「僕にとって君はずっと、子どものままさ。……そうだなぁ、君とエルシュ姫との間に子どもや孫が出来て、それから歳を取って、君の満たされたような表情を見るまではずっと子どものままだよ」
「……何とも気が長い話だな」
「それが生きるということさ。でも、きっと君にとってはあっという間だろうね。だからこそ、人は長生きしたいと思うのかもしれないけれど」
ジークは最初から、そんな穏やかな人生が過ごせると確信しているような表情で笑っていた。
……エルシュとともに生きたいと望んだ以上、立ち止まって怖気づくわけにはいかない。
心に新しく生まれた決意こそが、この先を決める一歩なのだろう。だからこそ、自分は前へと踏み出さなければならない。
「……そうだな」
ジークへと言葉を返しつつも、リディスは強く握りしめていた拳をゆっくりと解いていく。そして、心の中ではエルシュへの想いを改めて認識し直すのだった。




