虚勢の決意
「さて、詳しい話をしようか」
それまではフィオンが傍に居たため、宰相らしい顔付きを装っていたらしく、ふっとした瞬間に先程よりも気が少しだけ抜けたような表情へとジークは打って変わっていた。
そして、ベッドの上に座ったままのエルシュの元へと歩いて来る。
「フィオンの件については了承しよう。こちらも出来るだけ……先手を取りたいからね」
意味ありげな言葉を呟くジークにエルシュは小さく首を傾げる。しかし、彼は何事もなかったように首を横に振ってから、ベッドのすぐ傍にあった椅子へと腰掛けた。
「とりあえず、リドは無事だ。毒として仕込まれたものは死に至るものではなく、痺れ薬のようなものだったらしい。……恐らく、牽制だろうね」
「……毒を仕込んだ犯人は置いておいて、その後ろにいる者には心当たりがあるのですね」
「まぁね。……何せ、彼が生まれてから十数年も対立している相手だからなぁ」
「……ダドリウス殿下ですか」
エルシュが静かに問いかけるとジークは、やっぱり知っていたかという表情を返してきた。
「本当に面倒な問題なんだ。ダドリウスの後ろ盾はかなり強固でね。……表立ってはいないが、貴族の四分の一が彼を推している」
「どうして、それ程までの方が……」
「ダドリウスの生母が剣の国と呼ばれている大国、スワード帝国の現皇帝の妹だということは知っているよね?」
真面目に授業を受ける生徒のようにエルシュは頷いた。先日の授業で教わった内容である。
血筋や人間関係も把握しておかなければならないため、ジークから教えられたものは全て頭に入れてあるが、まさか教わった名前を再び聞くとは思っていなかった。
「ですが、その方は確か数年前にお亡くなりになられたのでは……」
「うん、そうなんだ。でも、後ろ盾はその母君だけだったわけではない。嫁いでくる際に付いてきた臣下や、周囲を取り巻く貴族達なんかがダドリウスを王位に就かせようと躍起になっているんだ。……本当はもっと早くに教えるべきだったんだけれど式典と夜会の準備で忙しくて、伝えるのが遅くなってすまないね」
「いえ……。私もダドリウス殿下から直接、関わってくるとは思っていなかったので……」
図書館でダドリウスに会ったことはすでにジークには伝わっている話らしく、彼はどこか申し訳なさそうに頬を右手で掻いていた。
「若ければ若い程、その後ろ盾となった者が権威を握りやすいからね。そして、ダドリウスは図に乗りやすいし、扱いやすい人間だ。──堅物で実直なリドとは違ってね」
それは皮肉でも何でもなく、リディスに対する誉め言葉だということはすぐに読み取れた。
「ダドリウスの母君が生きていたならば、スワード帝国がこの国を手中に収めるために両方の血筋を受け継いでいる彼を王位に据えるべく、背後から持ち上げているんじゃないかって疑うことが出来たかもしれないけれどね。今は両国の間には友好関係と不可侵条約が結ばれているし……。下手に我が国を突けば、国際問題として他国からスワード帝国は集中砲火を受けるだろうよ。……おっと、つい授業みたいになってしまったね。話を戻そうか」
通常の会話の時でさえ、ジークは様々な話を混ぜてくるが、エルシュは学ぶべきこととして頭に入れるようにしていた。
「ダドリウスの家と関わりを持っている家々を一掃出来ればいいんだけれどねぇ。……裏切らず、謀反を企てず、誠実に仕えてくれる者だけでは国は回らないんだよ」
人間関係というものは自分が想像していたよりもかなり複雑らしい。
……人の心や思惑は人それぞれだもの。違いがあって、当たり前だわ。
だからこそ、相違の中で諍いが起きてしまうのだろう。
「……ダドリウス殿下は王位を望まれているのですか?」
「生まれた時から、王位継承権を持っているからね。彼は周りの人間から、毎日のように『殿下はいつか国王になられるのですよ』なんて吹き込まれて、今まで育って来たらしいから」
苦いものを食べたような顔でジークは笑っているが、心の中では辟易としているのだろう。
「王というものは面倒なものだ。臣下の中で殊更、特別に接する者を作れば他の者から反感が上がるし。真面目にやっていても融通が利かない、臣下の話に耳を傾けないなどと悪意ある言葉をささやかれてしまうし。……ただでさえ、呪いのことで苦しんでいるというのにリドが可哀想だ」
「……」
ジークの言葉にエルシュの胸は潰れそうな程に痛みが走っていく。凛としているように見えるがそれでもリディスは心の奥に冷たく重いものを隠しながら、導く者として人の上に立っているのだろう。
「リドは王位をダドリウスに譲る気はない。だが……向こうも王位を諦めてはいない。すぐにでもリドが退位することを願っている。そんな時に君の存在を知れば、どう思われるか分かるかな」
「……私がダドリウス殿下側にとって、人質になりやすいということですか」
「その通り。もちろん、そんなことを相手にさせる気は更々ないんだけれど、もしもの場合があるからね。だから、護衛を増やすんだよ」
「……」
自分は知らぬ間にリディスにとって弱点となっていたらしい。それを覚ってしまえば、自分の存在をこれ程までに恨んだことはなかった。
「君のせいではないから、そんなに思い詰めないでくれ。ダドリウス側が考え付きそうなことだ。……エルシュ姫がリドのお気に入りだと知られている以上、向こうは何かしらの手を使って害してくるだろう」
唸るようにジークは呟くが、エルシュの頭の中では自分はどうするべきだろうかという考えが駆け巡っていた。
脳裏に浮かぶ優しい笑みを自分は失いたくはない。肩に力が込められている事に気付いたのか、ジークが心配するような表情で顔色を窺って来ていた。
「大丈夫かい?」
「……はい」
平静を努めるためにエルシュは真っすぐとジークを見据えながら、首を縦に振る。短い溜息を吐いてから、ジークは言葉を続けた。
「本当は言いたくはないんだけれど、リドからの伝言だから言わせてもらうよ。……今日から、式典までの間、お互いの接触を禁じさせてもらう──だって」
「え……」
「君には僕が魔法で結界を張った、この部屋で普段は過ごしてもらうことになる。食事もこの部屋へと運ばせてもらうよ。これまでと同じように王妃教育は続行されるけれど、どんな時も侍女と護衛が傍から離れないと認識しておいて欲しい。それと面会人の相手は式典まで当分の間は突き返すから」
告げられたのは決定事項だった。自分はこの部屋から用がある時以外は出てはいけないという言葉に、思わず唾を飲み込んでしまう。
「寝室も今日からは別だ。この部屋が君の寝室となり、私室となる。リディスの執務室にも近づいてはいけないよ。もちろん、厨房や図書館にも行っては駄目だ。もし、読みたい本があれば僕に伝えるか、侍女に持ってこさせるといい」
「……」
知らない間に、次々と自分を守るための事柄が決まっていく。まるで自分はお荷物だと言うように。
……駄目よ。私は陛下の王妃として嫁いで来たんだもの。こういう時こそ、毅然としていなければ。
きつく唇を結んでから、エルシュは了承の意を示すようにジークに向けて頷き返した。
「分かりました」
掠れることなく返事が出来たのは奇跡だろう。力を入れていなければ、身体は震えてしまいそうだった。
気丈にしていることを読み取ったのか、ジークの眉は少しだけ下がり、申し訳なさそうな顔へと変わった。
「こちらの事情に君を巻き込んでしまってすまないね。でも、君のためなんだ。……リドも口には出さなかったけれど、本当は君を……」
そこまで呟いてから、ジークは口籠った。
「いや、これは僕の口から言える言葉ではないからね。リドが言わなければ意味がないし」
一人で納得するように頷いてからジークは立ち上がる。
「とにかく、リドに毒が盛られたという話は誰にもしないようにね。……僕としてはフィオンをエルシュ姫の傍に置いてはおきたくないんだけれど、君にも考えや覚悟があるだろうからね。傍に置く侍女を変えたい時は言ってくれ」
「はい。お心遣い、ありがとうございます」
ジークも毒を仕込んだ疑いのあるフィオンを自分の傍に置いておくことを危惧しているのだろう。
確かにその考えはもっともだと思うが、フィオンを信じたいと思う自分がそこに存在しているのもまた事実である。
もし、フィオンが犯人だったとすれば、王妃としてその責任を負わなければならないことは分かっている。
自分は王妃で、そしてリディスの傍に立つ者として自覚しなければならないのだ。それまでは何となく日々を過ごしていたが、今までの自分は己に対してかなり甘かったのだろう。
自分自身が愚かに思えて、エルシュは服の袖の中で拳を握りしめていた。
「……それじゃあ、そろそろ夕食の時間だから、毒見を済ませた食事をこの部屋へと運ばせることにするよ。防御結界で君に悪意ある者が入れないようになっているけれど、誰かが訪ねてきたら、侍女を介して開けるようにしてくれ」
「はい」
では、また来るからと言ってジークは部屋から出て行った。途端に胸の奥に詰まっていた何かが込み上げて来てしまう。
「っ……」
リディスにとって、自分はどのような存在なのだろうか。彼の弱点となり、お荷物となり、そして──。それ以上を考えることは出来なかった。
視界が滲み、何も映せなくなったからではない。
考えることを放棄したわけでもない。
至った考えは自分が望んでいるものであるはずなのに、悔しさと申し訳なさから涙が次々と零れてしまうのだ。
……陛下が私と生きたいと言って下さったというのに、私の存在が陛下の生きる道の妨げになっているなんて。
守られるために自分はこの場所へ来たのではない。妨げとなるためにリディスと共に生きたいと望んだわけではない。
圧し掛かるのは今まで想像もしたことがないほどに窮屈で、苦しくて、そして愛おしいものだった。
……耐えなければ。私を利用しようと狙っている者がいても、太刀打ち出来るように私は「王妃」を演じなければならない。
泣いた痕が他の者に知られないようにと、エルシュは服の袖口で軽く目元を拭っていく。
また、ダドリウス側が何かを仕掛けてくる可能性もあるため、気を引き締めなければならないだろう。
今日からどれ程の間、消え去らぬ緊張が続くのかは分からないが、自分は自分なりに戦わなければならないのだ。
ベッドに座り込んでいたエルシュはやがて何かを決意したように真っすぐと立ち上がる。
沈んだ心が湧き上がってくることは無いがそれでも胸を張って、立ち続けなければならなかった。




