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毒の行方

 

 それは冷たい湖の底へと沈んでいくような感覚だった。


 自分はきっと、一生この冷たさの中で生きていくことになるのだろうと思い、何気なく頭上を見上げてみる。

 水面の向こう側から見えたのは、細くも眩しい光だった。





「っ──!」


 瞬間、エルシュの意識は冴え渡っていき、現実へと戻って来たことを確認するように跳び起きた。


 自分の身体が下に敷いているのは見慣れないベッドだった。それだけではない。視線を見渡していけば、見覚えのない部屋で自分は眠っていたことに気付く。


「エルシュ様っ!?」


 どこか焦るような声が聞こえて、エルシュが左側へと視線を向けると、そこには血相を変えたフィオンの姿があった。

 彼女は自分を見るなり、すぐにその場に跪き、額を床へとつけながら、震える声で言葉を呟く。


「も……申し訳ございません……! 私が……私が、しっかりと毒見をしていれば……!」


 小さな身体は震えており、まるで何かに怯えているようにも見えた。


 毒見をしないまま、リディスと自分へお茶を出したことを己の責任だと思っているのだろう。必死に謝るフィオンの姿を目に映したエルシュはふっと息を漏らした。


「フィオン……。頭を上げて」


 出来るだけ怖がらせないようにと穏やかな声で諭すように呟く。


「フィオンだけのせいではないわ。……私だって、不注意だったもの」


 リディスに毒を飲ませてしまったのは自分だ。せめて、自分が先に紅茶を口に含むことが出来れば良かったのに、とエルシュは唇を噛んでいた。


「フィオン、陛下の容体は?」


「へ……陛下は、念のために専属医の方に診てもらっておいでのようです。聞いたところによると、命に別状はないかと。……ですが、混乱を避けるために、この件に関しては他の者には内密にとの命令を受けております」


「そう……。それなら、良かったわ……」


 思わず力が抜けたようにエルシュは深い溜息を吐いた。


 リディスは毒に慣れていると言っていたが、それでも身体に含めてしまえば影響は出るだろう。命に別状はないようだが、きっと身体に何かしらの影響は出ているに違いない。


「……毒を仕込んだ者の目星は付いているのですか」


「……いいえ。私も関わった者として尋問と身体検査を受けましたが……。厨房の者達からも毒を持っている証拠は見つかりませんでした。それで──」


 そこでフィオンは一度大きく息を吸ってから、やっと顔を上げたのだ。彼女の瞳には涙が浮かんでいたが、それでも強い意志が感じられる程の視線を向けてきていた。


「どうか、このフィオンをエルシュ様のお傍から外して頂きたいのです」


「え……」


「今回の件は私の不徳が致すところ。責任を持って、辞する覚悟でございます。……今、目の前にいるのもお別れのためでございます。本来ならば疑われて牢屋に入れられても仕方がない身でしたが、最後の言葉をお伝えするために宰相のジーク様に無理を言って、こちらのお部屋に入れて頂きました」


 捲くし立てるように呟かれる言葉は切羽詰まっているように思えた。

 ──後がない。だからこそ今、言葉を伝えるために来たのだ。


 視線を巡らせてみれば、部屋の入口には難しい顔をしたジークが立っていた。彼はエルシュの顔を見るやいなや、普段は見られないような厳しい面持ちのままで頷き返してくる。


 つまり、フィオンが毒を仕込んだと疑っているため、この場に同席しているのだろう。


「……侍女フィオンの処遇については君に任せるよ、エルシュ姫」


 重たい空気の中、ジークの声がゆっくりと耳に入って来る。


「……宜しいのですか」


「正直なところ、その子も毒を仕込んだ者として疑われている者の一人だ。通常ならば、牢屋で詰問されてもおかしくはないが、侍女や女官の管理は王妃の管轄だからね」


  それは暗に、自分に決定権があると告げられている気がした。


「……私に毒を仕込んだ嫌疑はかけられていないのでしょうか。陛下へとお茶をお出ししたのは私です。責任は私にもあるかと」


「僕はリド……陛下の言葉を信じているからね。彼ははっきりと言っていたよ。──エルシュは毒を仕込んでなどいない、って」


「……」


 自分はどうやらリディスから毒を入れるような人間だとは思われていないらしい。


 ……だから、あの時、自分のことが嫌いかと訊ねられたのね。


 エルシュの身は潔白だが、あの時の言葉は悲しみと戸惑いが含まれていたようにも思い出される。


 リディスにとっては裏切られたような気分になったのかもしれない。そう感じてしまえば、拳を強く握りしめずにはいられなかった。


「ジーク様。毒を仕込んだ者はまだ見つかっていないんですよね」


「……残念ながらね。今も水面下で実行犯を探してはいるけれど」


「では、犯人が確定されるまで、フィオンは私が預かっていても宜しいでしょうか」


「……」


 息を引き攣ったのはジークとフィオン、一体どちらだっただろうか。


「もし、仮にフィオンが毒を仕込んだ犯人だったとしても、その罪は彼女だけではなく、彼女の主である私にも責任があると思います。どうか、罰する時は私も同じものを受けさせて下さい」


 静まり返る空気の中、余韻のようにエルシュの言葉だけが響く。


「……まぁ、エルシュ姫のことだから、何となくそう答えるような気はしていたけれどね」


 沈黙を破ったのはジークの深い溜息だった。


「フィオンを突然、君の専属侍女から外せば周りの者達に怪しまれるだろうからね。事態を大きくしないためにも君の考えは一理あると思うよ」


 でも、とジークは言葉を続ける。


「この先、何がどう転ぶかは分からない以上、こちらが信用している者を君の護衛にしたいと思うが、了承して頂けるかな」


「……それは陛下だけではなく、私も命を狙われることがあるという意味でしょうか」


 冷静なまま問いかけるとジークはこくりと頷き返した。


「今、ややこしい事態が起きていてね。……フィオン、少し部屋から出て行ってもらえるかな?」


「は、はい」


 フィオンはおずおずと立ち上がり、そしてエルシュに向かって深く頭を下げてから、この部屋の外へと出た。


「……念のために盗聴防止用の結界も張っておくか」


 ぼそりと呟いたジークは腰のベルトに差していた細く黒い杖を取り出すと、物語の魔法使いのように、空中に向けて一閃を薙いだ。


 エルシュは何も感じ取れなかったが、ジークは満足気に頷いていたので、恐らく結界を張ることに成功したのだろう。

 

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