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056 あの日、僕らはパンツという名の夢を追いかけていた

 



 銀狼たちが、帝都中を忙しなく走り回っている。

 祭りの準備で忙しいのはサーヤだけではない。

 彼らも帝国に依頼され、荷物や手紙の配達を手伝っているようだった。


 サーヤはそんな銀狼たちに話を聞き、フェンリルがいるという場所にやってきたのだが――

 そこにいたのは、雌の銀狼マーナだけであった。


「こんにちは、マーナさんっ」


「わふっ、サーヤさんじゃないですかっ! こんにちはです、わふわふっ」


 銀狼たちは区別がつかないようでいて、何度か顔を合わせてみるとそれぞれ違う特徴を持っていることがわかる。

 特にマーナは毛並みがふさふさで、フェンリルにくらべるとかなりつぶらな瞳をしていた。

 もちろん、声や喋り方の個体差は大きいため、見分けるのは容易なのだが。


「今日もいい毛並みですね。撫でてもいいですか?」


「もちろんどうぞですよ、わふんっ!」


 マーナはサーヤに近づくと、まず自分の頭を差し出した。

 サーヤが耳と耳の間あたりを、彼女はうっとりと目を細めて「わふぅん」と気持ちよさそうに鳴く。

 その毛の柔らかな手触りは、撫でているサーヤの方までも気持ちよくなるほどだった。


「ふさふさで、ふわふわで、ぎゅーってしながら寝たら気持ちよさそうですねぇ」


「わふん、私の自慢ですからね。抱き狼レンタルとかやったら、意外と商売になるんでしょうか?」


「あっ、いいですねそれ! 特に冬なんてみんなほしがると思いますよ!」


「ですよねですよねー! わふわふっ!」


「つまりいつかはこうして撫でるのも有料になるかもしれないんですね……なら今のうちに、思う存分なでておかなければ!」


 サーヤは両手を使い、首のあたりをわしゃーっ! っと撫でたくった。

 抱きつくぐらいの勢いで、すっかり銀狼の感触に夢中である。


「わふーんっ、サーヤさんってばさすがの手さばきですぅー!」


 それに気持ちよさそうに身を委ねるマーナ。

 同じ女子同士で話も合うらしく、彼女とサーヤはこうした交流を何度か重ねていた。




 ◇◇◇




 一方その頃、帝都の一角で、熱い戦いが繰り広げられていた。

 銀狼と人間が、競い合うように高速で駆けているのだ。


 銀狼の名はウプウアゥト。

 群れの中では古参に分類され、フェンリルからの信頼も厚く、高い実力を誇っている。


 彼と競り合う人間の名は、トム。

 またの名を、疾風のジェット。

 少し前まではサーヤのパンツに取り憑かれていた、Bランク冒険者である。


「やるな人間! 二つ足の分際で、この俺についてくるとはな!」


「そちらこそやるな、狼。雪原での疾走に慣れたお前たちには、石畳のこの道は硬すぎるだろう?」


 事実、ウプウアゥトの速度は雪原にいた頃と同じ――いや、それ以上であった。

 石畳の間に爪を食い込ませることにより、さらに強く前に蹴り出すことができているのだ。

 一方でジェットにとって、この帝都は庭のようなものだ。

 最短距離を駆け抜け、最高効率で目的地まで到達するためのルートが、完全に頭に叩き込まれている。


 つまり両者ともに、負けるわけにはいかない――プライドを賭けた勝負であった。


「ふん、これぐらいどうということはない。それと俺はウプウアゥトだ、狼と呼ぶな」


「俺はジェットだ。風を司り、風そのものになる男――疾風のジェット!」


「いい名前だな。ますます打ち破りたくなった!」


 別にこれは、示し合わせて始めたレースではない。

 たまたま配達をしていたウプウアゥトと、依頼を受けたジェットが並走し、流れで速度比べになっただけだ。

 勝っても負けても、得るものや失うものがあるわけではない。

 だからこそ――男たちは『勝ちたい』と願う。

 損得勘定の絡まない、純粋な勝負だからこそ、勝敗に大きな価値があるのだから。


(カーブが近づいてきた――)


 ウプウアゥトが姿勢を低くする。

 ジェットは体勢を変えない。


(馬鹿な。この男、あの角を、スピードを緩めずに駆け抜けるつもりか!?)


 銀狼の体は大きい。

 人間の体に比べると小回りがきかない。

 その差は、カーブで如実に表れる。


(焦っているな、狼よ。確かに人の身であろうと、速度を緩めずに角を曲がり切るのは不可能だ。しかしそれはあくまで、常人の考え。俺はただのジェットじゃない、“疾風の”ジェットだ。風の力さえ使えば、急激な方向転換もお手の物だというところを見せてやろう!)


 迫るカーブ。

 ウプウアゥトは何を思ったか、あえて外側へと向かった。

 大回りで曲がるつもりだろうか。

 それでは速度を緩めるのと大差無い。


(さて、どう来る狼――)


 ジェットは己の優位を確信しながらも、同時に銀狼が何かを仕掛けてくるはず、と考えていた。

 そして予感通りに、ウプウアゥトが動く。

 彼は地面を蹴ってジャンプし、何と――“壁”を走り(・・)はじめたのだ。


 いかなる曲がり角であろうとも、壁を走ればそれは直線。

 スピードを緩めるどころか、さらに加速することが可能である。


(何だと!? ふっ、さすがだな狼。しかし、人間の底力を舐めるんじゃあない!)


 ジェットも負けてはいられない。

 彼は脚部に風を纏い、いつもよりもイン気味に角へと向かう。


(一ヶ月前の俺はこれでは曲がりきれなかった。だが――修行を経た今の俺ならば、できる。やれる。そうだ、やってみろ!)


 自分に言い聞かせるようにそう繰り返し、ジェットは踏み出し、地面に付いた足に、強く力を込めた。

 同時に、纏う風が爆ぜる。

 半ば強引に、彼の体をねじり、向きを変える――


「おぉぉおおおおおおおッ!」


 ジェットは吠えながら、壁という名の“直線”を駆けるウプウアゥトと再び並んだ。


「なおも退かないのか! やるな、人間!」


「お前こそな、狼ぃッ!」


 二人の間に、好敵手としての友情が芽生えつつあった。

 スピードを競い合うこの瞬間が、楽しくてしょうがない。

 無理をした脚は悲鳴を上げ、限界を超えた速度を長時間維持したため、体力も消耗してきているが、その感覚すら心地よい。


(ああ、残念だ)


 ウプウアゥトは思う。


(ゴールが近い)


 ジェットも思う。


『この直線が、永遠に続けばいいのに――』


 二人は、同時にそう思う。

 しかし無常にも決着は迫っている。

 ならば残る力は全てひねり出さねばなるまい。

 その決着を、両者ともに納得できるものにするために。


 ウプウアゥトは気迫を纏う。

 近づくもの全てを恐れさせるほどの、“野生の風格”。

 それは彼が、完全なる全力を尽くしている証拠であった。


 ジェットの気迫はウプウアゥトには劣るものの、脚部に纏う風がさらに激しくなる。

 それが、ジェットが全力である印であった。

 一歩踏み出すたびに風が巻き起こり、彼の体を前に押し出す。


 勝負はほぼ互角。

 いや、鼻の分だけウプウアゥトが有利だろうか。

 しかしジェットが前のめりになれば、それだけで埋まる差だ。

 まだわからない。

 たとえ数メートル先にゴールが迫ろうとも。

 まだわからない。

 たとえ1秒も満たぬうちに結果が出たとしても。

 まだわからない。

 両者の指先と鼻先がゴールラインに触れたとしても。

 まだ、わからない――


 そう、勝敗はつかなかった。

 二人はほぼ同時に、暗黙のうちに決められたラインを通り過ぎ、ゴールしたのだから。


 だが不思議と悔しさは無い。

 全力を尽くした。

 スピードの限りを出し切った。

 そのあとに残ったのは、まるで今日の空のように爽やかな感情だけ。


 ……だったら、よかったのだが。

 彼らにとってのゴールラインとはつまり、フェンリルが設定した集合場所である。

 そこには現在、サーヤとマーナがいる。

 サーヤはマーナを撫でるのに夢中で、周囲にまったく気が回っていない。

 そしてそんな彼女の真後ろを、ジェットは、風を巻き起こしながら走った。

 結果、どうなるとか言えば――


 ふわりと、スカートが舞い上がったのだ。

 そしてジェットが『しまった』と思ったときにはすでに遅く、彼はそれを見てしまった。

 ここ数ヶ月、あれほどまでに探し求めてきた、その奥にある真実(パンツ)を――


 そう、ジェットはずっと追い求めてきた。

 スカートの下にある、布切れを。

 そのために修行だってした。

 スカートをめくりあげるための蹴術も習得した。

 だが、それはサーヤが“女装している”という建前があったからこそ。

 今や彼女は帝国の英雄だ。

 もはや女だろうと男だろうと誰も気にしていない。

 ジェットでさえも――どちらでもいいと考えていた。


 しかし、運命とは残酷なものだ。


 あれほど求めてきたパンツを、求めていない今になって見ることになるとは。

 もはや疑いようもないことだが、それを見ても明らかだ。

 サーヤは――女。

 だからどうしたというのか。

 ギルドから追い出すというのか。

 自分より強く、沢山の人の役に立っている少女を。


 ――否。


 ジェットはそんなことは望んでいない。

 彼とて、サーヤに帝国の――いや、人類の未来を託したうちの一人なのだから。


 だからこそ、パンツを見た今、彼の胸に去来する感情は――虚しさ。

 彼は20年以上の人生を生きてきて初めて知った。

 虚無。

 虚空。

 胸に去来するそれらの感情、その正体を。

 この世界には、こんなに巨大なくせして、中身は空っぽな感情があったのか、と。


 10歳の少女のパンツを見てしまった。

 それを見るために修行までした。

 過去、現在、未来――その全てを虚無感で満たす、がらんどう。


 それが、“パンツ”という存在がジェットに与えた、“結果”だった。


「わふんっ、ドローだな。人間にもここまでのスピードを出せる逸材がいたとは。なあジェット、よければ今度また一緒に――」


「やめてくれ」


 ウプウアゥトの誘いを、ジェットはきっぱり拒絶する。


「ん?」


「俺をジェットと呼ばないでくれッ!」


「ジェットはジェットじゃないのか?」


「俺はただのトムだ! 疾風のジェットなんかじゃないっ!」


「えっ、トム? わふ? じゃあジェットっていうのは?」


「何だかかっこいいから名乗ってただけだ! 本名はトムなんだ!」


「そ、そうなのか……わふ」


「だが、今の俺にジェットを名乗る資格などない」


「本名がトムなら最初から資格は無いんじゃ……」


 うっかりウプウアゥトは正論を言ってしまうが、ジェットの耳には届かない。


「俺は、自分を見直す必要がある……さらばだ、好敵手ウプウアゥトよ……」


 哀愁を漂わせながら、ウプウアゥトに背を向け、去っていくジェット。


「……何だったんだあいつ」


 ウプウアゥトは首を傾げながら、その後ろ姿を見送った。




 ◇◇◇




「ひゃあぁっ!?」


 サーヤが、女の子らしい声をあげてスカートを押さえる。


「わたしとしたことが不覚です……すっかりマーナさんを撫でるのに夢中になってしまいましたね」


「わふわふ、喜んでいいのかわからないですね、それ……誰にも見られてませんか?」


「大丈夫だと思います。別に見られても、死ぬわけじゃないですからっ」


 当のサーヤは、存外にさっぱりしていた。

 普段からティタニアやらファフニールやらニーズヘッグに裸を見られているので当然なのだが。


「女の子として、そういうときは恥じらった方がいいんですよ? わふわふっ」


「でもマーナさんって、ほぼ全裸じゃないんですか?」


「わふっ!? わ、私は、この毛皮があるので……っ」


「毛皮って、服なんです? 人間で言うところの皮みたいなものじゃないんですか?」


「わふんっ!? そ、そう言われればそんな気が……私、公衆の面前で素肌をさらしてしまっていたんでしょうか!」


「……サーヤ、純真なマーナに妙なことを教え込むでない」


 フェンリルはマーナの後ろにある民家の屋根から飛び降りると、彼女の隣に着地して、そう言った。


「フェンリルさん! こんにちはっ!」


「ああ、こんにちはだ、サーヤ。あいかわらず元気だな。もしかして我を待っていたのか?」


「そうみたいですよ、何でも大事なお話があるとかで」


「大事な?」


「あ、いえ、そんなに大事ってわけじゃ……いや、でもわたしにとっては大事なんですけど」


「まさかさっき丸見えになっていた下着と関係が……」


「ありませんよぉ」


「フェンリル様、見てたんですか? わふわふっ!」


「見ていたというか、見えてしまったんだ。安心しろ、人間の下着を見た所で我は発情せん」


「……はつじょー? 前も似たようなことをいってましたよね、フェンリルさん」


 言葉の意味がわからず、首をかしげるサーヤ。

 するとフェンリルはすかさず説明しようとする。


「発情というのは、異性と接触した肉体が、子作りをするための準備を――」


「わふっ! フェンリル様、10歳の女の子にそういうことを言うのはどうかと思います! わふわふっ!」


 ちょっぴり怒り気味に抗議するマーナ。


「そ、そうか……?」


 フェンリルは珍しくたじろぐ。


「いいですか、サーヤさん。発情っていうのは、好きな人と一緒にいると、胸がどきどきすることです。わふんっ」


「へー、好きな人と……胸がどきどき……」


 胸に手を当て、考えるサーヤ。

 彼女には心当たりがいくつかあった。


「少し違うような気もするが……」


「これでいいんですっ」


「ふむ、まあそういうことにしておこう。ところでサーヤ、結局我に用事とは何だったのだ?」


「ああ、そうでした。わたしですね、今、みなさんに“戦いが終わったらどうするか”を聞いて回ってるんです」


「なぜそんなことを?」


「将来について考えたくなった、というのもありますし……あとは……ひょっとすると、不安じゃなくなりたい、のかもしれないです」


「不安じゃ……」


「なくなりたい?」


 わざわざフェンリルとマーナで言葉を分けて繰り返す。


「今までわたし、そういうのをあんまり考えたことなかったので。これからもずっと、今ここにいる人たちは、当たり前のようにここに居続けるんだろうな、と思ってました。でもイフリートさんなんかはそうでもないみたいで……」


「あいつは無駄にスケールが大きい男だからな」


「それって、きっといいことなんだと思います。前に進んで、夢を叶えようとして。でもやっぱり……何だか、寂しくって」


「それで、不安になっちゃったんですね?」


 こくん、と頷くサーヤ。


「なるほどな、前もって聞いておけば心の準備ができる、という算段か」


「そういうことだと、思います。たぶん」


 サーヤ自身も自信がなさげである。

 初めてなので、フェンリルの言っていることが正しいかどうか、自分でもわからないらしい。


「ならばはっきり言っておくが、我らはここに残るつもりは無い」


「そうなんですか……」


「そうだったんですか!?」


 なぜか一緒に驚くマーナ。

 どうやら彼女も聞かされていなかったようだ。


「我らの故郷は、北の雪原だ。魔王城も悪くはなかったが、やはり帝都では異物にしかならん」


「みなさん、銀狼さんたちのこと好きって言ってますよ?」


「それも異物だからこそ、だろう。完全に共存するとなれば、そうはいかん。住み処の問題も、仕事の問題もあるからな」


「仕事って……今は、配達をやられてるんですよね」


「ああ、急遽祭りが決まったから、人手が足りないそうだからな」


「だったら、それを続ければ――」


「それは駄目だ。人間の仕事を奪うことになる」


「あ……」


「モンスターが人の仕事を奪えば、そこで軋轢が生じる。それは、人と人との間に生じたものよりも、ずっと歪んで、大きくなりやすい。種族が違うとはそういうことだ」


「イフリートさんも、似たようなことを言ってました」


「そうか、あいつはああ見えて頭がいいからな」


 話を聞いたサーヤの表情は暗い。

 フェンリルは彼女に少し近づくと、先ほどよりも優しい声で語った。


「ふっ、そんなに悲しそうな顔をするな、サーヤ。必ずしも、そうであるとは限らないのだ。ただな、我らには我らの住むべき場所があるということだ」


「それが、雪原ですか」


「生物というのは、最終的には故郷を求めるものだからな。帝都の飯はうまいし、人も温かいが――染み付いた郷愁が、『お腹が空いた』と訴えかけてくるんだよ」


「よくわかりません」


「わふ、私もわかりませんでした」


「……かっこつけすぎたか。ともかく、我らはそうするということだ。まあ、以前より贅沢な生活をするために、人の踏み入れない北でしか取れない上等な肉を売りに来たり――というのは考えてはいるが」


「つまり、もう二度と会えないわけじゃないってことですか?」


「お前は我らに会いたいのか? かつては人を滅ぼそうとし、お前にも迷惑をかけた我らと」


「もちろんですっ! フェンリルさんやマーナさんたちとは、もうお友達ですからっ」


 淀み無く言い切るサーヤ。

 長い人生で擦れたフェンリルには、そんな彼女の姿はいささか眩しすぎた。


「サーヤ、お前には“若さ”や“青さ”という言葉だけでは片付けられない、“輝き”を感じる。時に無邪気すぎて、見ていて不安になることもあるが、どうかそのままでいてくれよ」


「えっと、今のままでいればいいってことですよね」


「わふん、そういうことだと思います」


「つまり、褒められていると?」


「わふわふ、そういうことかと」


「……言い方が回りくどくてすまなかったな」


 フェンリルはふてくされたように言った。

 彼的には、決め台詞を綺麗に言い切ったつもりだったらしい。

 しかしサーヤもマーナもそんなことに気づくことはなく、ほどなくしてサーヤは彼らに別れを告げて、ティタニアの元に向かっていった。




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