第77話 「異世界帰りの椎菜ちゃん」
「そうだねぇ、ワシはまだ監督歴も短いが、経験で言わせてもらうと……」
小林監督が残念そうな表情を浮かべて言う。
「いるんだよ、結構。『ここでいいや』と思ってしまっている選手が」
野々香はマンションの自室で、音楽を聴きながらトレーニングをする、いつものスケジュールをこなしていた。最後の一ヶ月へ向けて、いよいよ追い込み。一軍への道ももうすぐ、というところだ。
そんな中、先日茶渡実利に怒りをぶちまけた日の、監督の言葉を思い出す。
試合後、監督に呼び出され事情を話した野々香は、ひとまずきっちり叱られた後、アドバイスをもらった。
「人間誰しも、自身の限界というのをいずれ嫌でも理解する。これは能力や才能だけの話じゃない。性格や目標と言った側面でもだ。茶渡君のような極端な例は珍しいし、さすがに目に余るが、せっかく選ばれた者としての席があるのに、そこに適さないという自己判断をする者もいる」
茶渡と並列に語るのは気分が悪いが、学駆なんかもそういう所がある。なので野々香は納得せざるを得ない。
彼は、その気になれば野々香よりも遥かに強いし、野球でも始めれば無双してしまいそうだが、自ら脇役ポジションに収まろうとする。
根本的に自身が輝く場所にいると言うのが合わないのだ。陰で見守りながら暗躍する事を自身の生き方、幸福としている。
「姫宮くんは、茶渡選手の事を気に入らないようだけど、飲まれてはいけないよ。一軍でシンドイ思いをするより、二軍でプロ選手と言う肩書だけを持っていたいという人もいる。体の良いところで区切りを付けた方が、少なくとも本人は幸せだということもある」
監督自身も、茶渡の話を聞いて嫌悪感を持ってはいるようだが、その上であの男のフォローをするような話をしてくれたのは、野々香のためであった。
「君はまだまだ、性根の部分が優しくて、甘い。その気持ちは尊いものだが、いよいよドラフトともなれば席の奪い合い、蹴落とし合いだ。そして指名された後も一軍の、レギュラーの奪い合い。プロはずっとそうだ。君みたいな子には、実は人を蹴落とす方がキツい。一人一人それを案じていたら、身が持たんよ」
これから野々香がドラフト候補に上がるにあたり、野々香のおかげで指名されない人は必ずいる。
監督は、それを案じるより、納まるべき所に納まっただけなのだと、そう考えなさいと言っているのだ。
「つまりだね、なんというか、若い人に伝わりやすい感じに言うと……チョコラテは置い」
「あっ、おじさんが精いっぱいわかる範囲の新しい物に寄せたけどもはやそれも若い子知らないくらい昔じゃん、みたいな波動を感じたので大丈夫です言わなくて。無理しないで」
「そ、そうなのか……」
「大丈夫です、あまえないでよ!喝!とか言ってくれたら話の流れでわかりますんで」
「まぁ、伝わっているなら、いいかな。サルガッソーズとの最終カードは、9月の中旬。ここと、首位のタッツ戦は特に必勝だ。君も先発で登板する事になる。次に彼に会ったら……」
そこで監督は、ニヤリと笑って、締め括りの一言。
「引導を、渡してやろう」
それを聞くと、野々香も同じような笑みを浮かべて、頷いた。
残りの直接対決は、2位サルガッソーズと、残り12試合時点。首位タッツとは残り6試合時点に三連戦が組み込まれている。
差を離されずに食らいついて行けば、この2カードが正念場となるだろう。
ぴんぽーん。
そうして監督との会話を思い出しつつ、トレーニングをしている野々香の元に、めったに鳴らない部屋のチャイムが鳴る。
最近は信用のある相手ならスマホで連絡を取るから、あまり必要がないのだ。
逆に言えば、訪問の時点でちょっと怪しいんだよね。などと思いつつ野々香は雑に応対した。
「はい。ここがこの女のハウスです」
「あ、野々香さん。ただいま戻りました~」
「!?」
聞き覚えのある声が、野々香の耳を強く打つ。
何故か静岡に、そして野々香のマンションの玄関先に、想像以上に軽いノリで少女はやって来た。
「しししし椎菜ちゃん!?」
「はい、椎菜です。お久しぶりです。そろそろ新学期なので、帰還しました」
光矢園敗退後、謎のメッセージを受けて異世界・シッサーク王国へと行っていた涼城椎菜が、帰って来た。
転移魔法の安定使用のため向こうで着ていたローブ姿なのだが、こちらで見るとややファンタジーなので、フードを付けたりベルトで巻き上げて留めたり、ワンピース風に仕上げている。飾り気のない少女だが、頑張っておしゃれをしているみたいで微笑ましい。
野々香が話だけを聞く形になってしまい、大袈裟に心配していたのだが、戻った彼女の態度を見るに、杞憂だったらしい。
「いやぁ、黙って飛んで行っちゃったから、心配してくれているかなと思って」
「ばっ、バッケ野郎!心配なんかしてないってんでぇ。てやんでぇ、すっとこどっこい。今日もお江戸は日本晴れだぜ」
「ここ静岡ですけど……」
異世界への行き来には、イメージした場所へ転移する転移魔法を使用しなければならない。逆に言えば、来たことがあれば任意の場所に帰還することも出来る。
おそらく、向こうにいる間にスマホの充電は切れてしまい、連絡なしの直接訪問となったのだろう。
「どうせ転移で帰還するなら、黙って出て行った野々香さんの所にまずは伺うべきかなって」
「べきべき!マジでべき!べくべからべくべかりべしべき!おかげでモヤモヤが吹き飛んだよ、危うく脳内の風景に霧がかかり過ぎて濃霧コールド負けを食らうとこだったよ」
「あはは、やだなぁ、濃霧コールドなんて聞いた事ないですよ」
野々香は椎菜を中へ招き入れると、ウキウキでお茶を淹れ出した。
一緒に住んでいた頃から二人のお気に入りの、スパイスフルーツティーだ。
甘い香りのするフルーツティーに、少しのスパイスを入れて優勝出来る。と豪語して振舞われて以来、椎菜もお気に入りの一品となっている。
お茶を一口飲んで、相変わらず美味しいですね、と笑い合った後、野々香からまずは話を切り出した。
「まずは、おかえり。帰って来てくれてありがと。正直ね、心配してたよ。失意のズンドコで帰って来なかったらどうしようかと」
「ただいまです。さすがにそれは杞憂ですね。僕が野々香さんに何も言わずに消えるはずがありません」
「ううっ、椎菜ちゃん……しゅきぃ……」
言い方が茶化してはいるが、わずかに野々香の目に涙が浮かんでいた。
これは学駆の判断が正しかったことになったが、野々香からしたら100%自分を信用出来るものでもない。安心と喜びで、多少涙腺が緩んでしまうのも仕方がないことだ。
「向こうへ行って、少しは気晴らしになった?」
「気晴らし……というと素直になったと言い辛いのが難点ですね、新たに気が重くなる案件が増えました。何せあの王様に会って来たわけですし」
「違いねぇや、アハハ!」
「アハハ!」
正直笑えないお話なのだが、だからってどうにかなるものでもない。
どうにもならないなら笑い話にでも変えてしまうしかない。
わざわざ呼び出されて行ったのだから、何かあったに決まっている。
「でも、大丈夫です。光矢園の事に関しては……ひとまず、落ち着きましたから」
落ち着いた。というのはあくまで気分の話であって、南との間に起きたらしいことが解決したわけではないのだろう。
しかし、ひとまずそれに関しては二人の問題だ。野々香から出来る事は少ない。
そちらは時間を置かねばならないことだと、野々香も薄々わかっている。
「それで、ですね」
改めて、呼び出しの件について、今度は椎菜が話し始めた。
「本題ですが、まず単刀直入に言います。魔王がこちらの世界にいるそうです」
ぶふっ。
野々香は紅茶を吹き出した。
げほっ、げほっ。
スパイスなんぞ入れたものだから、変なところに入って少しむせる。
…………。
しばし、沈黙。
「アハハ!」
「アハハ!」
再び先程と似たような笑いがお互いに飛び出す。
もう笑い話にするっきゃ……するっきゃない……
「いや笑えないよ、それは……わけがわからないよ……」
「ですよね……、僕も、まずは勇者である野々香さんの耳に入れるべきと思いはしたのですが、わけがわかりません」
困惑と不快感と疲労感が全て混ざり合って一斉に襲い掛かって来たような気分だ。
大事な大事なこの時期、いよいよプロ野球の道も佳境へ、と言う場面で、まさか野球どころではなくなってしまうのか。
当たり前だが、魔王は魔法のある世界ですら放っておけば滅ぼされてしまう様な危険な存在だった。
魔法とは違いこちらには科学があるとは言え、本気で攻め落とされればただでは済まない。
「ただ、ひとまず安心していただきたいのが、今すぐ討伐せねばならないとかではないそうです」
これは、王ではなく両世界を繋ぐ忘れ路の祠の双子精霊、リルイ・キルイの言葉なので、信用していいとのことだ。
「魔王は精霊リルイさんの言う通り、全ての力を失い、別の世界に封印されました。ただ、その、"別の世界"と言うのが……」
ここまで言われればアホの野々香も察する。
要するに、近年ありがちな異世界ファンタジーの、野々香たちが経験したものとはまた別の、それだ。
引きつった笑いが浮かんだ。
「僕らの住むこの世界。どこかの人間として、新たな器を得て行動している、とのことです」
…………。
つまり。
「あんたが転生するんかい!!」
察したくはなかったが察した通りのオチで、野々香は思わず大きな叫び声を上げていた。




