第75話 「あなた一人の体じゃないんだから」
「もー!女の子がお腹にデッドボール食らっておいて、病院?行かねぇよ。んなもんツバつけときゃ治らぁ。とか言ってちゃダメなんですよ!」
「そこまで言ってないよ?」
付き添いに来てくれた須手場雀が、野々香に対してぷんぷん丸している。
試合の後、一応病院へ行ったのだが、野々香にとっては案の定、異常なしだった。
しかし、一般的に見て直球がもろに脇腹に直撃したらただですまない可能性はある。
いくら頑丈な野々香でも、周りの心配は強く、雀にいたっては危うく試合中に乗り込んで来て病院に引っ張り出そうと言う勢いだったそうだ。
実際、試合が終わるなりタクシーが用意されていて引っ張り出された。
「野々香さんの事が心配なのもあるし、チーム全体の事を考えても、今油断して倒れられでもしたら困るの。わかるでしょ?もうあなた一人の体じゃないんだから」
「人のいる場所で人聞きの悪い事言わないで」
女子対女子でとんでもないセリフが出て来たのを聞いて、タクシーの運転手が驚きのあまりぐりん!と後方に首を回して来た。
前見て、前。
「あながち冗談でもないんですからね。あなたは野球界を大きく変える一人になるの。体は大事にしなきゃダメよ」
「は、はい……」
雀の野々香に対する熱意は、時たま本人をすら凌駕していることがある。
ただ言い方は大袈裟だが、否定も出来ない。試したいこと、克服したいことを気にするあまり体を壊しては仕方がない。
残りはまだ1ヶ月、20試合ほどあるのだ。
雀の背中を押す叱り方に心地よさも覚えながら、野々香は病院から自宅へ送り届けられた。
タッツ戦直後には2位・サルガッソーズとの直接対決の日程だ。
差は1ゲーム。二連戦なので、連勝すれば2位。
しかし、今カードも相手は徹底して野々香にはボール球主体で攻めて来た。
やろうやろう、と意気込むさなかの野々香にとってはこれが厄介だ。
初戦はやはり大事な場面で歩かされ、後続を断たれ得点できず。野々香が活躍するチャンスもなく2-5で敗れてしまう。
サルガッソーズは現在、一軍もパの常勝軍として君臨しているチームで、Aクラス率、優勝率も近年で最高の球団である。
そのため、常に勝利を至上とし、ついて来られない選手は置き去りにされ、最後には戦力外として放出される。
二軍と言えば良くも悪くも「試しの場」として、勝利を二の次とする空気はあるのだが、この球団はそれをよしとしない。
たとえ二軍でも、勝つための最善策を迷わず取って来るのだ。
そのため二軍であってもチームの優勝は当然狙っているし、樹・野々香の様な強力な相手を四球で避け、勝利に徹底する戦術もいとわない。
野々香に対してまとわりつく茶渡が二軍に張り付いているのも本人が勝手に一軍の切符を放棄したからだし、そのうえで二軍では積極起用されるのも単純。ホームランを打つからだ。前回ベンチに下げられたのも、彼に勝つ気がなかったからだ。
すなわち、現在優勝を目指すと決めたニャンキースや野々香にとって、勝負においては最も強力な敵であると言う事になる。
互いに、勝利至上。
「死球上等の攻め方や、四球上等の避け方をしてくる相手とどう戦うか。これが当面の課題になったわけですなぁ」
二戦目前のミーティングにて、尾間コーチが進言する。
「姫宮くんはこれまで、まだ本当の勝負をさほど経験していないとも言える」
それに合わせ、小林監督が不意に呟いた。
「女性だからとなめられた……のは最初だけにしても。君が避けるのが上手いのもあるけれど、無意識にインコースへ投げるのを避けた投手も、いたはずだよ。これからいよいよ、相手の攻めも厳しくなるし、サルガッソーズは特に打たせない配球を徹底してくるみたいだ」
例えば初期の頃にアウトコースが狙い打ち出来たように、これまでは真っ向勝負を挑んでくれた相手も多かった。
しかし、本来勝負の配球と言うのは、インコースで腰を引かせたり、ボール球で打ち気をそらせたり、戦略は多岐に渡る。
「まぁ、一軍に向けての訓練になると思えばいい。これを乗り越えれば、君は本格的に一軍で通用する打者になれると言うことだよ」
そう言っている小林監督の表情には笑みがあった。
面白くなってきた、そういう表情だ。
「さぁ、次はこれを経験して、踏み越えてもらいたいね」
しかし、やはりそう簡単には勝負は上手く行かない。
1回裏、有人を三塁に進めながら、4番樹・5番野々香は揃ってボール球中心の配球で歩かされ、二死満塁から6番来須が打ち取られた。
結果、無得点。
残り試合を考えれば負けられないのだが、打線を機能不全にする相手の戦略に、再びハマってしまった。
そして、再びスタメン起用に戻った茶渡に2回表、またも一発が飛び出す。
チャンスを逃した直後に一発を浴びる苦しい展開で0-1とリードを奪われた。
「野々香ちゃーん!見てる見てるぅー?」
本人は素で自己アピールをしているつもりなのだろうか。煽りにしかなっていない。
これでこの男は20本目。本当に本塁打王も有り得る所まで追い上げて来た。
この試合を負ければ再びサルガッソーズと3ゲーム差の3位。
タッツとも当然離れてしまい、先日勝った意味もなくなる。
しかし、こう言う場面で空気を変える元気印は、ニャンキースにちゃんといる。
日暮有人だ。
「お前ら、声出してくぞ!」
チーム全体を鼓舞するように大袈裟に声を出した有人は、先頭打者として打席に入る3回裏の攻撃の前に円陣を促すと、野々香にも声をかける。
「姉さん、わかるっすよ。やりにくいんでしょ?」
相手の戦略に上手く対応出来ないのもあるが、茶渡と言う男がチラついているのも一要因だ。今日もスタメンのお調子者男は、相変わらず事あるごとに野々香に視線を向けて来ていた。
「やー、うん。ごめんね、せっかくみんなで優勝に向けてって空気の時に調子を崩して申し訳ないんだけど、そうかも」
サルガッソーズのようにスルスル躱す戦術は、真っすぐ行ってぶっ飛ばす野々香の精神と相性が悪い。
守備走塁に課題を抱え苦心する中、得意の打撃をも崩しにかかられて、敵軍に苦手な男もいて、この数試合空回りしている。
「姉さんはけっこー何でも出来るけどさァ」
そんな野々香に、有人は少しもどかしそうに言う。
「何でもしようとしすぎなんだよな」
指摘されて、野々香は少しドキリとした。この指摘は、あちらの世界でも言われた事がある。
「ののちゃん、ウチと違って何でも出来るし凄い人だけどさ。いつも何でもしようとは、しなくていいんじゃないの?どうやっても、ののちゃんは一人しかいないんだからさ、出来ない事は頼ってくれよ」
と、言っていたのは、浅利南だ。
他者に力を与えてパーティーの旗印となるのは勇者の役目だ。だがその分影響力も大きい。中心となって動く者が崩れれば、全体のバランスを崩してしまう。
その重圧の中、どこかぎこちない野々香に南が言ってくれたのが、その言葉だった。
良く喋るし勢い任せな事も多いが、実は他者の心情に最も敏感で、ここぞの場面ではズバッと本音を言ってくれる。
そんな居心地の良さを与えてくれるのが、異世界では、浅利南という少年だった。
そして、今それをしてくれているのが、日暮有人と言う男だ。
今も、野々香はいつの間にかぎこちなさを感じてしまっていたことに気付く。
守備走塁という弱点を補うために気合が空回りしていたことも事実だ。
「疲れた時ゃ、力抜いてこうぜ。トータルちょっと頼りねぇかもしれねェけど、姉さんに出来ないことは俺とか他の奴がやるからよ」
そして、それを再びズバッと言ってくれたのが、有人だった。
なかなか、成長しないなぁ。
思い出して、ふっと笑った。そして、肩の力が抜けた。
「ありがと、有人くん。確かにその通りだった。……今日は、任せた!」
「おうよ、任されたぜ」
泣き言や言い訳はしなくても良い。この男は大体の事を把握してくれているのだ。
それなら、言葉は一つだけで良かった。




