第62話 「史上初のコール(たぶん)」
二試合目の初回、一塁に走者を置いてバッターは大諭樹。しっかりとらえた打球は左中間を襲った。
しかし、わずかばかり飛距離は足りず、ボールはフェンス手前辺りで失速、グラウンドの方へ落ちてくる。
「あっ」
センターのグラブにボールが収まる……かと思った瞬間、ジャンピングキャッチを試みたセンターが、ボールを取り損ねた。
フェンスの目の前でうっかりはじいてしまったそのボールは、
「ホームラン!」
「へ!?」
わずかに届かないと思い全力疾走していた樹が驚いた顔でセンター方面を見た。
何と、取り損ねたセンターがはじいたボールが、そのままフェンスを越えてスタンドインしてしまったのだ。
「え、いいの?いいんだよな?」
審判が腕をぐるぐる回してホームランを宣言するのを確認して、微妙に困惑しながら樹はベースをゆっくり一周する。
これで樹は近年の二軍選手としては異例の25号本塁打、もちろん本塁打王トップとなったのだが、
「何か微妙な空気になっちまったじゃねえか……」
せっかくの記念シーンが戸惑いに溢れた雰囲気に包まれ、釈然としない表情で樹はハイタッチを交わし、ベンチに戻る。
ともあれ、2点先制だ。
いきなりのホームランと全体に纏った困惑の空気に飲まれたか、相手投手もやや投げにくそうにしている。
今日の相手先発投手は植引橙次投手。右投げの速球派として一時は一軍で大活躍し、なんとメジャー経験まである投手だが、全盛期を過ぎて今は一軍二軍を行ったり来たりしている。投球スタイルも速球が衰え、やや軟投派に切り替わっている印象だ。
それでも歴戦の猛者、強敵である。
ここで5番・野々香も付け入って行きたいところだが。
「あっ」
思いっ切り投げ損なったボールはすっぽ抜け、野々香の体目がけて飛んでくる。
スイングする気で動作していた分微妙に野々香の対応が遅れた。
ぽーん。
そして、やむなく体を捻って背を向けて回避行動に出た結果、投球は野々香の尻あたりをそっと叩いて跳ねていった。
「いたっ…………く……ないけど」
反射的に痛い、と言いそうになったが全然そうでもなかった。むしろすっぽ抜けてふんわりしたボールがぬるっと来たので、当たった位置的にも痛いよりは恥ずかしいような。デッドボールが宣告され、審判が一塁へ向けて手を伸ばすジェスチャー。
「セクハラだー!!」
客席から不意に野次が飛ぶ。
相手投手も首を横にブンブン振って否定する。そりゃあ、そんなつもりがないのは間違いないのだが。
「セクハラやめろー!」
「セークハラ!セークハラ!」
『セークハラ!セークハラ!』
一軍の様に毎回応援歌が流れる場所と違い、野次や声援は飛んでも基本的な応援パターンがない球場は、盛り上がるネタが出来たとなるや大騒ぎだ。誰かが乗っかり、そのままさらに数人が乗っかり、いつの間にか謎のセクハラコールが起こるようになってしまった。
「わざとじゃねーよ!ってか、これセクハラなの?」
植引投手が困惑しながら周囲を見回している。野次を飛ばされる経験などは一軍でいくらでもあるとは言え、こんなわけのわからないコールを飛ばされるのは初めてだろう。若干うろたえていた。
「そんなに盛り上がられるとあたしも恥ずかしいんだけど!あ、植引さんあたし全然気にしてないんで!痛くもないし!」
そう言って野々香はにっこり微笑んで手を振ると一塁に歩いて行ったが、コールはなかなか鳴りやまない。
ホームランの動揺からさらに謎の空気に包まれ、植引投手もリズムを狂わせてしまう。
六番・来須にヒットが出て七番・鈴村を四球で歩かせてしまうと、二死満塁から助守の打席。
「あっ!」
引っかけたボールは捕手の構えと逆方向に大きく跳ねてしまい、ボールを捕球出来ない。
こぼれた球は後ろに転がった。暴投だ。
即座に助守は手を上げ、こちらへ、とブンブン振る動作。
走者に対する「こぼれている間に進塁出来るから走れ」の指示だ。
「けど三塁姫宮だぞ!ホーム間に合うか!?」
走者は一斉にスタートを切るが、三塁走者は先ほど死球で出塁した野々香だ。
野々香の弱点、足だけは遅い。
転がったボールを捕手が追う間に、投手の植引がホームカバーに入る。捕手がすぐさまボールを拾い上げ、ホームへ返球。
野々香はそれでも精一杯の速度を出しスライディングするが、ホーム上は微妙なタイミングだ。
この時、先までの動揺を引きずっているのか、タッチに行く植引の足の位置取りがわずかに悪かった。
スライディングする野々香の足に当たってしまい、足がもつれ、植引は体勢を崩す。
ドサァ。
幸い、致命的な衝突とはならなかったが、足がもつれた植引は、そのまま倒れ込む形となる。
セーフが宣告される。タッチプレーはあったが、コリジョンによる植引の走路妨害で、タッチは無効となった。
そして。
そのまま倒れ込むということは、そのまま植引がホームインした野々香に覆いかぶさるような格好になるわけだ。
ぽよん。
と言う音がするわけはないが、感覚的にはそんな書き文字が発生するように、腕が割と当たってはいけない場所に当たっている。
慌てて姿勢を正す植引だが、その瞬間どっと、歓声と怒声が上がった。
「ちょ、お前オイオイオイオイオイオイオイ!!!!!」
物凄い形相でベンチから最初に声を上げたのは、樹だ。
それに釣られるように有人も「それはダメだろ!早くどけ!!」とベンチを飛び出す。
こうなると会場もお祭り騒ぎだ。
『セークハラ!セークハラ!!』
再び起こるセクハラコールは先ほどの盛り上がりの比ではなく、球場全体を巻き込む音となって大きな波紋が広がっていく。
「すまん!わざとじゃないんだぁ!!信じてくれぇ!!」
こうなると植引ももうすっかり慌ててしまっている。長年投手経験をしていてもこんな展開は初めてだろう。
プレー中に起きた事故なので当の野々香が何一つ気にしていないのだが、首を横にブンブン振りながら全力で否定し始めた。
「いや、どう考えてもわざとじゃないのはわかるので。大丈夫なんですけど。なんだろこれ」
周りが騒ぐと逆に冷静になる、ということがある。基本こういう事態を気にもしない野々香の方が、逆に冷めてしまっている。
「みんなー!そういうのは無しでー!プレー中の事故ですよー!」
野々香が腕をブンブン振りながら歓声とコールをおさめようと周囲に呼びかけて行く。
たびたびのことだが、彼女はこういう雰囲気が苦手だ。まして、それがこうして試合の展開に影響するとなると、許容出来ない。
本気で嫌そうな野々香を見て察したか、コール自体は徐々に静かになる。
「セークハラ!セークハラ!」
「なんで樹くんもコールやってんだよ!」
「はっ、なんかムカついて思わず」
どさくさに紛れて野次に参加していた樹も黙らせると、やっと変な空気も沈静化していった。
が、しかし。
「なんだ……この気持ちは……」
ひとり、変な空気からそのまま抜け出せていない男がいた。
投手、植引だ。
彼はもうベテランの域なのでとうに結婚もしているし、別に女性に免疫がないとかそういうわけではない。
謎のコール自体は戸惑ったものの、普通ならちょっと接触したくらいで狼狽える事はない、はずだが。
そのまま二死二・三塁から試合は再開される。打者は8番・助守だ。
「普段なら何とも思わないはずなのに……試合の中でのうっかりハプニングなんて経験したことがなくて……」
未だにマウンドで植引はぶつぶつ独り言をつぶやいている。
経験したことがないのは当たり前だ。女子が紛れている事自体初めてなのだから、誰だって相手が女子でのクロスプレーなんぞ経験したはずがない。初体験のラッキースケベだ。
「だ、だめだ、二度と起こらない貴重な経験が出来たと思うと……」
随分と投球動作に時間がかかってしまっている。モタモタするとボークを取られかねないので、早く投げなければいけないが。
「なんか、なんか……ドキドキが止まらーん!」
カァーン!
完全に気持ちがどこかへ飛んで行ったまま投げた球はど真ん中高目にガッツリ浮く棒球。
決してパワーがあるとは言えない助守だが、これがあまりに打ちやすい球だったため、ドンピシャのタイミングでバットを振り抜けた。
そのまま打球はライトスタンドへ飛び込み、助守白世のプロ初ホームランとなる。
「おおおおおお!!」
ベンチで見守る野々香、樹、有人達が大喜びでガッツポーズを見せる。
「完全に植引さん動揺してたね。ベテランらしくないけど、ラッキーだったよ」
これで試合は6-0とニャンキースの大量リード。
そのまま植引は早々交代が告げられ、大きく開いた点差はさすがに埋まることなく、前日の真逆、7-2で今度はニャンキースが勝利した。
そしてその何とも言えないふわっとした空気が蔓延したか。
三戦目は野々香の登板日。
タッツの選手たちは野々香を見るやどこかそわそわした態度で試合に臨んでおり、またしてもエラーや凡ミスを繰り返す。
野々香自身もデーゲームの暑さに加え、前日に生まれた変な空気にやられ6回9被安打とやや打ち込まれたが、タッツの攻撃もちぐはぐで失点は2。そのまま6-4で勝利し9勝目を挙げた。
二軍にしては珍しくネットやまとめ記事で取り上げられる事件が起こったこのカードは、何とかニャンキースの勝ち越し。
これで43勝41敗と、貯金をわずかに増やし、タッツとのゲーム差も1つ縮める形となった。
姫宮野々香
投球成績 17登板 122回 27自責点 121奪三振 防御率1.99 9勝3敗
打撃成績 打率.286 18本塁打 63打点 出塁率.351 OPS.916




