1-24 今日も猫とともに
田舎の漁師町に引っ越してきた、通い猫のタロが唯一の友人の桜。
三十歳手前の桜の家に、男子高校生翔太が飛び込んでくる。
猫と緩やかな時を過ごしていた桜に吹き込んできた若い風は、桜を徐々に変えていく。
過去に囚われた桜と未来しか見えない翔太。そして今を生きる猫タロ。
二人と一匹は幸せを探して、生きていく。
柔らかな春の陽射しが、部屋に差しこみ、私を目覚めさせる。軽く、伸びをして、ベッドから降りる。どうやら、今日は天気が良いらしい。居間のカーテンを開けると、空一つない青空が広がる。そのまま窓を開けると波の音と潮の匂いが部屋に優しく流れ込んでくる。
キッチンのガス給湯器のボタンを押すと、ボボボと独特な音の後、火が付いた。
洗面器にお湯を溜めると、すぐに止める。
顔を洗った後、フェイスタオルをお湯に浸し、身体を拭く。短く切っている髪の毛を濡らすと、少量のシャンプーで髪を洗う。そして、残ったお湯で髪の毛をすすぐ。真夏の汗が多い時期でなければ、これで事足りる。
体がすっきりすると、厚手のTシャツにジーパンを身に付ける。この街に来てから、三十路前にして女という物を捨てた。女性としての化粧も美容もしていない。ただ、人として最低限の清潔さを保っているだけだった。
私は、三日分の衣服を二層式の洗濯機に入れて洗濯する。
ガタガタと洗濯機が回ると、朝食の準備を始めた。
安売りの八枚切りの食パンを、二枚トースターに入れると、冷蔵庫のレタスをちぎり、キュウリを切る。どちらも、無人販売の不揃い品である。
冷たい水で軽く洗うと、ボウルに盛り付けたまま、食べ始め、半分ほど食べ終えた時、パンが焼ける音が響く。安売りしていたマーガリンを薄く塗り、暖かいパンと冷たいサラダを口に運びながら、今日の予定を考え始めた。
洗濯を干した後、図書館に行こう。図書館は良い。夏は涼しく、冬は暖かい。その上、雑誌は読み放題、本も借り放題、映画も見ることができる。これでタダと言うのだから、いくらでも時間のある無職の私には、ありがたい限りだ。私は、この街に来るまで、ろくに本を読んでいなかったから、余計に本を読むということにハマっている。今はテレビも、携帯もない。ラジオすらない。そのため、静かな部屋の中で、本の世界に没頭するのが、何よりも楽しい。
洗い終わった洗濯物を脱水機に移し、待っている間に箒で部屋を掃き始める。掃除機はない。値段が高いし、電気代も必要になる。それに比べて、箒は良い。お金もかからないし、運動になる。そして何より、時間がかかる。基本的にやることのない私には、時間がかかるというのは、非常に大事な要素になる。
掃き掃除が終わるころ、お客がやって来た。
にゃー
キジ模様の猫である。
ここは漁師町ゆえ、野良猫が多い。そして、それが当たり前のように、住民も特に気にしないし、猫たちも気にしない。
そして、知り合いの一人もいない私にとって、唯一のお客さんである。
「はいはい、ちょっと待ってね」
自分の声がちゃんと出ているか確かめるように、猫に話しかけると、昨日の焼き魚の残りを持ってくる。アジをただ焼いただけ、塩も醤油も付けていない。残った魚をこの子用にするため、いつも私は、自分の食べる分だけの身を取り分け、そこに醤油をつけて食べている。
安っぽいプラスチックの皿に残しておいた身を、水が入った深皿と一緒に庭に置く。すると、猫はこちらを見て、『食べて良い?』と目で訴えてくる。
「どうぞ。食べて良いわよ」
私がそう言うと、猫は嬉しそうに一つ鳴くと皿に頭を突っ込んだ。
その間、私は洗濯物を干す。三日分とはいえ、私一人しかいない。それに下着類とTシャツにタオルくらいの物である。あっという間に終わってしまう。
それから、出がらしの麦茶パックで作った薄い麦茶をコップに入れて、縁側に座り、一服をつく。
その隣で『ご馳走様』と言わんばかりに、キジ猫が丸まった。そこは陽の光で温まっている。
私は優しくなでると、目を閉じて気持ち良さそうにしている。この猫はどこかの外猫なのか、ただ人懐っこい野良猫なのかわからないが、ひと月ほど餌付けをしたら、猫の方からすり寄ってきた。
今は毎日のようにやってくる。
春風に揺れるタオルを見ながら、流れる時間を見送る。
近くの学校の鐘が鳴った。おそらく、三時限目の終わりを知らせる鐘だろう。テレビや携帯だけでなく、時計もないこの家で唯一時間がわかるものだった。
その音を聞いた猫は、ぱちりと目を開けると、大きく伸びをした。
「もう行くの?」
猫はひとつ鳴くと、ゆっくりと立ち去って行った。
それを見送った私は、古い自転車に乗り、図書館へ行き、借りた本を返し、DVDを借りて視聴覚室で古い映画をぼんやりと見る。
本を借りた後、三時過ぎには家路につくと洗濯物を取り込む。海風に揺れた洗濯物は良く乾いていた。
それほど多くない洗濯物を取り込んでいると、なんだか外が騒がしかった。近くに高校があり、高校生の通学路である。時々、大きな声で話しているのが聞こえる。
しかし、今日は何やら違っていた。
大きな声に追われるように、男子高校生が裏庭に入ってきた。
「あ、すみません」
私を見たその高校生は、不法侵入を素直に謝る。まるで、家に人がいることに驚いたようだった。そして、謝りながらも、後ろを気にしている様子だった。何かに追われて、ここに来たのだろう。
そう思った私は、思わず体が動いていた。
「上がりなさい。靴も持って」
「え、でも」
「早く!」
逃げてきた男子が家の中に逃げ込むと、私は洗濯物を取り込むフリを続ける。
すると、先ほどの男子と同じ制服の男の子たちが、裏庭に入ってきた。
私は慌てず、用意した言葉を吐き出す。
「なんなの、あなたたちは。さっきも男の子が通り抜けて行ったし、どこの学校?」
「あ、なんだ。おばさん」
「おい、あいつ、通り抜けたってよ」
「学校にチクられたら、面倒だ。行こうぜ」
三人組の男子高校生は、なにやら文句を言いながら、庭から立ち去った。
遠くに行ったのを確認すると、急に力が抜けて縁側に座り込んだ。
心臓がどくどくと波打っているのがわかる。ゆっくり、息を吸う。
「大丈夫ですか?」
落ち着きそうなところで、急に声をかけられて、再度心臓が跳ね上がり、汗が噴き出る。
「だ、大丈夫よ」
それだけ吐き出すと、自分を落ち着かせる。
大丈夫、大丈夫、この子はあの人じゃない。あの子たちも、あの人じゃない。
自分にそう言い聞かせていると、目の前にコップが現れた。
「水を……勝手にコップを使いました」
男の子が水を差しだしてくれた。
私は塩素臭いぬるい水をゆっくりと飲みこんだ。
「ありがとう」
「いえ、お礼を言うのは僕の方です。ありがとうございました」
「追われていたみたいだけど……」
「あいつらが中学生にカツアゲしていたから、注意したら逆ギレして」
「そうなの、だったらもう少しここにいた方が良いわ」
にゃー
朝と同じキジ猫がやって来た。縁側の一番暖かい場所で一つあくびをすると、丸まった。
「こいつ、駄菓子屋のタロじゃないか?」
「あら、この子、名前があるのね? タロか、良い名前ね」
私はいつものように、タロの背中を撫でていると、緩やかな日常が戻ってきた気がした。
すると、男の子が名乗った。
「あ、僕は橘翔太と言います」
「しば.……中原桜よ」
「勝手に入って来てすみませんでした。まさか、住んでる人がいるとは思わなかったので」
「こんなボロ屋に住んでるとは思わないもんね」
安さ優先で購入した家の上に、最低限の補修しかしていない。知らない人が見れば、空き家に思えるだろう。でも、無駄に人に接するつもりがないから、逆にそれがありがたい。
「いや、そういう意味じゃなくて、ずっと空き家だったし、表札もない、夜になっても明かりが見えないから……」
「別に気にしてないから、大丈夫よ」
そんなことより、久しぶりに人と会話をして気分が良かった。
だから、翔太の質問に素直に答えてしまったのだろう。
「桜さんって、今日はお休みなんですか? あ、在宅勤務ですか?」
「私は働いてないの。無職よ」
「専業主婦ですか?」
「主婦でもじゃないわ。私は今、独身だから」
「じゃあ、どうやって生活しているんですか?」
「……貯金を切り崩してるのよ」
「お金持ちなんですね」
「お金があったら、もうちょっといい家に住んでいるわよ」
私は自傷気味に築数十年家を指さした。
「でも、貯金が尽きたら、どうするんですか?」
「尽きたらどうするかっていうか。お金が無くなるのを待っているのよ」
「どういうことですか?」
「貯金が無くなったら、死ぬのよ。私」
私がそう言うと、タロは大きく伸びをした。そこで、私は心の奥底に秘めていたことを口にしていたことに気が付いた。
なぜ、こんなことまで、初めて会った男子高校生に話してしまったのか自分でも不思議だった。
いつものようにタロを撫でていたのと、久しぶり人と会話したこと、何よりも翔太の声が私にとって心地よく、無意識に自分のことを話してしまったようだ。
翔太は私の言葉にキョトンとしている。
「なんで、死ぬんですか? 働けばいいじゃないですか? 今、お金に困っていないなら、簡単なバイトでもいいんじゃないですか? そんなに働きたくないんですか?」
「別に働きたくないわけじゃないのよ。これは、私が私に課した罰なのよ」
「罰? 何の罪に対する罰ですか?」
そう、罰は罪を犯した代償。それは、私の弱さゆえに犯してしまった罪。
「人を殺したのよ、四人も」





