外伝⑥
「──私たちの婚約を、なかったことにしてほしいのです」
そう言って、 名ばかりの婚約者は婚約の解消を伝えてきた。
公爵家と懇意にしていた伯爵家の令嬢で、顔を合わせる機会が何度かあった。家柄や評判も問題なく、勧められた婚約ではあったが、彼女を将来の伴侶にするのに断る理由はなかった。
貴族同士の結婚において、恋愛感情は二の次だ。
それでもいずれ夫婦になるのだから、それなりの関係は築いておいて損はない。ダミアンは婚約者として、最低限の付き合いはしてきたつもりだ。
しかし、二人の婚約は白紙となった。
一般的に、格下である家門の令嬢から破談を申し出ることはない。婚約を解消できる余程の理由がない限り、公爵家を敵に回そうとは思わないからだ。
だが、彼女は両親の許しを得て、ダミアンとの婚約をなかったことにしてほしいと言ってきた。
破談の原因は尋ねなくても分かった。
──ダミアンの姉、イザベルである。
イザベルは国中の貴族たちが集まったパーティーで、貴族令嬢たちから糾弾された。
そこには婚約者の姿もあった。彼女が、同じ伯爵令嬢として王太子の婚約者となったフィオーナを慕っていたことを知ったのはその時だ。
王太子の婚約者に対して酷い態度を取ってきたイザベルに批難が集中すると、味方する者は誰もいなかった。
その日の出来事は、国中に広く知れ渡った。
おかげで、公爵家から距離を置く家門や、取引のあった商会がいくつか離れていった。王室から睨まれたくないと思ったのだろう。
婚約が破談になると、ダミアンは行く先々で笑い者になった。表立って言われなくても、陰口を叩かれているのは知っていた。公爵家の長男として惨めだった。
仲良くしていた友人たちも離れていき、また一人になった。
公爵家の傍系からは、イザベルを修道院に入れてはどうかと提案された。このままでは、いつかイザベルがグラント公爵家を破滅に追いやるのではないかと心配してのことだった。だが、公爵の逆鱗に触れることになり、提案してきた者たちは公爵家の出入りを禁じられた。
当然、ダミアンも反対した。イザベルが自分たちの元から離れていくなど、考えたことすらなかったからだ。
──あの日、パーティー会場で孤立するイザベルの姿に、ダミアンはほくそ笑んだ。
オーティスの味方についたのも、彼がイザベルを突き放すと分かっていたからだ。そこへ、追い打ちをかけるように父親に咎められ、物置部屋に入れられたと聞かされた時、ダミアンは歓喜で震えた。
世間からも見放されて、行き場を失ったイザベルに残されたのは自分だけだ。公爵家から追い出されないために、姉が最後にすがりついてくるのは後継者である弟の自分だと高を括っていた。
けれど、それが間違いだと気づいた時は、すべてが遅かった。
イザベルは最後の力を振り絞ってオーティスの元へ行き、そこで怪我を負って命を落としかけた。
散々、他人を振り回してきたあの姉が、生死をさ迷っているなど信じられなかった。
……一体、どこで拗れてしまったのか。
思い出すのは、幼い頃イザベルに向かって伸ばした手を振り払われた時の痛み。広い屋敷の中で一人ぼっちにされた悲しみ。押し潰されそうな寂しさを、必死で耐えてきた虚しさ……。
それでも、切り離すことはできなかった。
どこにいても目立つ姉の姿は、嫌でも目についた。
次第に、相手にしてくれないイザベルを振り向かせる方法として、ダミアンは姉と対立するようになった。お互い、顔を合わせるたびに言い争った。
本気で怒鳴ってくるイザベルに、それさえ嬉しいと感じるようになっていた。
イザベルの金色の瞳に、自分の姿が映るなら何でも良かった。
他は、何もいらなかった──。
『貴方の姉は──死んだの』
イザベルの無事を知らされた時、やはりあの姉が死ぬわけがないと思った。
しかし喜びもつかの間、イザベルは別人のように変わってしまった。死んだと思ってくれて良いと言って離れていく姉の瞳に、自分は映っていなかった。
初めて、言いようのない絶望が襲った。
……これまで自分のしてきたことは何だったのか。
言い争わなければこちらを見てはくれなかったではないか。愛情を求めても、突き放したではないか。──嫌わなければ、存在すら認めてはくれなかったではないか。
本気で、嫌えるわけがなかったのに。
本気で、死んでほしいなどと望んだことは一度もなかったのに。
けれど、イザベルは変わってしまった。
それまで執着していたオーティスからも離れ、捕まえておかなければ、どこかへ行ってしまうような危うさがあった。
ストラッツェ公爵家の公子リオネルがいなければ、イザベルは何の未練もなく屋敷を出ていっていたかもしれない。家族を捨てていった母親のように。
ダミアンはそれが恐ろしかった。姉が、手の届かない場所へいってしまいそうで怖かった。
嫌われるより、ずっと。
それから、どんなに毛嫌いされても近くにいた。見舞いの品を贈ってご機嫌を取り、護衛だって自ら願い出た。
変わってしまった理由を、少しでも知りたかったのだ。
もし、あれが真実だとしたら、目の前にいる女性は一体誰なんだろう。
外見は姉のまま、中身だけが別人になってしまうことなど、ありえるのだろうか。
不安に駆られる中、イザベルを巡って王室を巻き込んだ事件が起きた。イザベルがフィオーナを毒殺しようとしたというのだ。
以前の自分だったら、姉を疑っていたかもしれない。
しかし、父親から過去に起きた王太子暗殺の事件の真相を聞かされ、考えを改めた。それからストラッツェ公爵家と協力し、国王個人に圧力をかけた。おかげで、無事に姉の無実を晴らすことができた。
それだけでなく、過去の事件が明らかになったことでイザベルの名誉は回復し、今では王太子を救った英雄とまで言われるようになった。
真実が国中に拡散されると、公爵家から離れていった家門や商会は泣きついてきたが、公爵家が被った損害を考えると、彼らを受け入れることはできなかった。その後、一部の商会は跡形もなく消え、とある家門は二度と社交界へ顔を出すことはなかった。
同じく、元婚約者も必死に謝って、白紙にした婚約を戻したいとすがりついてきたが、一度壊れた関係を再構築することは難しかった。婚約を断ると、彼女は二回りも年の離れた男性の元へ嫁いでいったという。彼女の立場を考えれば、結婚できる相手が見つかっただけでも何よりだ。
ダミアンは、グラント公爵家に新しい兆しの風が吹き抜けるのを感じた。
イザベルはリオネルと婚約し、両公爵家の繋がりが強化されたことで、問題を抱えた王室には脅威になるだろう。
そして、自分たちの関係も以前から比べればかなり変わった。何より、イザベル自ら歩み寄ってくるようになったのだ。
そんな時、神妙な面持ちをしたイザベルが、ダミアンに向かって謝ってきた。
「貴方にも謝らないといけないわね。……今まで、申し訳なかったわ。姉として、何一つしてあげられなくて。家族として一緒にいなければいけなかったのに、幼い貴方を一人にしてしまったわ。酷い姉で、ごめんなさい……」
「────」
その瞬間、自分の姉はいなくなったのだと悟った。
本物だったら、頭を下げて謝ったりしない。
本物だったら、他の姉と同じように振る舞ったりしない。
本物だったら、その瞳に自分を映すことはなかったはずだ。
もう二度と姉に会うことも、言葉を交わすことも、言い争い、喧嘩をすることもできなくなったのだと知った。
同時に、もう姉を前にして虚勢を張る必要もなくなったのだ。自分を縛り付けていた姉の影から解放された気がして、堰を切ったように涙が溢れ出して頬を濡らした。
……自分の行いがどんなに愚かで、馬鹿げていたのか。
それに気づかされるまで、随分と時間がかかってしまった。そして、それを謝りたい相手はもうこの世界にいない。姉は、何も言わず旅立ってしまった。
代わりにイザベルとなったその人は、自らの正体を明かすことはなかった。リオネルと父親には伝えていたようだが、ダミアンには何も話してこなかった。
もちろん、騙すつもりがないことは知っている。
彼女は彼女なりにイザベルになったことを受け入れ、家族の一員になろうとしてくれていた。
最初は慣れなかったそれも、一緒に過ごすうちに元から仲の良い姉弟だったような錯覚さえ覚えるようになった。
馬車に揺られながら、ダミアンは目を輝かせて外の景色を見つめるイザベルに声をかけた。
「姉上、公爵領に着いたら街へ出てみませんか?」
「いいわね。どんなお店があるのか楽しみだわ」
イザベルはダミアンに向かって笑った。その顔で見る、初めての笑顔だった。
──今だけは錯覚だろうが何だろうが、騙されていたい。
卑怯だと言われても、本当のことを受け入れるにはまだ恐ろしく、受け止められる自信がなかった。それでも、いつかは真実を知る時がくるのだろう。
それまでは、どこにでもいる仲の良い姉弟のように過ごしたい。
これまで享受できなかったすべてを。
もう少し、もう少しだけ……。
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