嫌われ者令嬢を愛した者たち⑥
「幸い発見が早かったので、今日一日点滴で様子を見て、問題なければ明日にでも退院できると思います」
「分かりました、ありがとうございます」
救急車に乗って近くの病院に搬送されたアキは、まだ目覚めてなかったものの、点滴を受けてから顔色が戻ってきた。応急処置も良かったと医者に褒められた。
個室の病室に移動し、ナツキはアキに意識が戻るのを待った。看護師の説明では、じきに目を覚ますだろうと言っていた。
けれど、仕事の疲れが出ているのか、アキは深い眠りについていた。
ナツキはパイプ椅子に座り、彼女が起きるのを待った。ただ時間だけが刻々と過ぎていく。駅のホームで寝ていたせいか、それとも気が高ぶっているせいか、眠くはならなかった。
数時間が経ち、空が明るくなってくると看護師が点滴の交換や、検査に現れた。アキの熱を測って確認した看護師は、問題ないことを告げると、カーテンを開いてから出て行った。
外では朝日が昇り始め、静かだった病院にも人の気配を感じるようになった。
「……ん、……」
ベッドから微かな声がして傍に寄ると、アキが目を覚ました。そして、その時になってようやく自分が成長した彼女の前にいることに気づいた。
「……アキ? 大丈夫か……?」
真っすぐに伸びた黒髪がシーツに広がり、前髪の隙間から細い目が微かに開く。
「──……夢を、見ていたの」
虚ろな目で天井を見つめたまま、アキは掠れた声で話し始めた。
「……中庭で、お父様とお母様が仲良くお茶をしていたわ。……そこに、私と弟が駆け寄って、二人とも私たちを抱き締めてくれたのよ」
それが偽りの夢だと分かっていても、二度と目覚めたくないと願ってしまうほど幸せな夢だった。
そう言いながらも淡々と話すアキに、ナツキは息を呑んだ。
長い間、近くで過ごしてきたせいだろうか。すぐに馬鹿げた話だと天井を睨みつける彼女に、アキではない別人の面影が重なって見えた。
「まさか、イザベルなのか……?」
その言葉遣いも、自分の発言すら見下した態度も、アキがどんなにイザベルを真似ても、ここまで似せることはできない。
ナツキがその名を口にした瞬間、アキはこれまでにないぐらい目を見開いた。アキの顔で、そんな表情が見られるのは新鮮だ。普段は、驚くこともしない少女だったから。
すると、アキだと思っていた女性は、慌てて上体を起こし、ナツキの腕を掴んだ。
「なんで……、──っ、貴方……っ! 貴方が、なぜここにいるの!?」
無理に起き上がったせいで眩暈を起こした彼女は、けれどナツキに詰め寄った。
「おい、まだ無理するな! 病院に運ばれたばかりだぞ!」
「そんなこと、どうでもいいから……っ。貴方……アキは、アキはどうしたの……!? 私がイザベルだってことを知っているのはリオネル、貴方しかいないじゃない!」
「なんで、それを……」
咄嗟に彼女の体を支えたものの、捲し立てるように質問されてナツキは言いよどむ。自分の身に起きたことすら分かっていないのだ。無理もない。
しかし次の瞬間、イザベルはナツキの頬を張っていた。
病室にバチンッという豪快な音が飛ぶ。
「──痛ぁ、なんで叩く……っ」
「貴方がどうしようもない馬鹿で、甲斐性なしだからに決まっているでしょう!? 何のために私がアキと入れ替わったと思っているの!?」
「それは一体どういうことだ、入れ替わったって」
「……っ! と、とにかく早く戻らないと、戻れなくなるわよ! 二度とアキに会えなくてもいいのっ!?」
眠っている間にアキの記憶を共有したのだろう。
イザベルは、激しい剣幕でナツキを責め立てた。
「……でも、それじゃお前は」
「オーティスに愛されないのなら、あの世界にいても意味ないじゃない。……だから、貴方が心を寄せている女性がどんな人なのか、変わってあげただけよ。身代わりに愛されるなんてごめんだわ。……うまくいくとは思わなかったけど。そういうわけだから、もし戻れたらアキに伝えて。──ごめんねって。私のせいでこうなったのだから、貴女は何も気にしなくて良いって」
まるで、全てを知っているかのようなイザベルに、本当はもっといろいろ訊きたかった。
今、自分がいるこの世界は現実なのか。
こちらでのナツキは生きていたのか。この体の主こそ成長した自分なのか。
だが、訊いたところで面倒臭がりのイザベルに「知らないわよ」と一蹴されるのが目に見えていた。
唯一、イザベルに叩かれた頬の痛みだけは本物だった。それだけ分かっただけでも十分だ。
ナツキは喉まで出かかった言葉を呑み込み、イザベルから手を離した。正確にはアキの体だが、中身が違うだけで彼女だとは思えないから不思議だ。
「分かった。イザベル、その……ありがとう」
「貴方がお礼を言うなんて気持ち悪いわ。憎まれ口を叩かれたほうがマシよ。……またアキに酷い仕打ちをして泣かしたら許さないから」
「ああ、そんなことは二度としない」
ナツキが心の底から誓うと、イザベルは表情を緩めた。
今までで一番穏やかで、すべてから解放されたような顔に、彼女の恋が完全に終わったのだと理解した。
肩の荷がひとつ下りた気がして目を閉じると、急激な眠気が襲ってきた。そこへ、イザベルの手がナツキの頭に置かれた。
「……二度と会うことはないけれど、元気でね。それから、帰ったら……下にある物を、……して」
意識が遠ざかっていく中、最後まで頼み事をしてくるのがイザベルらしいと思った。
再び白い霧に覆われた世界へ戻ってくると、それまで自分が入っていたナツキが目の前に立っていた。
彼は何も言わなかったが、ただリオネルの体に戻ったナツキに微笑むと、右腕を上げて霧の中へ指を差した。
話し掛けたかったが声が出なかった。代わりに、リオネルは同じく笑って駆け出した。
走っている感覚はなかったが、足元から霧が晴れて求めていた人物がそこにいた。
「──……、君、……ナツキ、君!」
姿は違っても、彼女を間違うはずがない。
どんな仕草や表情だって愛しかった。これが、死を乗り越えて与えられたチャンスなら、今度こそ掴んで離さないように。
「──……泣くな、アキ。……お前を二度と泣かせないと、イザベルと約束してきたばかりなんだ」
「ナツ……っ、目が、覚めて……馬鹿っ、貴方、本当に……っ、良かった……!」
目を開くと、涙でくしゃくしゃになったアキがいた。
どのぐらい泣かせてしまったのだろう。
どのぐらい一人にさせてしまったのだろう。
リオネルは腹部を襲う激しい痛みを堪え、手を伸ばしてアキの頬に触れた。イザベルの姿であっても、自分の知る彼女だった。
「好きだ、アキ。あの時から、本当は好きだったんだ」
「……リオ、……ナツキ君」
「リオネルでいい。お互い姿は変わったけど、どんな姿になっても今度こそお前を大切にするから、ずっと傍にいてくれ。──愛してる」
この状況で、この状態でズルいと言われても構わない。好きな相手を手に入れるのに、なりふり構っていられない。イザベルもこんな気持ちだったのだろうか。
「私が、もっと素直になっていたら……あれが本心じゃないって知ってたのに! 分かっていたのに……っ」
「俺は大丈夫だから、お前の気持ちが知りたい」
「──っ、そんなの!」
いくつも重なった涙の痕をなぞり、リオネルはアキの頬に顔を近づけた。
初めて唇が触れた時とは違い、視線が絡み合ってお互いに口づけを求めた。触れた唇が深く重なると、涙の味がした。
しばらく蕩けてしまいそうな甘い口づけに酔い痴れていると、頭上からゴホンという咳払いが聞こえて、二人は慌てて離れた。
★ ★
グラント公爵邸の庭隅で、赤く燃えた炎がバチバチと火花を散らしていた。
「愛する人をその気にさせる恋愛書、人を魅了する魔法書、それから相手を呪う魔術書に、催眠術や魂を入れ替える禁断書まで……イザベルはどうやってこれを手に入れたのかしら」
腹部を刺されて重傷を負っていたリオネルが動けるようになると、彼は夢で見た出来事を話してくれた。
私の中にイザベルが憑依していた話は驚いたが、彼女のベッド下から見つかった書物や、黒く焦げた術符を手にすると妙に納得してしまった。
ただ、それらが本当に発動したのかは分からない。調べる方法が今のところないのだ。
「イザベルはよく異国の商人を屋敷に招いて買い物をしていたらしいから、その時に買ったのかもな」
「ああ、なるほど。私が部屋中探しても見つからなかったやつだわ」
両手で運べるぐらいの箱に収められたそれらは、広い邸宅の中で孤独に過ごすイザベルを慰めてくれていたのだろう。
禁断書に関してはリオネルと相談し、グラント公爵には伝えた。その時に私とイザベルの魂が入れ替わったことも話した。
公爵は動揺こそ見せなかったが、娘のしてしまったことに深く頭を下げ、またすべての責任は父親である自分にあると伝えてきた。
ちなみに箱の中身はイザベルの希望通り燃やすことにした。公になれば異端者や反逆者と見なされ、家門の存続も危ぶまれたからだ。
イザベルは本物の悪女だったのかもしれない。
彼女に人生を狂わされた人は沢山いたから。
実の妹に毒を盛ったフェランドは投獄され、毒から回復したフィオーナの証言もあって彼は貴族裁判にかけられ、鉱山での生涯強制労働が言い渡された。
また兄の愚かな行動により、マウロ伯爵家は三年間の社交界活動を禁じられ、当然フィオーナの婚約も白紙になった。ただ、彼女に関しては兄に代わって謝罪に訪れたことから、公爵家の紹介もあって幸せな家庭を築くことになる。
問題はリオネルを刺した、王太子オーティスの処遇だった。彼はあの場で取り押さえられ、公爵や兵士たちのおかげで私は無事だった。
現在こそ王宮の塔に幽閉されているが、オーティスには他に兄弟姉妹がおらず、王位継承が問題になっていた。
そのせいで、私たちも大人しく過ごしている他なかったのである。
両公爵家はすぐにでも廃嫡にするべきだと訴えたが、それでは次の王太子は誰になるかという話だ。
「ちょっと待った。それまだ燃やさないでくれ」
「リオネル、まさか貴方……」
燃える火の中へ入れようとしていたのは、例の禁断書だった。疑うような目でリオネルを見ると、彼は全力で否定した。
「やましいことは考えてないぞ。ただ、それがあれば解決するじゃないかと思って」
「誰を呪い殺す気?」
「殺さないって。でも、オーティスが廃嫡されると国王夫妻は傍系から養子を取って、新たな王太子を冊封する予定らしい。その傍系がストラッツェ公爵家だっていうのが問題なんだ」
「……それは問題ね」
つまりオーティスがいなくなると、次の王太子として名前が挙がるのはリオネルかもしれないということだ。リオネルは「だろ?」と、真面目な顔で同意を求めてきた。
「私たちが国王と王妃なんて、柄じゃないわ」
「まったくだ。できれば誰にも邪魔されず、お前と悠々自適な暮らしがしたい。だから、オーティスにこのまま退いてもらっては困るんだ」
「そうね。でも、どうするの?」
私は持っていた禁断書をリオネルに渡した。すると、彼はニイとイタズラな笑みを浮かべ、楽しげに本を捲った。とても話題の相手に殺されかけたとは思えない。
「オーティスは呪われていたんだ。俺を刺したのもそのせいだってことにする」
「……イザベルの呪いね」
「後は、この本を使って治療するんだよ。オーティスに執着していたのも、本当は呪いを解くためだって言えば皆も納得するだろ? なにせ今やイザベルは英雄なんだから」
「開いているページ、治療というより洗脳って書いてあるんだけど。それに私、魔術なんて使えないわよ」
「それは本物に任せる。大陸中を探せば一人ぐらいいるだろ」
随分と適当なことを言ってくれるが、リオネルの目はすでに広大な大陸に向いていた。そういうところは、子供の頃と変わっていない。私が惹かれたところでもある。
「分かったわ、お父様が帰ってきたら相談しましょう」
私は少しずつイザベルの生活に馴染むため、グラント公爵を「お父様」と呼ぶようにした。弟のダミアンとも、短い時間ではあるが会話をするようになった。
そうやってイザベルになる準備をしている。
「それ以外に残したい物はある?」
「んー……その恋愛指南書は気になる」
「こういうのって、実践あるのみなんじゃない? 経験に勝るものなんてないじゃない」
「俺はときどき、お前が怖い。無自覚なお前が怖い!」
「馬鹿なことを言ってないで燃やすわよ」
私は駄々をこねるリオネルから本を奪い、必要な物以外を火の中に放り込んだ。
イザベルに抱いていた罪悪感や嫉妬も一緒に──。
「……リオネル、やっぱり私のこともイザベルって呼んで。私がアキだったのを知っているのは貴方だけでいいの。その名前を、他の人には知られたくないわ」
二人の間だけで呼び合っていても、誰かの耳には入ってしまうだろう。人によっては、名前について尋ねてくる者もいるかもしれない。自分たちだけの秘密にすることは難しい。
「そうか、分かった。……それじゃ、ベルって呼んでもいいか? 区別するわけじゃないけど、イザベルって呼ぶと、なぜかアキに憑依したイザベルの姿が浮かんできて」
「ふふ、いいわよ。あっちでイザベルに叩かれたのよね。見られなくて残念だったわ」
想像しただけで笑ってしまうと、リオネルの両腕に拘束された。
「俺は叩かれるなら、お前の方がいい」
「私にそんな趣味はないけど」
いつの間にか後ろから抱き締められる形になり、二人はお互いの体温を確かめながら足元の火を眺めた。
「落ち着いたら世界を回ってみないか?」
「面白そうね。こっちの世界には魔法や魔術があるんでしょ?」
「ああ、本物のドラゴンもいるらしい。癒しの力を持った光の王女がいる国や、職人が集まった閉鎖的な国や、貿易に栄えた南の大国や……行きたいところは山ほどある」
「そう、それは楽しみね」
すべてを観光するには時間が足りないぐらいだ。
それでも二人一緒なら、どんな時でも忘れられない瞬間になる。
私はふとリオネルの腕を握り、零れ落ちそうになる涙を堪えながら口を開いた。
「リオネル……私を愛してくれて、ありがとう」
──嫌われ者の私を。
本気で愛してくれたのは、きっと彼だけだ。
私が感謝の言葉を伝えると、リオネルは声を詰まらせ、答える代わりに強く抱き締めてきた。
今度こそ離れることのないように。
ゆらゆらと揺れる炎だけが抱き合う二人を見守っていた。
【END】





