嫌われ者令嬢を愛した者たち⑤
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──遠くから、誰かに呼ばれた気がした。二度と呼んではくれないと思っていた相手に……。
しかし、振り返ってみても、そこに広がっていたのは白い霧に覆われた世界だった。
「……キ、って、おい、ナツキ!」
「──っ!」
小さな手に肩を揺らされ、ナツキはハッと我に返った。
放課後の教室、見慣れたクラスメイトたちが周りを取り囲んでいた。
「ボーッとして、大丈夫か?」
声を掛けてきたのは仲の良い友達だ。なのに、名前が思い出せなかった。
それだけではない。クラスメイトたちの顔が黒く塗りつぶされ、どんな奴だったのかも忘れてしまっていた。
だが、そこであった出来事だけは、はっきりと覚えている。
「あ、分かった! またアキチャンのこと考えてたんだろ~」
「ナツキはアキチャン大好きだもんなぁ」
後になって思えば、なんてくだらない冷やかしだったんだろうと呆れる。
「なあ……お前、あの幼馴染みとは付き合ってんの?」
でも、この時はまだ未熟な子供だった。クラスメイトにからかわれて、恥ずかしさのほうが勝ってしまった。
「アキ? べっ、別に好きじゃねーし! 家が近所っていうだけで、一緒に遊んでただけだし。だいたい、自分よりでかい女、誰が好きになるかよ!」
──違う、そんなことを言いたかったわけじゃない。
本当は付き合いたいぐらい好きで、一緒にいるだけで嬉しい相手だって……。でも、その場の雰囲気に呑まれ、心にもないことを言ってしまった。
けれど、まさかそれを本人に聞かれているなんて思いもしなかった。
「──私なら大丈夫。いまさら何を言われても平気だから」
二人きりになった教室で、アキは目も合わせずそう言った。
彼女だけは鮮明に覚えているから分かる。平気だと言いながら、いつも澄ました態度のアキが、今にも泣き出しそうな顔をしていた。
傷つけるつもりはなかった。謝りたかった。誤解だと教えたかった。本当の気持ちを伝えたかった。しかし、話しかけようとするたびに避けられ、胸が引き裂かれそうだった。
幾度となく襲ってくる後悔と、自分の不甲斐なさに頭を掻きむしった。
そんな時に限って転校することになり、アキと離れることになった。
家から荷物が運び出され、いよいよ生まれ育った町から離れるときが来ても、最後の挨拶さえさせてもらえなかった。姿を見せてくれることもなかった。
転校してからも思い出すのはアキのことばかりだった。新しい環境下で過ごしても、あの日の出来事がふとした瞬間に蘇ってきて、眠れなくなることもあった。
しばらく憂鬱な日々を過ごしていたが、やはり居ても立ってもいられず、ナツキはアキに会いに行った。
電車を乗り継ぎ、バスに乗って、とにかく無我夢中だった。
また会えるかと思ったら嬉しさで胸が弾んだ。
どうやって声をかけようか。
驚かせてしまうだろうか。
そんなことを考えながら、青に変わった横断歩道を渡っていた。……浮かれていたのかもしれない。猛スピードで右折してきた車に気づかず、そのまま撥ねられた。衝撃が大きすぎて痛みを感じる間もなかった。
ただ早くアキに会いたい、と。
視界が真っ赤に染まった直後、ナツキとしての記憶はそこで途切れた……。
もし、またお前に会ったら──あの日のことをきちんと謝って、今度こそ自分の気持ちを正直に伝えたい。
「──……さん、お客さん!」
今度は大きな手に肩を叩かれ、ナツキは目を覚ました。
最終電車が発車した人気のない駅のホーム。深夜だというのに、汗がじっとりと滲み出る暑さだった。
「ここで寝られちゃ困るよ」
「あ、すみません……」
年配の駅員が、汗の光る額を搔きながら言ってきた。ナツキは慌ててベンチから立ち上がった。どうやらここで眠ってしまったようだ。
「なんで俺、こんな場所に……痛っ」
その時、腹部に鋭い痛みを感じて反射的に手で押さえた。けれど、痛みはすぐに消えて何ともなかった。
「大丈夫かい? どこか具合でも……」
「い、いえっ、大丈夫です!」
心配そうに顔を覗き込んでくる駅員に首を振り、ナツキは慌ててホームを離れ、駅のトイレに駆け込んだ。
「はぁ、はぁ……一体何が……」
誰もいない駅のトイレで洗面台の前に立ったナツキは、鏡に映る自分の顔を見つめた。
黒髪の短髪に茶色の瞳をした、ごく普通の青年だ。事故で命を落とさなければ、こんな姿に成長していただろうか。
どこか幼い頃の自分の面影がある青年を眺めていると、額に古い傷跡があった。気になって傷跡をなぞると、妙な気分になった。
その時、額に触れた手のひらに違和感を覚えて見下ろした。
「なんだ、これ」
そこには、大切そうに握られたメモ用紙があった。
不思議に思って開くと、とある住所が書かれていた。
その住所に身に覚えはない。ただ、書かれた住所に向かうため、この駅へたどり着いたことだけは分かった。
ナツキはズボンのポケットからスマホを取り出し、住所を入力して検索した。便利な世の中だ。あちらの世界とは大違いだ。
「なんで俺、普通に使えてんだろ」
夢の中にしてはやけにリアルだ。
ただ、そんなことよりも早く目を覚まして戻らなければいけないのに、意思とは関係なく体が勝手に動いた。
行先を確認したナツキは、駅の改札を出てスマホの地図を見ながら歩き出した。
目的地に向かって進んでいく間、体の持ち主である青年に何があったのか記憶を辿る。
どうして先ほどの場所で眠っていたのか、あの住所は誰が書いたのか、これから向かう先に誰が待っているのか。
必死で頭の中を探ったが、これと言った情報は得られなかった。
電灯が点々としている住宅地を歩いていくと、途中にあったコンビニから若いカップルが出てきた。
そこへ、近くから救急車のサイレンが聞こえた。
「最近救急車で運ばれる人が多いよね」
「熱中症で倒れる人が増えてきてるしな。夜でもクーラーはつけて寝ないと危険だって言うし」
この時期ではよくある会話だ。
なのに、胸がざわついて住所の書かれたメモ用紙を強く握り締めた。
『帰ったときに倒れたの、たぶん熱中症だったと思う』
彼女が、そんな話をしてくれた。
夏の、蒸し暑い日に倒れて、そのまま死んだのかもしれないと。
これは偶然なのか。
「……アキ?」
誰かが見せてくれた、都合の良い夢なのか。それとも、現実に起きていることなのか。考えることはいろいろあったが、それより先に足が動いていた。
ナツキは何度も転びそうになりながら、地図が示す場所に向かって走った。激しく脈打つ鼓動に、心臓が口から飛び出しそうだった。それでも足を緩めることなく、住宅地を駆け抜けた。
そして辿り着いたのは、古びたアパートだった。ナツキはメモ用紙に書かれていた部屋に向かった。
辺りは深夜とあって静まり返っている。ナツキは逸る気落ちを抑えながらチャイムを鳴らした。
思い過ごしであってくれと願う。
けれど、嫌な予感がして全身に緊張が走った。
ドアノブにそっと手をかけると、施錠されていなかったドアがゆっくりと開く。薄暗い室内に明かりをつけると、床に倒れ込んでいる女性を見つけた。
「おい……! おい、大丈夫か!? ──……アキっ!」
慌てて駆け寄って声を掛けたが、返事はなかった。完全に意識を失っているアキを見て血の気が引いた。
ナツキは急いで救急車を呼び、それまでぐったりとして動かないアキの体を冷やすなどして応急処置をした。
彼女の成長した姿を見る余裕は、まったくなかった。





