12話 カミバナシ
「こいつを、殺せば……」
倒れた鬼神。
こいつを殺せば梔子の個性が戻るかもしれない。これ以上、危険に晒されることもなくなる。
さすがの鬼神も意識を失ったまま目を閉じていた。もう抵抗される心配はなかった。
俺は大きなガラス片を拾って、その切っ先を鬼神の首元にあてがっていた。いくら鬼とはいえ首を切られれば生きられないだろう。
……それくらいわかってる。
わかってるんだけど、手が震えていた。
「くそっ……くそ!」
鬼神は穏やかな表情だった。
角が生えてはいるものの見た目は梔子そのもので、寝顔は本当にそっくりだった。
迷うな。
なんのために、ここまでやったんだ。
なんのために、ここまで来たんだ。
そんなことくらいわかってるはずなのに、鬼神の首をかき切れない。
できない理由はこれ以上ないほど簡単だった。
たとえ偽者だとしても、俺には梔子を殺せなかった。
……情けない。
ほんと、情けない男だ俺は。
『久栗くんは優しいから』
梔子はそっと、メモを地面に置いた。
俺の手を上から握る。
『だから、あなたを助けるのは私の役目』
風が吹いて、地面のメモがパラパラとめくれる。
新しいページは空白だった。
真っ白で、まっさらなページだった。
いままでたくさん、このメモで言葉を交わしてきた。何も書かれてない空白のページが、すこし淋しかった。
これも必要なくなるのかな。
「なあ梔子……覚えてなくてもいいからさ、」
この鬼神の命を絶ったら、俺と梔子の絆は契約の代償に失われる。
覚えてるなんてこと、万が一にもあり得ないだろう。
だから……だけど。
「もし次に会ったら、俺におまえの声を聴かせてくれ」
ガラス片を握りしめる。
梔子はコクリとうなずくと、その小さな両手で俺の震える拳をしっかり包んだ。
息を合わせ、大きく振りかぶって――
「待つんだふたりとも!」
背後から声がかかって、ぴたりと腕を止める。
そこにいたのは、包帯を頭に巻いた南戸だった。
……無事だったのか。
顔色は悪いものの肩で息をして、額には汗が張り付いている。
そんな詐欺師は俺たちを見据えると、息を整えながら、吐き出した。
「すまない。騙したアタシが悪かったが……鬼神は、殺しちゃならねえ」
口 口 口 口 口
「どういうことだ」
声が震えた。
南戸は舌打ちをしながら俺たちのところまで歩いてくると、鬼神を見下ろしてため息をついた。
「アタシが一番危惧した展開になるなんてな。読めなかった自分が不甲斐ねえよ」
「おいまて。どういうことなんだって」
鬼神を殺すなって、なんだよそれ。
こいつを殺すために準備してきたんじゃねえのか。
だから俺や梔子に協力を求めなかったんじゃねえのか。
「殺すってのは、どういうことだと思う?」
南戸は手にした鉄線で、鬼神の体をぐるぐると縛り付けた。
今度は引きちぎられないように、何重にも厳重に。
「殺すとは絶つことだ。その命を、命が抱える物を、想いを絶つことだ。鬼神には梔子クンの個性が宿ったままなんだよ。それを殺して梔子クンの個性が戻る可能性が高いとは、アタシは思わなかった」
「いや、でもお前が言い出して――」
「そう言って突き放しておけば別の可能性から目を逸らせるだろ? 本音を言えば反対されるのは目に見えてたからな」
南戸は鋭い視線で、俺と梔子を睨む。
「アタシの狙いは最初からこいつを封じることさ。梔子クンがすべてを取り戻すまで、誰にも開けることのできない結界を創り出すことだった。だが、それを正直に話せばキミたちは止めるだろう。なんせその条件には、アタシの血が必要だったからな」
……そういうことか。
ようやくわかった。
俺はてっきり、南戸がひとりですべてを終わらせる気だと思ってた。
だけど、最初からこいつは俺たちを騙していたんだ。騙さないフリをするという騙しかたで。
こいつは自分の命と引き換えに、結界を創るつもりだったのだ。だから中途半端に力を使ったあと、あっさりと鬼神にやられたのか。
……でも、だとしても。
「なんで、そこまで梔子のために……」
「アタシは梔子クンに救われたんだよ。比喩じゃねえ。すべてを救われたんだ」
南戸は珍しく、言葉少なく語った。
「初めて出会ったとき、梔子クンは飢えて死にかけていた。アタシはほんの軽い気持ちで――いや、正直に言えば利用するつもりで助けたんだ。だがな、皮肉なことに梔子クンと出会って話して、毎日を共に過ごすうちに、アタシは助けられた」
「どういうことだ……」
「キミたちにはわからねえだろう。息をするように騙し、利用し、怨みや妬みや怒りを受け続けることがどんな歪みを生み出すのか。アタシが使役した怪奇のなかにその頂点がいただろう?」
「九尾狐、か」
「そうさ。アタシはそいつに憑かれていたのさ。梔子クンに出逢って、梔子クンと過ごしていく過程で偶然その呪いを解いていなければ、いまごろアタシは呪いで死んでいただろうよ」
九尾狐の呪いがどんなものだったのかは想像に難いが、なるほど、これで合点がいった。
こいつが梔子にこだわる理由に納得がいった。
「アタシは鬼神をある程度弱めたら、殺されるつもりだった。死んだ方が結界の念は強くなるし、それにアタシが死んだら恩義にうるさいキミは、梔子クンを投げ出すことなんて万に一つもしなくなるだろ?」
自分の死さえも利用するつもりだったのだ。自分の死すらも計画的に、ひとつの手段として選択肢に入れる。
……ぞっとした。
心底、俺はこいつが恐ろしい。
「そんなことしなくても投げ出さねえよ。それに梔子にとってはおまえが生きていないとダメだってことくらい、このまえのことでわかっただろ?」
「逆だよ少年。梔子クンはアタシがいなくても生きていられることがわかったからだ」
なぜか俺とは逆に感じていたようだった。
とはいえそれを議論する気はないようで、南戸は視線を下げた。
視線の先には鬼神。
「とにかく問題はここだぜ久栗クン。それと、キミたちが使役している力もアタシにとっちゃあ頭痛の種だ」
南戸が舌打ちするのも無理はない。
だが、俺はすこしほっとしていた。
南戸を助けてよかったと確信できた。あのまま助けなかったら、たしかに結界は完成して鬼神を封じ続けることができただろう。
だが、梔子は南戸を失っていた。
そんなもの俺の望んだ結末じゃない。
「南戸さん!」
振り返ると、門の入口に澪と白々雪がいた。
病院から抜け出した南戸を追ってきたのだろう。
俺たちの足もとで倒れている鬼神を見て、恐る恐る近づいて胸をなでおろす澪。
「勝てたんだね……よかった」
「なにを慌ててるのかと思ったら、そういうことッスか」
白々雪は状況を理解したようで、すぐに南戸を睨んだ。
「あんたはまだまだツムギのこと、わかってなかったみたいッスね」
「その言葉は真摯に受け止めよう。確かに今回はアタシが甘かった」
「それでどうするんスか?」
「いま考えているところだ。キミもその聡明な頭脳で手伝ってくれると助かるんだが」
南戸と、白々雪が揃って唸る。
そんな圧巻な光景をもっと眺めていたかったが、そうも言ってられない。
残された時間はそれほど長くないだろう。鬼神もそのうち目が覚めるだろうし、俺と梔子が借りている力だって無期限ってわけじゃない。
悠長はしていられない、か。
「なあみんな、聞いてくれ」
最初から覚悟はできていた。
「俺ならこの状況を、なんとかできるかもしれねえ」
「……本気ッスか?」
ああ、さすが白々雪だ。
昔から頭が良くて、運動もできて、みんなの中心に立てるようなそんな白々雪は、すぐに俺の言いたいことに勘付いたようだった。
「ツムギはいつもそうやって自分で勝手に考えて行動するんスよ。なんで図書委員になるのか、最後まで教える気はないんスかね」
「ああ、すまんな」
隠すもんでもないけど、せっかく白々雪の好奇心をくすぐるネタだ。
最後まで黙っててもいいだろう。
「ま、良いッスけどね。そんなツムギだから、ウチはいままでついてきたんスよ。だからツムギがそこまで言うのならしかたないッスね。なんでも協力しますよ。……ウチの心は、反対ッスけど」
「ありがとう」
「遠慮はいいです。誰に嫌われても、非難されても構わないッスよ。最愛の友人のためッスから」
俺も、おまえが親友でよかったと思ってる。
「ツムギくんは、やっぱりツムギくんなんだね」
澪はすこし呆れていた。
出会ってからずっと俺のことを見てくれていたんだ。
俺の考えくらい、わかったのだろう。
「ツムギくんはバカだよ……そんなバカなツムギくんだから、わたしはそばにいたいと思うの」
「ほんと、澪には感謝しかねえよ」
「それはこっちの台詞だよ。ツムギくんがどれだけ無茶なことをしても、わたしは離れるつもりなんてないんだから。だから、安心していいからね。安心して……いってらっしゃい」
ああ、いってきます。
「まったく、キミの妹君に話すのが恐ろしいぜ」
南戸が舌打ちする。
それもそうだ。あいつがもしここにいたら、きっと「イヤだよ。歌音、絶対にイヤだからね? だからそんなことしないよね?」みたいにせがんでくるに違いない。
でも歌音だって、俺のことをずっと見てきてくれたんだ。
一緒に生きてくれたんだ。
きっと、認めてくれるに違いない。
「だがまあ、責められるのはアタシだな。一片の言葉も出ねえぜ少年。愚の骨頂とはこのことだ。杞憂すべきだったのはこの展開だってのに……察することもできなかったとは。いやはやアタシも衰えたかねえ」
「いや、おまえはすげえよ。俺には一生なれそうもない」
「キミも大概だぜ? まあこの機会、せっかくだからキミの愚行は見届けてやろう。その広げ過ぎた大風呂敷がどこまで包み込むのか、アタシの予測を超えてくれることを祈ってるぜ。……だから、無事に戻って来いよ久栗クン」
ああ、俺もそう祈る。
俺は三人に笑いかけ、最後に梔子と見つめ合った。
長い前髪のあいだからのぞく、綺麗な瞳。
「最後の最後だ、梔子。覚悟はいいか?」
とっくに覚悟はできてるつもりだった。
俺も梔子も、そのはずだった。
だが梔子は俺の手を握り、その甲に涙を零す。
暖かい涙だった。
俺にはそれだけで充分だった。
それがあれば、もうなにも怖くない。
「……聞こえるか、悪魔よ」
『――なんだ、人間――』
頭に響く、悪魔の声。
俺は声を張りあげた。
「契約の変更をしたい」
『――かまわねえぜ? もちろん対価は頂くが――』
「ああ、いいぞ」
『――で、なにを望む?――』
「鬼神から、梔子の個性を取り戻したい」
殺さずにやるとするなら、これしかないだろう。
動きを封じている今ならできるかもしれない。そりゃあ対等の代償は必要かもしれないが、その覚悟はできていた。
悪魔は嘲笑した。
『――面白い! だが、個性とはなんだ? おまえが望むのは具体的になんだ?』
「記憶、感情、声。梔子が失ってしまった、あいつ自身だ」
『記憶と感情と声か……いいだろう、では契約内容の変更だ。だがそのまえにさきほど与えた力の対価を頂こうとするか――』
「いや、それは断る」
『――なんだと?――』
悪魔だからと恐れることはない。
こいつは契約と言った。
契約とは、完遂されて初めて対価を支払うものだ。
そして契約に使ったのは、言葉という手段。
俺は言葉を利用する。
「俺たちが交わした契約内容は、〝鬼神を殺すこと〟だっただろ。俺と梔子はまだ鬼神を殺してはいない。そして俺は、契約を破棄や追加ではなく変更することを依頼して、おまえは受諾した。つまり対価の支払い義務はまだない……違うか?」
騙したようで悪いが、それくらいは大目に見てもらいたい。
悪魔は一瞬黙ってからけたたましく笑った。
『――キシシシシ! 面白いぞ人間! ああ、そのとおりだ。対価にしていた〝絆〟は受け取らない――』
よかった。
これで、梔子の記憶は守られる。
『――だが今度の契約は個性の奪還。つまり、その対価は……わかるな?――』
悪魔の低い囁きが、耳に響く。
それくらい覚悟している。
『――対価はおまえ自信の個性だ。感情、記憶、それに関するもの。おまえたちにとっては本末転倒だろうが、それこそが対価ってもんだろ? 悔しければ泣くがいいさ――』
本末転倒?
俺は笑う。
腹の底から笑う。
「いや、俺はむしろ安心してるんだ悪魔」
『――なんだと?――』
「もうわかってるんだよ……個性ってのは、感情は、記憶は、二度と戻らないようなものじゃない。また新しくつくればいいんだ」
それは、俺ひとりじゃ無理かもしれない。
でも仲間がいる。
俺たちが梔子に感情を取り戻していったように、日々を過ごすそのなかで、俺はきっといつか感情を取り戻せるだろう。記憶は失くしても新しく作ればいいんだ。
だから、焦る必要はないさ。
「それにおまえは神様とは違って、俺の個性を奪うことで俺との契約が終わる――つまり縁が切れるんだろ? 復讐したり、触れ合ったり、騙し合ったりできるような存在じゃなくなる。なら、俺の個性をあずけておくには一番安全な相手じゃねえか」
『――キシシ、確かにそうだが……悪魔を利用するとは面白いな人間。だがそこまでおまえがする価値が、あの人間にはあるのか? 後悔しないのか? どうせならもっと価値のあるものに賭けてみないか?――』
「いまさらなに言ってんだ」
最後の悪魔の囁きだ。
そんなもん、ちっとも効きやしない。
俺はかつて、梔子詞に憧れたんだ。
――私は、久栗くんと、しゃべりたい。
あの言葉に、惹かれてしまったから。
……俺もだ梔子。
でも俺は、喋るだけじゃダメないんだ。
それじゃあ物足りない。
俺が求めるものはただひとつ。
目の届く範囲でいい。贅沢は言わない。
すべてのやつらが楽しく笑って、無駄な話を語り合って、恋愛で悩んだりして、いろんな夢を持って、そうやって暮らせる日々を送れること。
頼まれても止まらないくらいの、そんなみんなのべしゃりを聴くことなんだ。
そんな平和が欲しかったんだ。
……それこそが、平和主義者ってもんだろ?
「さあ契約しろ悪魔よ。俺の個性を対価に、梔子の記憶を、感情を、そして声を取り戻せ!」
『――承諾した。では、契約開始だ――』




