11話 梔子詞
怖い、なんてもんじゃない。
悪魔に力を借りてなお本能が告げている。
こいつはヤバい。
横から見ていたのと正面から対峙するのではわけが違う。少し力を借りただけのただの平凡な人間が、たとえ片腕を失っていたとしても神から鬼へと成った存在を相手取るのだ。
やべえ、足が震える。
この期におよんでビビってるなんて冗談じゃねえ。災害みたいな脅威が目の前に迫ってるんだ。
そう尻込みしてしまった俺の隣で、梔子が一歩前に出た。
ちらりと俺を一瞥して、さらに一歩前へ。
怖くないのだろうか。そんな堂々と鬼神の前に立てるなんて。
……いや、怖くないわけがない。
梔子の手もかすかに震えていた。
バカか俺は。
いままで梔子のなにを見てたんだ?
梔子も怖いんだ。他の感情をすべて失っても恐怖だけは残ってたんだ。自分の記憶がないことに怯え、感情が欠落していることに怯え、言葉が出せないことに怯えてきた。
あの夜、俺と肌を重ねたときも怖がっていただろうが。
だけど梔子はいつも戦ってきた。恐怖と戦って、ここまできたんじゃないか。
そういう強い人間になりたくなってしまったんだろ、久栗ツムギ?
「……しっかりしろよ、俺」
頬を叩いた。
俺は梔子の隣に並んで、拳を構える。
「すまんな。もう大丈夫だ」
梔子はコクリとうなずいた。
土煙が晴れ、視界がクリアになる。
対峙する俺たちを視界にとらえた鬼神が、膝をすこし曲げて――地を蹴った。
速い!
残像すら残りそうな速度で、鬼神は俺たちの目の前まで迫ってきた。
だが、いまの俺たちに反応できないレベルじゃない。
俺と梔子はそれぞれ左右に跳び退いて距離を取る。どっちを追えばいいのか、鬼神は一瞬だけ逡巡したが、すぐに俺に焦点を定めた。
まあ、そりゃそうだろうよ。
梔子より俺のほうが反応はわずかに遅かった。こっちは二人で、相手は一人だ。狙うならまず弱いほうってのが定石だ。
鬼神は鋭利な腕を振りかぶり、迷うことなく俺の心臓を狙って突いてくる。
体をひねって避けた。
即座に腕を引いてまた突いてくるが、その動きはさすがに読めていた。腕を避けつつ懐に飛び込む。
そのまま一本背負い。
地面に叩きつけずに放り投げる。俺も力が上がっているおかげか、野球の球を投げるみたいな速度で飛んでいき、庭の木に背中から激突する鬼神。
ミシミシ、と木が音を立てて折れ曲がる。
いいぞ、戦える。
とはいえそれほどダメージは受けていないようで、鬼神はすぐに立ち上がった。
間髪入れずにまた駆けてくる。
今度は姿勢が低い。俺には武器がないから、反撃をすこし喰らってでも組み合うつもりだろう。一撃で仕留めるのをやめて足を狙ってきた。
「くっ!」
横振りに薙がれた腕を、俺は上に跳んで避ける。
これじゃあ相手の思うつぼだ。空中で身動きがとれなくなった俺に鬼神はそのまま体当たりしてくる。
受け身をとりながら転がる俺。
追撃を警戒しようとも、起きあがるその少しの時間が命取り。
顔を上げたときにはすでに鬼神は俺の目の前だった。俺の腹を貫こうとして振りかぶったその腕を振り下ろす――その直前に、弾かれる。
本だ。
横から飛び出てきた梔子が一冊の本で鬼神の腕を殴った。
バランスを崩しながらも弾かれた腕の勢いにまかせてくるりと回り、もう一度梔子を刺そうとする鬼神。
そんな甘い攻撃が梔子に通用するわけがない。
梔子は半歩だけ後ろに下がり腕の射程外に出る。
わずか数ミリ、眉間の前スレスレで止まった腕先。
なんつう見切りだ。舌を巻く。
梔子はそのまま本を上に振り上げた。
鬼神の腕がまた大きく弾かれる。
二度も体勢を崩され、今度こそ大きな隙ができた鬼神。
――これを逃す手はない。
「うおらっ!」
俺は拳を握りしめ、鬼神の脇腹めがけて全力で振り抜く。
梔子は顔面を本で殴打。
鈍い音をたてて吹き飛ぶ鬼神は、瓦礫の山となった道場に突っ込んだ。
土煙が舞い上がる。
じん、と手首が痺れた。拳を握りなおす。
思ってたより重い感触だったが、確かな手ごたえがあった。これで無傷なわけがないだろうが……片腕を失ってなお俊敏に動くやつだ。
瓦礫のなか、鬼神がゆっくりと身を起こす。
油断は禁物――そう思って目を凝らしたことが、裏目に出た。
雷が落ちてきた。
ものすごい電光と破裂音が、目の前で爆ぜる。
とっさに眼を押さえた。
あまりの光量に眼を焼かれてしまい、視界がホワイトアウトする。
なにが起きたのか一瞬理解が及ばない。
「梔子、無事か!?」
衝撃はそれほどではなかったから、さすがに飛ばされてはいないだろう。
問いかけると、すぐ横で本を閉じる音を鳴らして返事をしてくれた。たぶん梔子も視界を奪われたんだろう。
マズい。
不運を呪っても仕方がないが、こう何度も雷がそばに落ちるなんて偶然にしてはできずぎている。
……偶然にしては?
「――違う! 梔子伏せろ!」
とっさに叫びつつ、梔子の体を掴んで地面に這いつくばる。
バリバリッ!
と、頭上を音が走ったのはその直後だった。
雷電はそのまま俺たちの後ろの木を直撃したのか、背後で破裂音が鳴り、ドンと倒れる振動。
嫌な予感が確信に変わる。
鬼神は、雷を使えるのだ。
「……そんな力、鬼にあんのか」
舌打ちしながら、梔子を背にしながら立ち上がる。
さっきより視界がマシになった。痛みはあるが、なんとか見える。
鬼神は天に腕をかざしていた。
その腕に集まるのは白い電光。溜まればまた放たれるだろう。
魔法かよ。
そんなもの鬼神が使えるとは思わないが、現にあいつは雷を放ってきた。
なぜだ。雷を遣う鬼とでもいうのか?
だとしてもなぜいまになって使ってくる?
理解する必要はないのかもしれない。だがその力の謎を解き明かさないと、勝てる相手でもなさそうだ。
考えろ、考えるんだ。
避雷針みたいなあいつの腕に雷が溜まる前に、なんとか思いつければいいんだが。
そう思った俺の服を、梔子が引っ張った。
目が合う。
「……そうか、梔子だからか」
もし南戸が言っていたように、あいつがコトバを司る力をあるなら。
鬼神という名で鬼の力を手に入れることができたなら、きっと神の力も手に入れることができると考えても不思議じゃない。
だが鬼と違って、神の力っていうのは漠然としたものだ。顕現できるような物理的な力を持てるとは思えない。
しかし不運なことに、神の力として刻銘に伝承されてきた現象がひとつだけある。
――神鳴。
古来から神の力とされてきたこの自然現象を、鬼神が利用したとしてもおかしくない。
遠くで春雷が鳴っていたからとはいえ、そこに気づいたのは梔子と同等の知性があるからだろう。
聡明で理知的な、梔子詞の知性が。
「ほんと敵にすると厄介すぎる相手だよ、おまえは」
頭をぽんと撫でると、申し訳なさそうに目を伏せる梔子。すこしは褒めてるんだけどな。
とにかく、状況は理解できた。
腕を一本失っていたとしても、最初に対峙したときより遥かに強くなっている。相手が梔子だと思えば当然の成長っぷりだが、感心してないで勝つ方法を考えなければ。
……って、そう悠長もしてられない!
「こっちだ!」
振り返って走る。
俺たちが倒れた木の影に飛び込んだ直後に、また雷鳴と破裂音が木霊する。
木の幹が砕け、飛び散る。
あぶねえ。木そのものは絶縁体である程度の電気は通さないから直撃は免れたが、感電しなかったのはラッキーとしか言えない。
次はもっと安全な場所に避けないと――
「っておい! 梔子!」
梔子が木の影から飛び出して、鬼神のもとへ駆ける。
また帯電し始めたのに、無謀にも突進。
だが虚をつかれたのは相手も同じだった。
鬼神は飛び込んできた梔子に、とっさに腕を振るう。
苦し紛れの攻撃は当たるはずがない。
梔子が身をかがめて避けたとき、鬼神の腕に帯電してあった雷が四散した。
「そうか……空気か!」
空気は高い絶縁体だ。
溜めている電圧が高くなる前なら、放電させてしまえば電気は空気中に散って消える。小さな雷雲が地上に落雷させられない原理と同じだ。
さすが梔子、頭の回転と度胸は俺よりも遥かに優れてやがる。
身を伏せた梔子は、そのまま鬼神に足払いをかけた。
両足が浮く。
間髪入れずにそのままくるりと小さな体を回転させ、遠心力を載せた重たい本の一撃を、鬼神のこめかみに見舞った。
ゴッ、と鈍い音とともに鬼神が飛ばされる。
飛んだ先にあるのは、池。
鬼神は水しぶきを上げて池に落ちた。
けっこうな打撃だったはずだ。ダメージは確実に蓄積されているはず。
希望的観測だったが、少しは効いてくれないと困る。
俺と梔子が並んで見守っているなかで、鬼神が沈んだ池が爆発したように水柱を上げた。
水が雨のように降りそそぐ。池にいた鯉たちが地面に落ち、ピチピチと跳ねる。白々雪が勿体ないと唇を尖らせる場面だが、いちいち気にしてはいられない。
池の底から鬼神が上がってくる。
「……デカい……」
その体に、また変化があった。
梔子と似た体格だったはずだが、もはや筋骨隆々と呼ぶにふさわしいほど巨大化していた。
まさに鬼そのものだった。
鬼神に浮かぶのは怒りの表情ではない。怒りは、梔子が取り戻したから。
焦り。
もう鬼神は腕に帯電しなかった。いや、できなかったというほうが正しいか。不純物を含んだ水は電気を通す。自分で感電しないためにもう雷は使えない。
梔子がそこまで考えて鬼神を飛ばしたのだとしたら、さすがとしか言いようがない。相手を厄介だと思うのは俺たちだけじゃなくて、向こうも同じ。
鬼神は息を大きく吸い込んで、口をあける。
また超音波の叫びか。南戸が仕留められたアレだ。
梔子がとっさに耳を塞いだ。反応が早い。
だがそれが相手の狙いだった。
フェイント。鬼神は超高音の声を出すのではなく、口の中に含んでいた水を吐き出した。
まるで弾丸のように迫る水の塊に、梔子は反応できない。
「甘い!」
つぎは俺の番だ。
落ちてあった瓦礫で、水の塊を受け止める。
腕がじんとするが所詮は水。コンクリートには勝てない。
「二手に分かれるぞ、梔子」
瓦礫を放り出して走る。
俺と梔子は左右に分かれた。
挟まれるようになった鬼神は、今度は迎え撃つ気なのか動かない。池を吹き飛ばすほどの力を見る限り、大きくなった体はこけおどしじゃないようだ。スピードを犠牲にする代わりにパワーをあげたってことだろう。
この状況下なら、戦略としては悪くない。
「俺に決定打が欠けるって前提だろ!」
俺からの一撃は受けてもいい。そんな狙いが見て取れた。
ならそれを逆手に取るだけだ。
なにも俺だって単純に殴るけるだけが能じゃない。
そりゃあ、ダメージを深く与えられるような武器は持ってない。だが鬼神にも頭があり、耳があり、目があり、鼻があり、つまりは人体構造だ。
鬼神と距離を詰めたのは俺が先だった。
拳を握る俺に対して、クロスカウンターの必殺を狙っていた鬼神。その鋭く太い腕に貫かれたら確かに一撃で死ぬかもしれないが……悪いな。
「正面から戦う梔子のスタイルが基本じゃ、こんなこと思いつかないだろうよ!」
お互いの間合いがぶつかる直前、俺は握った拳をほどきながら振るった。
中に握られていたのは、砕けたガラス片。
さっき瓦礫を拾うときに、一緒に握りしめていたものだ。
鬼神の片目にガラス片が突き刺さる。
苦悶に呻いた。
なにも必殺の一撃だけが、勝負を決める決定打になるとは限らない。
卑怯かもしれない。
卑劣かもしれない。
だが、決闘でもなければ勝負でもないんだ。
目潰しはプロレスだって常套手段なんだ。澪と観に行っててよかった。
「いまだ梔子!」
俺の叫びに、鬼神はとっさに後ろに向かって闇雲に腕を振るう。
悪いがそれも虚言だ。
そこに梔子はいない。左右からの挟み撃ちと見せかけて、梔子は上に跳んでいた。
上空から、鬼神の脳天に強烈な一撃が振り落とされる。
決まった――そう思った瞬間だった。
鬼神の姿が、一瞬にして小さく――梔子と同じサイズに戻った。
振りかぶった本は空を切る。
まさかの空振りに体勢を崩してしまう梔子。
「そんなんアリかよ!?」
隻腕、隻眼になった鬼神の苦し紛れの判断だったのかもしれない。
だが功を奏したのは相手。
体勢を立て直した鬼神は、梔子の腹をめがけて腕を突きあげる。
貫いたのは、とっさに引き戻した本。
ギリギリのタイミング。
梔子が盾のように構えた大判の本に腕が突き刺さった。
鬼神はそのまま腕を大きく振り回した。
体の軽い梔子は、なすがままに振り飛ばされる。
ヤバい。
いくら悪魔に身体能力を強化してもらってるとはいえ、耐久力には限界がある。
俺に、迷いはなかった。
頑丈さなら俺のほうがマシだ。
俺は全力で跳び、鬼神に飛ばされた梔子の体を掴まえる。
それくらいじゃ勢いは殺せない。
俺たちは砲弾のような速度で庭を横切り、正門に激突した。
「があッ!?」
梔子を抱えたまま背中からぶつかった。背骨が悲鳴を上げる。
その衝撃で、門は壊れるように開いた。
分厚い木の扉が砕かれて、アスファルトに散らばる。
俺と梔子も道路に投げ出された。
「っつう……くそっ」
痛みを堪えながら体を起こした。
なんてことだ。
ずっと、ずっとだ。
いままでずっと開かなかった梔子屋敷の扉が、どデカイ風穴をあけて開いていた。
その向こう――池のそばから歩いてくる鬼神。
俺は拳を構えようとして――背中の痛みに膝を折る。
梔子が支えてくれたおかげで倒れなかったものの、理解する。
かなりダメージはデカかった。
梔子も腕を痛めたのか片腕が痙攣していた。
「そろそろ決着つけたいところだな、鬼神」
小さく息を吸う。
でもまだだ。まだ、動ける。
いま俺の前には、ここに初めて来たときからずっと閉ざされていた扉がある。
その穴の向こうにいるのは、間違いなく俺たちの未来にとっての脅威だった。
一歩間違えれば死ぬ。
最高の結果になっても俺と梔子の絆は切れてしまう。
……だがそれがどうした。
ここを乗り越えれば、道は開けるんだ。
なんでいままでこんなにがんばってきたんだ。
自分の心に問え。
誰にも言わなかったその平々凡々な願いを、つまらない矜持を、いまここで見せろ。
「――俺は、久栗紡だ!」
紡げ、未来を。
梔子の未来を。
強く、アスファルトを踏みしめた。
門をくぐる。
鬼神も俺へと向かってくる。
小細工なしの正面衝突だ。
「ぬああっ!」
握った拳と、鬼神の鋭い腕がぶつかる――その瞬間。
俺は拳を開いた。
手のひらに刺さる、鬼神の腕。
痛い。
絶叫しそうになるほどの痛みを、俺は堪える。
そのまま激痛をかみしめて、拳を握る。
――捕らえた。
小柄な鬼神と目が合った。
無表情――その瞳の奥に、澱んだ黒い炎が見える。
必死なんだ。こいつだって、死にたくないんだ。
腕を引き抜こうとしてくるが、させない。
死んでも離さない。
逆の拳を握りしめる。
掴んだ腕を軸に、腰に力を入れる。
「あああっ!」
人体の急所――正中線のど真ん中、みぞおちめがけて、俺は拳を撃ちぬいた。
「~~~~ッ!」
鬼神が体を折った。
そこに苦悶の表情や抵抗はなく、鬼神はそのまま意識を失って倒れた。
「はあ……はあ……」
ずるり、と手から抜ける鬼神の細い腕。
大丈夫かと、すこし離れてから見下ろす。
指先ひとつ、ぴくりとも動かない鬼神。
……ああ、やっとだ。
これでやっと梔子の神噺が終わる。
今度こそ、神離しが終わるんだ。
俺は膝をついて、その場に座り込んだ。




