10話 絆
「梔子……」
救急車の音が聞こえなくなると、途端に静かになった。
さっきまで鳴っていた遠雷も吹きすさんでいた風も、なにかの予兆のようにぴたりと止んでいる。
空は暗くて、すこし肌寒かった。
梔子はゆっくり歩いてくると、俺のすぐ後ろに立った。
俺は座ったまま見上げるようにして梔子と目を合わせる。
背が低い梔子を見上げるのは初めてかもしれない。だからどうということでもないけど。
梔子はボサボサに伸びた俺の髪に手を伸ばした。
半年分一気に伸びるがまま伸びた髪の毛は四方八方に散らかっていて、触り心地もよくなけりゃあ楽しいもんでもないだろう。
ただ梔子からそんなことをしてくるなんて珍しくて、俺は何も言わずに黙ってなすがままにされる。
梔子はひとしきり感触を確かめたあと、いつものメモを取り出した。
『ありがとう』
「なにが?」
『あのひとを守ってくれて』
恩に着せるためにやったわけじゃないし、誇れる手段でやったわけでもない。そんなまっすぐな瞳で見られても戸惑うだけだ。
でもあまりにまっすぐで、俺は否定もできず目も逸らせなかった。
梔子の感情はまだ少ない。
いつもどんなつもりで俺を見ているのか、よくわからなかった。
怯え、恥じらい、怒り、嫉妬、悲しみ。
取り戻したのはまだそれくらいのはずだった。だけど、どんな感情が戻ろうともその大きな瞳はいつも澄んでいた。いつでも、誰よりも、まっすぐだった。
いつもまっすぐに見てくれていた。
俺はその瞳が、好きだった。
「……綺麗だな」
つい、つぶやいてしまう。
梔子が先に目を逸らした。相変わらずの無表情……だが、その頬はわずかに赤く染まっていた。
続けてなにか言おうとしたが、言葉が出てこなかった。気の利く男ならもっといろいろ褒めることはできただろうけど、残念ながら俺にそんな器用なことできるはずもない。
梔子は逃げるようにして家のなかへ戻っていった。
……惜しいことをしたかな。
なにか言いたそうにしてたのに、遮ってしまった気がする。
まあいまはいいか。
南戸についていかなかったのは意外だったが、梔子の気持ちもわかる。責任感が強いやつだから、自分の個性を持つ鬼神を置いて、どこかに避難なんてできないんだろう。
「……つっても、近すぎても困るんだけどな」
鬼神が梔子に危害を加えるつもりがあるのかわからない。わからない以上は、近づけるべきじゃない。
だからこそ、俺が鬼神を逃がすわけにはいかないんだ。
俺はポケットからまた一枚、紙を取り出す。
さっきと同じ魔方陣が描かれた紙。
いつ結界が破られてもいいよう準備はできている。
とはいえ、あまり気を張り詰めるのもよくないだろう。あとで腹ごしらえする時間くらいはあるのかな。勝手に冷蔵庫開けるのは気が引けるから、頼んでみようか。
そんなことを考えていたら、梔子が戻ってきた。
手にもっていたのはハサミ。
それと、小さな椅子。
「どうした?」
『座って』
梔子が無造作に椅子を置いた。
なんだろう、と疑問に思いつつも素直に従う。
俺の後ろに回った梔子は、なぜか俺の上着を脱がせてきた。
なんだいきなり。
「今日の梔子は積極的だな」
『ばか』
また恥ずかしそうに頬を染めた。
バカなんて梔子に言われたのは初めてで、なんか新鮮だった。
とはいえ俺はバカでもない。そりゃあいきなり脱がされたら驚くだろう。まさか本当に積極的なわけもないだろうし、理由くらいは教えてほしいもんだが。
『前、向いて』
気になって振り向くことも許されないらしい。
はいはいと従うと、こんどは耳元でハサミの音が鳴る。
「……ああ」
なんだ、そういうことか。
俺はひと息ついて目を閉じた。
耳元で響くハサミのかすかな金属音。場所を変えつつも髪に添えられる梔子の小さな手。足許に落ちていくのは、俺のボサボサに伸びた髪の毛だった。
たしかに伸びたままじゃ視界も遮られて動きづらいし、違和感があった。
その気遣いが嬉しい。
「……なあ梔子」
後ろにいるし手も塞がってるから反応がないことは最初からわかっている。
でも、つい話しかけてしまう。
「俺はおまえと出会えてよかったと思う」
思い返せば、いままでいろんなことがあったな。
図書室で、教室で、通学路で、梔子屋敷で、俺の家で、別荘で、病院で。
そのなかで何回梔子に助けてもらったかわからない。
困ったとき、疲れたとき、どうしていいかわからなくなたっとき、梔子はいつも俺を助けてくれた。
付き合っていたときはみんなの目を盗んで一緒に帰ったり、弁当を作ってもらったり、それっぽいことを繰り返していた。
それが形だけの関係だったとしても、俺には居心地がよかったんだ。
「まだ梔子にはわからないかもしれないけど」
喋ることができなくても。
笑うことができなくても。
ただそこにいるだけでこんなにも充実した気持ちになれるなんて、むかしの俺からは考えられなかった。
「……俺は、おまえといると楽しいよ」
いつか一緒に笑える日がくると信じて。
いつかたくさん話せる日がくると信じて。
俺はそのために、梔子が失ったものを取り戻す手伝いをしてきた。
結果は、自分ひとりじゃなにもできなくて、無様なもんだったけど。
それでも俺は。
久栗紡は――
「変わろうって、思えたんだ」
手に持った魔方陣の紙を強く握りしめる。
もっと初めから、そう思えてたらよかったのかな。
そうしたら南戸の手伝いもできて、あいつに血を流させることなく解決できたのかもしれない。
後悔しても意味はないかもしれない。
だけど、後悔しなけりゃいつまで経ってもそのままだ。
「俺は、おまえを守りたいんだ。だから――」
ふわり、と。
優しくなにかが俺の頭を包んだ。
それが梔子の腕だってことに気づくまで、数秒かかった。
「……梔子?」
俺の頭を後ろから抱きしめて、梔子はじっと動かなかった。
顔は見えない。
俺はどうしていいかわからずに、ただ黙っていた。
なんで俺を抱きしめたのかはわからない
でも、梔子の体は暖かかった。
そのぬくもりが妙に恥ずかしくて、俺は顔が赤くなるのを拳を握って耐える。
しばらくすると、梔子は腕を離した。
俺は振り返る。
その表情はいままで見たどの表情でもなかった。
笑ってるわけじゃない。
でも、柔らかい表情だった。
そこにどんな感情が宿ったのかはわからなかった。
けど、確信がある。
梔子が何かの感情を取り戻したのだ。
『前、向いて』
気恥ずかしいのは梔子も同じようだった。
耳まで赤くした梔子は、ハサミを掲げる。
俺も顔が熱かった。まだまだ自制が足りないな、ツムギ。
また道場に向き合うと、髪を切っていく梔子。
こんどは会話もなく静かに時が過ぎていく。
沈黙は、嫌いじゃない。
誰かが俺たちを見たら、たぶん「まどろっこしい」とか言うんだろう。梔子が俺をどう思っているのかわからないから、俺は深くは踏み込めない。そう、つまりは怖いんだ。梔子を大切に思うこの気持ちが否定されるのが怖いんだ。
梔子はそれ以上に違いない。
感情がすべて戻るまで、梔子はその怖さから解放されることはない。自分にわからない感情があるということが、どれほどの苦痛と恐怖なのか想像もつかない。
だから、俺はここで決着をつけないとならないんだ。
「そのために……俺は……」
俺は道場を睨みつける。
さっきより、道場のなかの気配が濃くなっている。
結界が薄くなったのか、それとも鬼神の力が強くなったのかわからない。
ただ梔子が感情を取り戻したということは、つまり鬼神もそれに気づいたってことだ。
あとどれだけの感情が鬼神のなかに残っているのかはわからない。
だが、そう多くはないはずだ。
だからこそ鬼神は俺たちを敵視する。
必死なのだ。
怪奇だろうとなんだろうと、生きることに必死なのだ。
窮鼠猫を噛むとするなら、じゃあ追いつめられた鬼は何を噛むほどの力を持つのだろう。
それが悪魔でないことを祈りながら、俺はじっと道場を見つめていた。
口 口 口 口 口
梔子が優しく肩をはたく。
髪の毛をすべて落とすと、梔子は一度だけ俺の髪をサラリと撫でた。
まさか、クラスメイトに髪を切ってもらうなんて経験をするとは思わなかった。
そんなこと言ったら「神に関わるほうが珍しい」とか白々雪あたりに言われそうだけど、しかし俺の日常としては神よりも髪のほうがレアケースなのだ。
「しかし梔子、おまえ切るのうまいな」
鏡を見たわけじゃないけど、触った感覚的にはいままでの髪型とほとんど同じだろう。
『あのひとの髪も切ってるから』
「ああ……たしかにあいつが美容室とか行ってりゃ笑える」
納得してしまった。
「しかし散髪代も浮くしうまいしいいな。飯でも奢るからまた伸びたら切ってくれねえかな、なんてな」
『切る』
ささっとメモに走り書いて、主張するように掲げる。
『切るから』
やけに迫力がある無表情だった。
意外な反応にたじろいでしまう。
「お、おう。じゃあ次からもまかせるよ」
『まかせて』
梔子の特技をひとつ発見してしまった。
「発見、か……」
梔子の個性をすべて取り戻せたら、もっといろんなことを発見できるのかな。
そうだったらいい。そうだったら嬉しい。
そんな想像を胸に抱いた。
直後、だった。
ズン!
体の芯に衝撃が響いた。
「梔子!」
とっさに梔子を背に、衝撃の元――道場に向き合う。
さっきまで張り詰めてあったはずの結界が、急速にしぼんでいくのがわかる。
道場に張り巡らされていた力が消えていく。
対照的に、そのなかで膨らんでいくのは大きな気の流れ。力の奔流が生まれていく。
全身に緊張が走った。
結界が薄れ、そしてすべて消える。
道場はあっという間にただの建造物に戻った。
奇妙な静寂が、訪れた。
なにも聞こえない。風も、雷も、虫の音も、鳥の声も、木々たちのざわめきも。
ごくりと唾を呑みこむ。
そんな沈黙を破ったのは、一陣の落雷だった。
雷光がほとばしり、轟音がうなった。
「うおっ!?」
天から稲妻が落ちて道場の屋根を破壊した。
風と衝撃が吹き荒れる。
俺と梔子は飛ばされそうになって、なんとか身をかがめてやりすごした。
だが、そんなもんは余波にすぎない。
道場の扉が内側から破裂したように壊された。
まるで爆発だ。
もうもうと土煙が立ち込める。
そのむこうにいたのは、瘴気を纏った鬼神。
痛いほどの威圧感を肌で感じた。南戸と戦っていたときより更に力を増したのがわかる。
迷っている暇はない。
俺は指先を噛み切ると、魔方陣に血を垂らした。
「梔子、おまえは避難してろよ」
そう言って魔方陣が黒く輝き始めたとき、横から腕が伸びてくる。
細くて小さな手。
その指先から赤い雫が一滴落ち、魔方陣に染み込んだ。
「梔子!?」
後ろで隠れていたはずの梔子が横に立っていた。
俺の隣でなんの迷いもなく、俺を見上げてくる。
その瞳は、やはりまっすぐだった。
誰よりもまっすぐに、迷いなく、俺を――すべてを見据えていた。
「……梔子……」
目は逸らさなかった。
言葉はいらなかった。
長い間、俺は喋らない梔子と共に過ごしてきた。無表情だからどんな感情なのか理解するのは難しい。でも、言いたいことはわかるようになっていた。
それに梔子はいつもそうだった。
誰かに自分のことを押しつけようとはしなかった。俺が自分から巻き込まれにいかなければ、きっといまだってこうして梔子の隣に立っていることはなかっただろう。
梔子は誰からも逃げない。
梔子は、誰にも祈らない。
だからその視線は、俺がなんと言おうと覆すことはできないと知っていた。
こうなると梔子は頑固だから。
「……わかったよ」
すこし、肩の力が抜けた。
俺は気を取り直して唱える。
「血の盟約により応じよ、魔よ」
『――日に何度も呼び出すなんて強欲だな人間――』
世界が停止した。
目の前には俺の姿。隣の梔子にとっては、たぶん梔子の姿に見えてるのかもしれない。借りた魔導書には、悪魔の姿は決まっていないと書かれていたはずだ。
梔子が緊張してるのか身じろぎする。ただでさえドッペルゲンガー、鬼神と自分の姿を何度も見せられているのに、悪魔まで同じだと気が滅入るだろう。
さっさと話をつけてやないと。
『――今回の望みはなんだ?――』
ニヤリ、と悪魔が微笑む。
「あいつを……鬼神を殺すこと」
『――またそんなことでいいのか? 世界を壊す力は? 巨万の富は? 誰からも愛される容姿はいらないのか?――』
「必要ない」
悪魔の囁きには、もちろん耳を貸さない。
『――キシシ。了承した――』
「それで対価なんだが、できれば俺が、」
『――おおっと人間。それはナンセンスだ――』
悪魔は笑う。
俺の心を読むかのように、笑う。
『――望みを得るために払う対価が、おまえの望む物になるとでも思うのか?――』
「っ……それは……」
『――悪魔は時に優しくて、時に残酷さ。対価はおまえたち二人で支払ってもらう――』
ぎゅっと梔子が俺の手を握った。
怖いのだろう。
俺も怖い。
悪魔との取引は、最悪の場合魂を支払わなければならない。
それくらい誰でも知っているから。
悪魔は俺たちの繋いだ手を見て、目を細めた。
『――今回の対価は、そうだな……おまえたちの〝絆〟――』
「……どういうことだ」
『――簡単さ。おまえたちの繋がりをもらう。過去も現在もすべてを頂く――』
「記憶、か?」
『――すべてだ。おまえたちが共に過ごしてきた日々を、時間を、想い出を、愛を、すべてを手放す覚悟はあるか? あるなら取引に応じよう――』
つまり俺は梔子のことを忘れ、梔子は俺のことを忘れるってことか。
……いや、たぶんそれだけじゃない。
悪魔はすべて、と言った。俺たちだけの記憶じゃない。南戸や白々雪、澪や歌音までもが俺と梔子の関わりをすべて忘れるだろう。誰も俺と梔子が共に過ごしたことを思いだせなくなくなるのだ。記憶だけじゃない。おそらく、その事実ごと葬り去るつもりだろう。
図書室での日常があったこと。
たくさん助けてもらったこと。
別荘で遊んだこと。
手を握ったこと。
怖かったこと。
恥ずかしかったこと。
怒ったこと。
唇を重ねたこと。
そのすべてが消えてしまうんだ。
梔子が、俺の手を強く握りしめた。
怖いのが伝わってくる。
俺も握り返す。
たしかに怖い。不安だ。
だけど。
「……いいだろう、悪魔よ」
梔子が驚いたように俺を見る。
いいんだ。
想い出なら、また作ればいい。
お互いのことを知らないことになってしまうから、きっとそんなふうに考えることすらできなくなるだろう。でもいいんだ。
「俺たちが、お互いを知らないまま生きるなんてこと、この先あると思うか?」
クラスメイトで、共通の友達がいて、お互いの周りのことは覚えてるんだ。
「俺とおまえが切れない縁で結ばれてるなら、きっと俺たちはまた交わるさ。失うことになったとしても、きっとその代わりはきっとできるんだ。だから……泣くなよ、梔子」
目からこぼれた涙を拭いてやる。
梔子の頬はやわらかくて、あたたかかった。
もっと触れていたい。
そう思ってしまった自分の心を、精一杯押し込んだ。
『――キシシ。女もそれでいいか?――』
悪魔の言葉に、梔子は小さく息を吸い込んでからうなずいた。
覚悟は決まった。
『――なら、契約開始だ――』
世界がもとに戻った。
道場が吹き飛び、木々が散乱する。
目の前には、黒く澱んだ瘴気を纏った鬼神。
「いくぞ、梔子」
これで最後の共闘になるかもしれない。
どう転んでも、そうなるだろう。
俺と梔子はもう一度だけ手に力を込めてから、絡んだ指をゆっくりと離した。




