5話 代償
長い夢を見ていた。
いつもの学校、いつもの風景。
委員長が号令をして朝の挨拶を済ませると、ホームルームが始まる。
俺はいつものように窓の外をぼんやりと眺めていた。
仲のいい友達は相変わらずいない。
それどころか、クラスメイトの名前すら憶えていない。顔もよくわからない。ぽっかりと穴があいたように、クラスメイトたちの印象がまっさらだった。
俺は誰と話すこともなく、授業を受けて弁当を食べ、また授業を受けて家に帰る。
そんな日常の繰り返し。
それを不満と思ったこともなかったし、満足したこともなかった。
そうであることが当然だった。
一年、二年、三年が過ぎた。
卒業の花をもらっても感慨はない。
クラスメイトたちとあいさつすることもなく家路につく。
毎日通った通学路。ルーチンワーク。
これから通らなくなると考えても、やはり何も思わない。
そんな人生を歩いていくんだなと考えたとき、なにかが気になって足を止めた。
一本の道だ。
山のほうへと続く細道が、気になったのだ。
たしか奥には誰かのお屋敷がある。むかしの地主だったと親に聞いたこともある。
俺はその道を眺める。
いままで通っていた道を振り返る。
誰かが、後ろから俺を呼んでいる気がした。もしかしたらクラスの集合写真とかを撮るのかもしれない。戻って来いと言っている。
だが、俺は奥に続く道から目が離せなかった。
言い知れないなにかがこの道の奥にある。
そこは険しい場所かもしれない。
自分に優しくないかもしれない。
疲れることもあるかもしれない。
嫌になってしまうかもしれない。
でも、俺は引き寄せられるようにそっちに足を進めた。
長く続く屋敷までの道のりを、俺は踏みしめる。
なにが待っているかもわからずに――
「――兄ちゃん!」
目が覚めた。
知らない天井だった。やけに白くてまぶしかった。
俺を呼んだのは歌音だった。
涙なんぞを浮かべながら、俺の顔を覗き込んでいる。
寝起きになんだいきなり。
「えっと、ママ! ママ! 兄ちゃんが起きたよ!」
うるせえな。
しかしなんだ……どうにも家じゃ、ないみたいだ。
頭がぼうっとする。
どこだここはと言って起きあがろうとしたけど、できなかった。声はでなかったし、上半身を起こそうとしても筋肉が言うことを聞かない。
自分の体とは思えないほどに錆びついている気がする。
おかしい。
「ツムギ!」
母さんの声に、俺はようやく横を見る。首はなんとか動いてくれた。
おそらく病室なんだろう。
入口に立っていた母さんが、大袈裟に息を吸い込んでから先生と叫びながら廊下へ逆戻りした。
ええと、そうだ。
記憶はハッキリしている。たしか、南戸をかばって腹をぶち抜かれたんだっけ。
「……生きてたか」
苦笑する。絞り出した声はかすれていた。
「ええと、そうだ歌音……梔子はどこだ? 無事か?」
「コトバ姉ちゃんならそこにいるよ」
俺の向こう側を指さす。
梔子が、ベッドの縁にもたれかかって寝ていた。
「……ならいい。あと、南戸は?」
「南戸? だれそれ?」
きょとんとする歌音。さすがに知らないようだ。
俺は寝ている梔子の髪を撫でようとしてして、腕を上げる。
やたらと重い。点滴も繋がっている。
そこに疑問を持つ前にふと気づいた。
「あれ……そういや歌音、そんな髪長かったっけ」
「ん? ああ、そうだよね。兄ちゃん五か月以上も寝てたから」
「え?」
五か月?
俺はとっさに窓の外を眺める。
驚いた。
桜が咲いていたのだ。
「正直、このまま起きないんじゃないかって思ったから……よかったよ」
涙を隠すことなく、歌音が俺の腕に寄り添って抱きつく。さめざめと泣き始めた。
さすがの俺も、ショックだった。
病室から見える窓の外は、俺の直前の記憶から半年近くも変わっていた。きのうまで紅葉も盛りだったはずなのに、見えるのは咲き始めたばかりの鮮やかな桜色。
「……はは、はははっ」
そりゃあ体も起こせなくなるはずだ。
「そうだ、白々雪さんと澪姉ちゃんにも連絡しないと! コトバ姉ちゃんは……起きてからでいっか。ちょっと電話してくるね!」
歌音はケータイを握りしめて病室から出て行く。
そのあと、母さんが慌てて医者を連れてくるまで俺はぼうっと天井を眺めていた。
検査やら質疑応答やら、そのあとは忙しかった。
俺の健康状態はさほど興味もない。
ここには来ないであろう南戸には聞きたいことがたくさんある。
だが一番堪えたのは、窓の外の景色や、髪の伸びた妹の姿だった。
失った半年という時間が、喪失感となって押し寄せていた。
口 口 口 口 口
リハビリは一か月近く続いた。
衰えた筋肉はなかなかもどらなくて、背中も痛い。だがそれよりも苦痛だったのが食事だった。固形物を食べることがこんなにもつらいなんて思ったことがなかった。
ようやくいままでどおりの生活ができるかな、というところまで筋力が回復し、梔子や白々雪や澪から無事三年生になったと報告を受けたあたりで、俺はようやく退院できた。
三人とも国立文系のクラスらしい。俺も一応は同じクラスらしいが、当然、単位が足りずにそのままは卒業できないらしい。みんなが卒業するのを見届けてから半年は留年して卒業だ。
重い。
半年という時間の重さが身に染みた。
南戸をかばった代償は途方もない喪失感だった。
俺にはすこし痛すぎるほどの苦痛。
この一か月間、堪え切れず夜中にベッドにもぐって何回か泣いた。
誰にも言えずに、叫んだこともあった。
たった半年だったのに、時間に置き去りにされた気分になった。
……でも、過ぎたものは仕方ない。
一か月たつとそう思えるようにもなった。
それに、死ぬよりはマシだっただろう。
心配してくれた白々雪や澪、梔子はいままでどおり接してくれるし、毎日見舞いにも来てくれた。梔子に限っては俺が寝ているあいだも毎日居てくれていたらしい。
嬉しい反面、申し訳なかった。
そして南戸だ。
梔子に変化はなかった。つまり、現状は滞っているってことだろう。そのあたりの機微は直接聞いてみるとして、それよりあのあと俺が気を失ってからなにがあったのか聞きたかった。梔子に聞くと謝罪のオンパレードで気を遣わせるので、退院したあとでいいかと後回しにしていたのだ。
「ーー久しぶりだね、少年」
だから、半年ぶりの梔子屋敷を訪ねたときに感じた衝撃は、眠っているあいだに半年が過ぎたことよりも大きかった。
いつもの部屋、いつもの恰好をしていた詐欺師。
見舞いも一度もこなかった詐欺師は、両目を塞がれていた。
絶世の美女は、その両目を包帯で巻いていた。
絶句する。
「おまえ……なんで」
「キミが気を失ったあと」
南戸は目が見えないことなんて気にしないかのように、ぺらぺらと語る。
「アタシは『蚊帳吊り狸』という妖怪を使役しアレを惑わせて、蚊帳の幻にひととき閉じ込めたのさ。大怪我をしたキミを梔子クンと二人で道場の外へと運び、急ぎ門を閉めた。アレを逃がさないために作った結界が、逃げるために役に立つなんて皮肉だけどな」
「じゃあ、その妖怪を遣うために、目を……?」
「『蚊帳吊り狸』なんてのは妖怪としては低級さ。対価は爪の一枚程度で済んだよ。これはそのあと、キミの傷を塞ぐために使った西洋魔術の反作用だよ。とはいえ一過性のもので、もうほとんど完治してるはずだ。キミが謝ることはない」
見えてないはずなのに、俺が頭を下げたことを見透かして言う。
だとしても、半年だ。
半年も目が見えない状態で過ごしてきたってことだろう。
「……すまん」
「もともとはアタシの代わりにキミが殺されかけたことが原因だぜ。キミがアタシを助けてなけりゃああのとき全員殺されてたから、礼と謝辞はこっちの台詞だよ久栗クン。それに、見えても見えなくても同じだ。この半年はぐーたら過ごすだけだったよ」
「そうか……梔子、負担かけてすまないな」
『大丈夫』
ふるふると首を振る梔子。
ずっと南戸につきっきりでもなく、俺のところにも通っていてくれていた。たぶん南戸が指示したんだろうけど、それでも嬉しかった。
「話が一区切りついたところで、ここからが本題だぜ少年」
「ああ」
俺は姿勢を正す。
南戸はさっきの言葉通り、ぐるぐると包帯を外しはじめた。
相変わらず綺麗な目を、ゆっくりと開く。
「おお、さすがに半年ぶりは眩しいな」
顔をしかめて、何度もまばたきを繰り返す。
「うむ、万全だ。キミも完治したようだし、これでおあいこだな」
「そうだな」
「それでキミが聞きたいのはふたつだろ? アレの正体と、アレの現状」
まさしくそのとおりだ。
「キミはあれを最初、バイロケーションだと思ったか?」
「ああ」
征士郎が言っていた怪奇のひとつだ。この一か月で調べたが、バイロケーションとは他人も見えるドッペルゲンガーのようなものだ。ただ何かをするわけでもなく、存在しているだけの怪奇現象。幻のようなものらしい。
だが、それはとはまったく異なっていた。
「キミも薄々は勘付いているんだろ? 言ってみな」
「あれは『鬼』だろ? 梔子の姿をした、悪鬼」
「ご明察……と、言いたいところだけど少し違う」
南戸は肩をすくめて言い放つ。
「あれは『鬼神』だよ。鬼として生まれた存在ではなく、神格を奪われることで顕現し、鬼と呼ばれるようになった神様さ」
「それって……」
さすがに、思い当たるふしがある。
かつて梔子の個性を奪い、個性を得た神。そいつの神としての存在意義を矛盾させることにより、俺たちで倒したはずだった。
「可能性は考えていたさ、ずっとな」
南戸は目頭をマッサージしながら、悔やんだように言う。
「神格を否定された神は消える。だが、その存在だけは消さずに現世に顕現する神もいるんだよ。あのとき神を消したはずなのに奪われた個性が戻らなかったから、もしやと思っていたが」
そこまで聞けば、すべてが繋がる。
なぜ姿を消し、どこかに行方をくらませていた神がまた戻ってきたのか。しかも敵意を持って襲ってきていたのか。
……梔子だ。
俺と南戸は、梔子の個性を少しずつだが取り戻していた。もしかしたら梔子に戻った個性は、鬼神のやつの中から抜けてしまうんじゃないのか。
それに鬼神が気付いたとしてもおかしくない。鬼神は、梔子詞の個性として存在を得ているから、梔子にすべて奪い返されてしまえばおそらく存在そのものが、消えるのだ。
つまり死ぬってことだ。
「……だから、また奪いに来たってのか」
「それだけならまだいいが、ことはそう簡単じゃなかったんだよ。やつの標的は梔子クンの個性もだが、それを主導してきたアタシとキミもなんだよ」
「……あっ」
メールだ。
俺に届いた梔子からのメール。あれは紛れもなく、俺を誘い出すための罠だった。
「鬼神にとって予想外だったのは、アタシがそれを予見できたことだ。征士郎のドッペルゲンガー騒ぎのときなにか妙な気配が紛れてるのは感じていたからな。木を隠すなら森の中……隠れるなら本質が同じに見える現象に限る。それくらいの知性はあるだろうよ、なんせ基本的な能力は梔子クンそのものだからな」
「それで、あの道場の結界か」
「そうさ。あそこは陰陽術、西洋魔術、妖術、霊術、星術の五法を用いて強力な結界を張ってある。扉を鎖してさえすれば、どんな怪奇だって逃れられねえ。たとえ神だろうと悪魔だろうとな……ま、そう長くはもたないが」
ってことは、あの鬼神はまだあそこにいるのか。
ごくり、と息をのんだ。つい脇腹に手を当ててしまう。
「これで知りたいことは知れたな?」
南戸の笑みに、俺はうなずく。
「なら、これからどうするかだ」
そうだ。大事なのはこれから。
半年が経った。南戸も目が見えなかったからといって、手をこまねいていたわけじゃないだろう。
俺もこの一か月、できることはしてきた。
なにもリハビリして元に戻ってはい解決、とはいかない。
あくまで俺の目的は、梔子の個性を取り戻すことだからだ。
「鬼神として顕現したアレを殺せば、そこに奪われた梔子クンの個性が今度こそ戻るかもしれねえ。可能性はある」
「ああ、俺はなんでもできるぞ」
「キミならそういうと思ったが、然し、キミはなにか考え違いをしてるようだな」
と、そんな俺の出鼻をくじいたのはほかでもない詐欺師。
「こんどの相手はアタシと梔子クンがつくりだした虚構の神だ。過去の罪だよ。以前はキミの手を借りることで対処したが、今回は違う。神格を失い堕神として顕現してはいるものの、あの力は特殊だ。ただの鬼神じゃねえ。あれは『梔子詞の神』なんだ」
「……どういうことだ」
「コトバを司る神ってことだ」
南戸は表情を曇らせていた。
厄介だと言わんばかりに。
「本来なら鬼神といったって、本物の鬼じゃねえんだ。あくまで神格を失っただけで神として確立しようとするはずの消えゆく存在、むしろ弱い現象だ」
「弱い? あれが?」
ワイヤーを引きちぎるような相手だぞ。
「そこが今回の不幸なんだよ少年。梔子詞……コトバとしての名前を――力を得たアレは、鬼神の〝鬼〟という名前から連想される力を得ることができるようになっていても不思議じゃない。現にあのとき、梔子クンの容姿を勝手に歪め、まるで鬼と混ざり合っていたようだっただろ」
名前は体をあらわす。あいつはその力を得たのか。
たしかにそうだ。その姿を見て、俺は鬼だと思ったのだから。
「だから今回はイレギュラーにイレギュラーが重なった結果なのさ。そんな危ない橋を、またキミに渡らせるわけにはいかねえだろ」
まただ。
また拒絶。
俺も狙われているはずなのに、なぜか今回はこの詐欺師は俺を利用しようとしない。
いつもみたいにやればいいのに。
「でも、おまえひとりでやれんのか」
「やりようはいくらでもあるさ。アタシは詐欺師だぜ? 切り札のふたつやみっつくらい忍び持っているさ」
でも、だとしても。
それがうまくいくようには思えなかった。
「ま、万全に準備を整えてから臨むさ。万が一なにかあっても、あの道場ごと封印してしまえばキミに危害は及ばない。いままでがそうだったように、アタシに任せておけば一安心だろ?」
俺は、それが南戸の死亡フラグに思えてならなかった。




