11話 心
そういや初めて南戸に会ったのも、こんな夜だったな。
空に浮かんだ銀月がやけに眩しかった。
月の灯りが太陽を反射してるというのなら、月の大地はきっとガラスでできてるんだろう。透き通るような月光は音もなく冷たいアスファルトに降り注ぐ。
あのとき門の上でふんぞりかえっていた南戸の姿は、これ以上ないくらいに尊大で神々しかった。
……知らないってことはいいことだ。
俺は苦笑する。
南戸の性格を知ってしまえば、同じものを見てもそれが狙い澄まされた演出だと気づいてしまう。
同じ美しさでも違ってみえてしまう。
「……くだらねえな」
ほんと、くだらない思考だ。
自転車をとめて、いつものように梯子をのぼる。慣れっていうのは怖いもんで、人の家に入るために門じゃなくて梯子を使うことにも順応するらしい。
梯子を上までのぼり、視界に梔子屋敷の全貌が見えようかというとき、ふと声が聞こえた。
とっさに首をひっこめる。
「――意外と大人しいじゃない」
調律されたピアノの旋律のような美しい声だった。
その声に応えたのは、刃のように研ぎ澄まされた美しい声。
「無意味なことはしない主義でね」
聞き覚えのあるふたつの声に、俺はすこしだけ顔を覗かせて敷地内を見る。
玄関から出てきたのは甚平服と浴衣だった。
南戸と征士郎だった。
南戸の腕にはワイヤーが巻かれていた。逃げられないように厳重に縛られていた。
……見つかったのか。
なんてタイミングだ。つい歯噛みする。
南戸に聞きたかった。歌音を助けてくれた理由と、それを俺に言わなかった理由。
そして俺が感じている違和感を。
「ぜんぜん変わってないねそういうところ。姉さんらしいよ」
「征士郎こそ相変わらずみたいじゃねえか」
「イヤだなあ。ボクはむかしにくらべて背も伸びたし、よりスタイルよくなったでしょ」
「男らしくなったな」
「皮肉かな。それもまた姉さんらしい」
ふふふ、と笑う征士郎。
声だけ聞けば、久々に再開した姉弟らしい会話だ。
その裏に潜んでる意味を考えなければ。
南戸と征士郎はこっちへ歩いてくる。見つからないほうがいいのか、むしろ姿を現したほうがいいのか迷うところだった。このままでは南戸は征士郎に連れ去られてしまうだろう。真実を聞く最後のチャンスでもある。
どうするべきだ。
どうすれば――
「しかし驚いたぜ征士郎。ドッペルゲンガーまで操れるようになったのか」
「早速聞いたんだね。すごいでしょ」
……なんだって?
つい、梯子を持つ手に力を込める。
「ま、アタシの弟だ。それくらいできて当然だがな」
「まだまだ姉さんには及ばないけどね。あ、それと姉さんでしょ? あの少年にドッペルゲンガーの破り方を教えたの」
「残念ながらアタシじゃねえ。久栗少年の独力だ」
「へえ。そりゃあなおさら興味深いね」
ちょっとまて。
俺は動揺を抑えながら、頭をフル回転させる。
つまり、南戸は征士郎がドッペルゲンガーを操れることを知らなかったってことか?
……だとすれば、そもそも俺と南戸の口論した内容に矛盾が生じる。
もし南戸が知っていたフリをしていただけなら、俺が怒るのはまったくの筋違いだった。だが南戸はそれに乗ってきた。俺の怒りを挑発して梔子を傷つけて泣かせた。まるですべて手のひらの上で操ってるかのように振舞って。
「貴様、久栗クンに手を出す気か?」
「そこまではなんとも。姉さん以上に興味深い人間なんてこの世にはいないだろうしね。それか、手を出されて困る理由でもあるの? それならそれで手を出してみたくはあるかな」
「まあアタシの興味を引く人間はごまんといるからな。ざっと七十億人ほど」
「ふふふ、姉さんも嘘が下手になったね」
背筋がゾクリとする。
しかし、それより俺が驚いたのは南戸に対してだった。
南戸が足を止めて征士郎と対峙したからだ。
しかも、明らかな敵意をもって睨んでいた。
そんな表情なんて初めて見た。
「……なにかボクが気に障ることでも言ったかな?」
「忠告しておくぞ征士郎。アタシはたしかにおまえに腕力で劣る。こうして力ずくて連れ出されてしまえば、いくら抵抗しようが従うしかないだろう。だがあの少年に手を出すというなら許さねえ」
「……へえ」
征士郎の声もまた、冷たくなった。
「姉さんがそこまで言うほどの魅力が、彼にあるとでも?」
「いいや、多少偏屈な人間なだけだ。あの少年自身はな」
「ならそこまで姉さんに言わせるのはなんだろうね。ああ、いや考えるまでもないか」
征士郎はゆらりとした動きで、南戸との間合いをつめる。
睨み合い、そして騙り合う。
「あの小柄な少女だよね? この家の主……あの少年のうしろにいつも隠れてる子でしょ」
「だとしたら?」
「姉さんは詐欺師だから言葉じゃ理解し合えない。だけど、たとえば言葉を超えたなにかを持つ子だとしたら、姉さんは理解し合える。ボクと姉さんが理解し合っているように、肉親以外でそういう存在を見つけたとしても不思議じゃない。なんせ世界には有象無象のなかに溶け込んだ〝特異点〟があるからね。ボクと姉さんのような、奇怪な存在が」
南戸はぴくりとも視線を逸らさない。
その真意はわからない。
だが、征士郎の想像は止まらない。
「姉さんにとってあの少年は『鍵』なんだね。姉さんが望むナニカをつくるために必要な存在……そのナニカは教えてくれる気はなさそうだけど、まあいいよ。そこまで姉さんを夢中にさせるってことは、姉さんを愛するボクにとっては邪魔でしか――」
「言い忘れたが征士郎」
不意に、空気が変わった。
南戸をとりまく空気が、まるで歪んでいくかのような感覚を覚える。
そこに得体の知らないなにかが身を潜めているような言い知れぬ不安が、俺の肌を薄気味わるく撫でてくる。
あの征士郎でさえも、たじろいでしまうほどの威圧感。
錯覚だろうか。
南戸のうしろに、とてつもなく膨大な何か見える気がする。
「指一本でもアタシの逆鱗に触れてみろ。たとえ大事な弟だろうが……容赦はしねえ」
「わ、わかったよ姉さん。調子に乗りすぎたみたいだね。謝るよ」
征士郎のつかみどころのない笑みがひきつっていた。
それを眺めていた俺は、むしろ少し冷静になれた。
全部の事情はわからん。
だがひとつだけハッキリと理解したことがある。
やっぱりあいつは詐欺師だった。
大嘘吐きの最低野郎。
「……なにが厄介事の後始末、だ」
そんなもん守るために弟を脅すような良い性格はしてねえだろ。
「征士郎」
「わかった約束するよ。あの少年少女には手を出さない。その周りにも」
「ならいい」
「納得したなら行くよ姉さん。でも姉さんも肝に銘じておいてね。ボクを裏切るならそれ相応の代償を払ってもらうから。だからこれからは、またボクと一緒に過ごすんだ。むかしみたいに楽しく、ね。今度は勝手にいなくなったりしないで――」
だから俺が止めなきゃならん。
たとえどう転んでも、俺は南戸のことを好きにはならないだろう。
そんなこと議論するまでもない。
だが梔子にとっては大事な存在だ。
失えば涙するほど、感情を生み出すほどの存在だった。
そんなやつをこのままいかせるわけにはいかねえだろう。
俺は、門の上に立つ。
銀月を背中に背負って、まるでこの月が自分のものかと言わんばかりに嘯いて、格好つけて偉そうに。
「よう。無様だな、詐欺師」
「よっと」
門から飛び降りる。
梔子屋敷の石畳はまっすぐ玄関へと続いている。横には池があり、池の反対側には前庭がある。
勝手口なんてものはないし、門は開かずの扉と化してるから、実質この家の出入り口は門に立てかけられている梯子だけだ。
その梯子を、俺は蹴って倒した。
「やあ奇遇だね少年」
どこをどう見たら奇遇に見えるのか教えて欲しい。
征士郎は驚きはしたものの、慌てた様子はない。
南戸は「どうして来た」と言わんばかりに睨んでくるけど、いまは無視。
「こんな夜中に散歩なんて感心しないな。悪い男に襲われても知らないよ? それか襲いにきたのかな?」
「俺は男だ」
「なにか問題でも?」
大有りだ。おまえの頭がな。
「って、そんな漫才しに来たんじゃねえんだよ」
「じゃあボクに会いに来たんだね?」
「おまえじゃねえよ。おまえの後ろにいる。そこの詐欺師にだ」
来てほしくなかったんだろう。
そんなことくらい俺にもわかる。
だが俺は来てしまった。
話を聞いてしまった。
「教えてくれ。おまえはどうしたいんだよ」
「言っただろ? アタシは後始末を――」
「ちげえだろ」
もしおまえがそんな人間なら。
責任だけを無感情で飲み下せる人間なら。
「歌音のこと、助けてくれたんだってな。ありがとう」
獏なんてものを、歌音に与えてくれるはずもなかった。
俺は頭を下げる。
「……何か誤解してねえか久栗クン。アタシは単に、キミが順調に生活を過ごし、アタシの望みを手伝ってくれるようにできるようやっただけだぜ。キミのためや、キミの妹君のためにやったことじゃねえ」
嘘つけ。
たとえ歌音の腕が動かなくなったままだとして、たとえそれで歌音が自分の殻に閉じこもったとして、たとえ俺と歌音の関係に問題がおこったとしても、だ。
俺が梔子のことを放り出さないことくらいわかってただろう。
南戸ならそれくらい想像できるだろうし、それで万が一放り出そうとしたって、口先三寸で俺をまた梔子のために動かすことくらい容易だろう。なのに南戸は歌音を助けてくれた。
善意とか、悪意とか、そんなもん想像はできない。
だがキッパリ言えることは、南戸が歌音を助けたってことだ。
そしてそれを俺に言わなかった。恩に着せるなら言うはずだ。俺が知っている南戸はそういうやつだったはずなのに。
「まあとにかく、理由はどうでもいいんだ。礼を言いたかった。それと、そのおかげで借金地獄なんだよちくしょう」
ついでに苦言のひとつくらいは投げておく。
そんな俺の態度に、南戸は笑った。
腹を抱えて笑った。
「くっくっく……でも久栗クン、その借金を返せる見込みはあるのか?」
「ねえよバカ野郎」
「なら破産だな。不名誉にはなるが、返済義務は消えてなくなるぜ」
「なくらなねえよ」
俺は道を塞ぐように、腕をあげる。
征士郎が目を細めた。
「……どういうつもりだい、少年」
「どいつもこいつも勝手なんだよ。利用するだけ利用してサヨウナラなんて、都合の良い話だと思わねえか? そりゃあ都合の良い男ならそうされてポイ捨てされるだろうよ。だが残念だけどな、俺はそう簡単なやつじゃない。俺は平均的な男なんだ」
「平均? ボクが最も嫌いな言葉だよ」
「だが平均は強いぞ。それもとびきり、な」
平均的な男は返せない借金なんてしない。
借りたものは返す。
無難に。
無事に。
滞りなく。
そこにはプラスもマイナスもない。
「だから行かせねえよ。俺がおまえに借りを返すまでは、な」
「キミは愚かだな。だが嫌いじゃない」
「ボクは嫌いだね」
動いたのは征士郎だった。
素早く南戸のうしろに回り込んだかと思うと、南戸の足を払って地面に倒した。その一瞬で足も縛りあげてしまう。
「……征士郎」
「ごめんよ姉さん。本当なら姉さんに傷なんてつけたくない。ただこうでもしないと、逃げられるかもしれないからね」
「アタシは逃げねえさ」
「それでも不安なのさ。せっかく見つけた愛する姉さんを、もう見失いたくない」
なんつうシスコンだ。
とはいえ俺は舌打ちする。
南戸さえ味方になってくれれば、勝機はあるはずだった。征士郎の腕力とやらがどんなものか知らないが、二人で征士郎を追い返すくらいはできるだろうと。
だが、南戸にはそんな気もなさそうで、さらに身動きまで完全に封じられた。
「さて少年。どうするんだい?」
「どうするもこうするも、俺はそいつをここから行かせ――なっ!?」
油断はしていなかった。
だが気づいたときには目の前に征士郎の手があった。身を逸らす暇も与えられず、顔を掴まれて投げ飛ばされる。一瞬で視界がぐるぐる回り、石畳に体を打ち付けながら後ろに転がる。
止まったのは、門に激突したからだ。
「ってえな、くそ」
血の味がした。
距離を詰めた速度も片手で俺を投げ飛ばす力も、もはや人間業じゃない。
とはいえ手加減してくれたのか、幸いまだどこもたいした怪我はしてない。
立てる。
「ボクは有象無象が嫌いだ。でも、君は好きだよ」
「ちっ」
また一瞬で迫られる。
覚悟していればなんとか目で追えた。とっさに拳を突きだしてみたが、軽くかわされて背後に回られた。
まるで蛇のようにしなやかな腕で、首を絞められる。
「ボクと姉さんを前にしてもちっとも揺らがないなんて、とても興味深い。姉さんに殺されないのならいつかキミを丸裸にしてみたいよ。どんな環境で育って、どんな能力を持って、どんな信念があるのか。とても楽しいだろうね」
「こんの――変態――」
「もしよかったら、君も一緒に来ないかい? 姉さんは君自身にそれほど興味はないと言ってたけど、ボクは違うよ。ボクは君のことをちゃんと見るし、認めるし、受け入れる。利用なんてしないし、むしろ君にならいくらでも利用されていい。誰かのために生きることなんてしなくていい。欲望のままに、望むがままにさせてあげたいんだ」
アダムをそそのかして果実を食べさせた蛇のように、甘い言葉を耳元で吐いてくる。
「快楽こそが至高なんだ。なにかを我慢して、つらい思いをして、恩義を感じたり責任を負ったりすることはないんだよ。借りを返す必要なんてどこにあるの? 誰が見てるの? だれに褒められるの? そんなもの、無能な人間がつくりだした社会の足枷でしかない。そうは思わないかい?」
こいつの言葉は、心地いいんだろう。
たぶん、こうやってこいつは生きてきたんだろう。
このがんじがらめの世界で、ただひとり享楽的に、自由奔放に。
誰かを騙す必要もない。
ただ正直に。自分にも他人にも、ただ素直に。
「君もきっと気に入るよ。世間のしがらみややっかみからはボクが守ってあげる」
それは、南戸と正反対の生き方だ。
南戸は詐欺師。
いつでも嘘をついて、社会の中で生きていた。
自分を騙し、他人を騙し、がんじがらめのなかで。
褒められた生き方じゃない。
楽しいもんじゃないだろう。
「少年。君とボクは出会うべき運命にあったんだよ。だからボクたちと一緒においでよ」
「――るせえ!」
一瞬力がゆるんだ隙を見逃さずに、背負い投げして飛ばす。
しかし征士郎は器用に空中で体勢を立て直すと、バランスを崩すことなく悠々と着地する。
化け物としか思えない動き。
だが、そんなもんどうでもいい。
「俺はおまえと話してんじゃねえ!」
女装野郎には最初から興味なんてない。
「てめえはどうだって言ってんだ詐欺師!」
なんでそんなに大人しくしてんだよ。
なにが怖いんだよ。
「そんなところで寝そべってるなんて似合わねえんだよ!」
南戸は誰よりも完璧だと思ってた。
怖いものなんてないと、思ってた。
押し付けじみた理想だってわかってる。
「いつもみたいにへらへら笑ってろよ! そんなとこで寝そべってるなんて似合わねえんだよ! 自分の望みを、俺に任せようとすんなよ!」
「ボクは無視されるの嫌いだなぁ」
征士郎に首を掴まれ、持ち上げられる。
足が浮く。息がつまる。
抵抗しようとすると、後ろの門に勢いよくぶつけられた。
後頭部と背中に激痛が走った。
だが、俺はやめない。
「おまえは気づいてたんだろ! 俺たちが征士郎に目をつけられてるってわかってた! だからおまえはわざと梔子を悲しませた! 自分が嫌われるような態度を取って、梔子にわざとつらい想いをさせたんだ!」
違和感はこれだった。
本当に南戸が求めたことは、たぶんこれだった。
「おまえは自分がもうここにはいられないってわかってたんだ! だからあえて梔子に厳しく接した! 梔子に嫌われるように! 別れのつらさを、少しでも和らげるために!」
それが詐欺師の嘘だった。
すべてが梔子詞のため。
自分の痛みも、つらさも、なにもかも利用して。
俺が梔子を支えざるを得ない別れ方で、梔子が俺の支えを遠慮しないような感情を引き出し、タイミングや状況すべてに配慮して嘘をついたんだ。
「姉さんをわかった風にいわないでくれるかな?」
「うぐっ」
征士郎が腕に力を込める。
首を絞める力が増す。
動脈が止まる。
なんて怪力だ。抵抗に意味はなかった。
そろそろ俺の意識も限界だ。
「お……おまえが、本気で梔子を好きじゃないなら……止めようなんて思わない。だから聞かせてくれ……最後にひとつ、聞かせてくれ。嘘偽りのない、おまえの心を」
視界が暗くなっていく。
地面に横たわった南戸は、どこか悲しげな表情だった。
誰にも本心を知られずに生きてきた詐欺師は、言葉もなく小さく唇を動かした。
声には出さなかった。
「……。」
でも俺には見えた。
この銀色の月明かりのおかげで。
「うわっと!?」
一瞬、意識が飛んでいた。
絞めつけられていた首が解放されて、俺は咳き込みながら地面に倒れた。
征士郎が驚きの声をあげて後ろに大きく跳んだのだと、少し遅れて理解した。
その背中を見れば、なにがあったなんて聞くまでもない。
俺がピンチのときは必ず駆けつけてくれる。
そう約束してくれたこと、久しぶりに思い出した。
「……梔子クン」
詐欺師のつぶやきが風に乗って空へと消える。
梔子詞がそこにいた。




